玄関を開けると、むわっとした。
 「むわっ」と言うのがそのまま音に出そうな、そんな熱気。
 半ドンである土曜日、特に用事のなかった僕はそのまま自宅である猫寝荘へと帰宅した。
 時刻は13時30分。ちなみにお昼ご飯は駅前の立ち食いカレーで済ませてきている。
 今日の天気はどこか蒸っとした半分の曇り空。けれどお日様は元気良くその日差しを地上へと投げつけている。
 およそ半日留守しただけで、密閉した部屋の温度は外気温と比べると5度以上異なる。
 玄関の扉を開け放ったまま、僕は覚悟を決めて中へ乗り込む。
 駆け足はそのまま6畳部屋に開く窓へと。
 ガララ!
 開け放つ。
 同時にゆったりとしてはいるが、外の風が窓から流れ込み玄関へと吹き抜けていく。
 「暑いなぁ」
 思わず口に出てしまう。
 「クーラー、欲しいなぁ」
 お隣の土屋さんの部屋からは元気よく室外機が回る音が聞こえてくる。
 口に出して言ってはみるが、そんなブルジョワな物を買うだけの資金がないのは言うまでもない。
 「都会はなんでこんなにも暑いんだろう??」
 制服のまま、熱された畳に寝転がる。
 森にいた頃はこんなに暑さを感じることはなかったのに。
 「一面、コンクリートだからね、熱の逃げ場がないんだよー」
 不意にそんな答えが聞こえてきた。
 「へ?」
 左右を見渡せど、声の主は見えず。
 「クーラーがなければないなりに、涼む方法はあるんだよ」
 再度放たれた声は窓の外。
 身を乗り出して見てみれば、その左側。
 同じく窓から顔を出したお隣の雪音さんがいる。
 「涼む方法?」
 「うん」
 笑って彼女は言って、
 「一緒に試そうか?」
 そんな誘いに僕は当然頷いたのでした。


 足元には金タライ。
 張った水は足に心地良い。
 今まで熱と湿気を帯びて窓の外から流れてきた風も、心なしか涼しく感じる。
 そして僕らの手には、不自然な水色をしたアイスキャンディー――その名もガリガリくん。
 「ふぅ、夏はやっぱりこれだねぇ」
 手にしたガリガリくんを半ばまで一気にかじって頭を抱える雪音さん。
 冷たすぎてキタらしい。
 猫寝荘の2階。玄関側に面した廊下に各々椅子を出して僕らは並んで座っていた。
 金タライの横には蚊取り線香も忘れない。
 「夏ですねー」
 僕もまたガリガリくんを一口かじってほっと一息。
 足元から来る涼に、体に蓄積されている熱が抜けていく気がした。
 と、そんなまったりした時だ。
 「ただいまー、出張から帰りました♪」
 猫寝荘の入り口に現れたのは、乙音さんだ。スーツ姿でパリっとしている。
 「おかえりー」
 「お疲れ様です」
 僕らの声を聞きながら、階段を上ってくる。
 「あらあら、涼しそうね」
 「ウチもそーくんもクーラーないからね」
 暗に「買え」という雪音さんの答えに乙音さんは笑って返す。
 「エコって良い言葉よね。まぁ、涼しさを感じるアイテムをお土産に買ってきてあげたから」
 言って彼女は雪音さんに手のひらサイズの箱を一つ手渡した。
 そのまま「暑いー」と唸りながら部屋へと行ってしまう。
 「何です、それ?」
 「なんだろう?」
 雪音さんは包装紙を乱暴に破り、箱を開ける。
 「へぇ」
 「なるほど」
 中身はガラスで出来た夏の風物詩。けれどあまり都会では見かけなくなったもの。
 「軒先にでも吊るそうか」
 「お手伝いします」
 僕らは濡れた足のまま、『それ』を早速吊るす。


 ちりーん
 ちりりーん
 耳に心地良いガラスを揺らす音が響く。
 「あら、もう吊るしたの?」
 そう言って現れたのは浴衣姿の乙音さん。汗を流してきたのだろう、石鹸のいい香りがする。
 「あー、姉上のその格好、涼しそう」
 「雪音のも出しておいたわよ」
 「じゃ、着てくる」
 入れ替わるように雪音さんのいた椅子に乙音さんが座る。
 浴衣の裾が濡れないよう、少し持ち上げて白い足をタライに入れた。
 ちりりん
 鳴る風鈴。
 「ふぅ、生き返った心地」
 呟く彼女。
 「ほんと、夏ですねぇ」
 「そうねぇ」
 遠く、雪音さんの「着付けがでーきーなーいー」という声を聞きながら。
 僕達は風鈴の音に心をゆだねて、しばしの涼を楽しんだのでした。


白黒双月
6 真夏の夜の祭


 教室中が、いや学校中が沸き立っていた。
 これから訪れる漠然とした希望、そして勉学から解放される自由に。
 と、いうのが巧の談。
 明日から「夏休み」というものが始まるのだそうで。
 「一ヶ月以上も学校がないっていうのは困ったことね」
 「僕達が『ここ』に来ている意味がないしねー」
 此花さんとそんな会話を交わしたものだ。
 しかしそんな杞憂はすぐに払拭される。
 僕らがこちらの世界にきているのは、学校で勉学を学ぶ為だけではないことに改めて気づかされたから。
 僕らは人間の世界で学者になりたいわけじゃない。
 この世界でどう生きていくのかを学ぶ為にここにきているのであり、常に周囲から学ぶことが目的なのだ。
 学校が休みなのならば、同じように休みの学生達の真似をして人間を学ぶも良し。
 学校以外のつながりを使って人間達と別の接触を持つも良し。
 要は学ぶ方法などいくらでもあるということだ。
 と、いうのが此花さんが相談したという世界樹(イグドラシル)さんの談。
 言われてみればその通り。
 そう言う訳で、早速明日から僕はアパートの大家さんのお手伝いを。
 此花さんは駅前のファーストフード店でアルバイトを始めることになっている。
 「卯月ー」
 「はい」
 担任の先生が一人一人に1学期の成績表を配っていく。
 「どうだったかい、卯月くん?」
 「んー、平均だねぇ」
 前の席の井上くんが訊いて来る。
 僕の成績は中の中。特に悪い科目も良い科目もない。
 「井上くんは?」
 「僕もぼちぼちかなぁ。理数系にもうちょっと力を入れないとって感じだね」
 やがて先生は通知表を配り終え、休みの間の注意点をつらつらと述べた後、
 「それじゃ、休みだからといって遊びすぎるなよ」
 そう、〆言葉。
 学級委員の井上くんの号令で教室中にクラスみんなの「さようなら」の声が響き。
 夏休みが、始まる!


 そんなこんなで始まった夏休み。
 通常なら土日の休みも貴重で、一ヶ月以上ともなればそれはそれは充実したものになると思ってしまいそうになるが。
 逆に貴重な休みが大量にあると、1日2日なんてあっという間に過ぎてしまうものだ。
 そのことを心底噛みしめていた柚木 歩は頭を抱えていた。
 確かに陸上部の活動で忙しかった。
 忙しかったのだが、もうちょっとなんとかなったはずなのだ。
 「あぁぁ、なんてこったー」
 部屋で一人、頭を抱えてベットで転げまわる。
 気が付けば夏休み、それも5日目が終わろうとしている。
 今年は高校生活最初の夏だ。とてもとっても貴重な夏のはずなのに。
 彼女の予定は部活動とお盆に祖父の実家に帰ることくらいしかない。
 いっそのこと、部活動の部員の有志で海にでも行くか?
 「それもありかも」
 いやいや、大抵のメンバーがすでに予定が入っていたとか言っていたような気がした。
 「メンバーが少なければ、それはそれで誘いやすくなると言えばなるか」
 入学以来、彼女の心の片隅に居場所を作っている異性の顔を思い出して苦悩。
 そもそも彼の予定が埋まってしまっているのなら、そんな計画を立てるだけ無駄。
 「あー、なんで休み前に予定とか訊いておかなかったんだろう」
 「歩ー、入るよ?」
 ノックなしに扉が開かれる。
 「うわ、冷房効かせ過ぎ!」
 「なに、巧。何の用?」
 同じ顔を持つ双子の兄を一瞥し、彼女はころりを再度ベットの上で一回転。
 「うん、今日は北野大社でお祭りあるんだけど、歩はどうする?」
 耳を澄ませば遠く、鼓笛の音が聞こえてくる。
 毎年恒例の夏祭りだ。
 「外、暑そうだしなぁ。今日は部活でこってり絞られたし、今年はパスー」
 「そぅ? せっかく屋台のタダ券もらったんだけど使い切れないなぁ」
 「タダ券?」
 「うん」
 言って巧は1冊のチケットの束を彼女に見せる。
 それは関係者限定配布プラチナチケット――各屋台でのタダ券だった。
 「どうしたの、これ?」
 「休み前に卯月くんにもらったんだ」
 「?? なんで総一郎が??」
 「神社関係のバイトしてるみたいだよ。んで、自分は使わないからあげるって言われて」
 答えて巧は首を傾げる。
 今まで完全にだらけきっていたはずの妹が、ベットを飛び降りて彼に向かってくる。
 「どうしたの、歩?」
 「どうしたの、じゃない。お祭り行くんでしょ、早く行くよ!」
 そう彼女は答えると、巧の横をすり抜けて玄関へと向かう。
 「ほら、巧。早くしなさい!」
 「あー、はいはい。なんだよ、急に」
 サンダルをつっかけて先を駆ける歩を、巧は引っ張られるようにその後に続いた。


 普段は訪れる者など数えるほどしかいない、寂れているといえば寂れている神社。
 学校とは街を両断する線路を挟んで逆方向すなわち西口方向にあり、木々の豊かな小高な丘の上に鎮座している。
 いつもは静かなはずの社屋は今、その参道の両側に連なった屋台を初めとして賑わっていた。
 この賑わいは年始と同等か、それ以上だ。
 人ごみの中、双子の男女が社屋へ向かうやや登り気味の参道を上がっていく。
 「でも総一郎はどこでこんなバイトを探してきたのかね?」
 「アパートの管理人さんの手伝いって言ってたよ」
 歩の呟きとも取れる問いに、巧は丁寧に答える。
 「そういえば田舎から出てきて一人暮らしって言ってたね」
 「うん。うらやましいなぁ。僕もしてみたいな」
 「巧が一人暮らしなんかしたら、一週間もしないうちに引きこもりじゃない?」
 「そ、そんなことないよっ!」
 「ちゃんと炊事洗濯できる? どうせ人の目を気にせずに思い切りゲームできるからってのが目的になるんだろ」
 「う、ぅー」
 双子の兄があっさりと撃沈したところで、歩は屋台の一つに目的の人物を見つける。
 屋台は金魚すくい。子供達で結構賑わっているようだ。
 そんな屋台に顔を覗かせて、彼女は店を仕切る青年に笑顔を向ける。
 「よっ、繁盛してるね」
 「あ、歩。いらっしゃい」
 返ってくるのは、いつもどおりの穏やかな笑顔。彼女の心の隅に居場所を作ってしまった表情だ。
 卯月 総一郎。頼りない兄とどことなく似た雰囲気を持ちながらも、しっかりしているという印象がある彼女の同級生である。
 さらに、
 「歩さん、こんばんわ。巧さんもご一緒なんですね」
 総一郎の隣から聞こえてきた予想だにしなかった声に、彼女の思考が一瞬停止する。
 「此花さんのその浴衣、よく似合ってるねぇ」
 「ありがとう、巧さん」
 兄の間の抜けた声に、歩が我に返る。
 総一郎の隣には、金魚すくいに熱中する子供達に混じってこちらもまた同級生の此花 さくらの姿もあったのだ。
 客としてきていたのだろう、金魚をすくうモナカを片手にした彼女は薄い水色の生地に、桜色の花びらの模様が入った浴衣を纏っている。
 その姿は同姓から見ても綺麗と分類される彼女をさらに引き立たせていた。
 一方の歩自身はTシャツ&短パンという、部屋着そのもの。
 歩は今、自身が丸腰で敵地に侵入してしまったような感覚に襲われていた。
 「卯月くん、僕も金魚すくいお願い」
 「うん、どうぞ」
 彼女の感情など知らずに、巧はプラチナチケットから金魚すくいの部分を切り取って総一郎に。
 彼はモナカを2つ取り、1つを巧に。そしてもう1つを、
 「歩? どうかした??」
 「あ、な、なんでもない!」
 モナカを受け取り、子供達に混じって金魚が泳ぐ水槽の前に腰を下ろした。
 「げ、あっという間に破れたよ」
 「私も。難しいわね」
 「2人とも下の方を泳いでる出目金とか狙うからだよ」
 あっさりと敗退した巧とさくらに、総一郎は苦笑い。
 モナカを再度2人に渡す。
 「どう取ったらいいのかしら?」
 「上の方を泳いでるの狙った方がいいよ」
 困った顔のさくらのモナカを握る右手を取って、総一郎は水面あたりを泳いでいる小振りの金魚を素早くすくって彼女の左手に握られた小さな桶に。
 「あ、取れた」
 「へぇ、そうやるのか。よーし!」
 呆気に取られた顔のさくらと、何かを掴んだかのような巧。
 そんな3人の様子を眺めながら、歩はモナカと持つ右手を動かしながら唖然とした顔をしていた。
 「そうか、取り方を教えてもらうって手もあるのか。それを自然に出来るさくら、恐ろしい子!」
 「何をぶつぶつ言ってるんだ、歩?」
 「あ、いや、ええと」
 総一郎に問われ、歩は左手の桶の中身を彼に突き出す。
 「な、何匹まで持って帰れるんだ?」
 彼女の手桶の中には、30匹ほどの金魚が折り重なるようにみっちりと入っていた。
 「……5匹くらいまででお願いします」
 答える総一郎の声は懇願に近かったという。


 「おい、卯月。ちょっといいか?」
 そんな声とともに彼がハッピを着た兄さんに呼ばれたのはしばらくしてから。
 「あ、今井さん」
 「神輿の担ぎ手が足りなくてさ。手伝ってくれないか?」
 今井さんと彼が呼んだ青年は歩にとって、どこかで見たことがあるようなないような……。
 「今井先輩、こんにちわ」
 「おぅ、柚木くんではないか。こんなところで奇遇だな」
 「巧、知り合い?」
 「うん、学校の先輩だよ。電脳部の部長さん」
 「あー」
 彼女は思い出した。そしてそれはあまり思い出しても有意義ではないことと知る。
 今井 裕二――高校にいる変わりモノであり、弟のあまり同意できない趣味に造詣が深い上級生で、今年は3年生のはずだ。
 「こちらが君の妹さんか、確かにそっくりだなぁ。うん、かわいいかわいい」
 「あ、あまりじろじろ見るな」
 思わず卯月の後ろに隠れてしまう歩。
 「で、卯月。二人と知り合いか?」
 「はい、友達です」
 「ふーん、そうか。なら、君らも神輿を担がない?」
 「へ?」
 急な申し出に歩は首を傾げるが、一方の巧は、
 「へぇ、お神輿なんか久しぶりだなぁ。卯月くん、やろうよ」
 「でも、店が」
 卯月の心配どおり、金魚すくいの店舗は思った以上に繁盛してしまっている。
 「それなら私がしばらくお店の番しておくわ」
 そんな申し出はさくらだ。
 「浴衣だからお神輿はちょっと担げないし、ね」
 微笑む彼女に今井はしばし呆然としてから、はっと我に返り卯月に問う。
 「誰だ、この美人は?」
 「クラスメートの此花さんです」
 「おいおい、なんだこの人生における男女比の違いは。俺なんて女の子の知り合いは1人もいないんだぞ! 俺はどこでフラグを見落としたって言うんだ?! リセットボタンはないのか、セーブポイントに戻ってやり直しを!!」
 そう叫ぶようにして語り始めんとする今井のこめかみに強烈なチョップが炸裂する。
 「うるさいよ、バカ! アンタはもうここはイイから若桜さんを誘ってきな」
 チョップの連撃で今井をこの場から押し出したのは、同じハッピ姿の女性。
 「えっと、私は北上。話が聞こえてたけど、同じ高校の3年だから。よろしくね」
 言うが早いや、彼女は卯月を先頭に歩と巧の背を押しながら境内の方へ連れて行く。
 「じゃ、面倒だけどお願いね、此花さん、だったね」
 「はい」
 こうして3人は此花とお客の子供達に見送られて半強制的に連行されていったのだった。


 こう考えれば、Tシャツ短パンで正解だったんだよね。
 半刻前の考えを撤回しつつ、彼女は声を張り上げながら神輿を担いで境内から長い石段を下っていく。
 左肩には重量感、前には半日前まで見たかった背中。
 「はい、ワッショイ、ワッショイ!」
 「「ワッショイワッショイ」」
 皆の担ぐ神輿の前で大うちわを振りかざしながら先導するのは北上だ。
 「「ワッショイワッショイ」」
 歩の背中からは同じくハッピを纏った巧の元気な声が聞こえてくる。
 「みんな、がんばってー!」
 「ファイト!」
 「わっしょい!」
 沿道にいた此花が子供達に囲まれながら声援を送る。
 そんな中、
 「結局巻き込んじゃったね、ごめん」
 後ろを見ながらそう小さく呟く卯月。
 すぐ傍に聞こえるその声に、
 「なに言ってんだ、気にするな。祭りだろー、ほら、声が小さい! わっしょい!!」
 歩はごまかす様に大きく声を張り上げる。
 こうして祭は次第に佳境へと差しかかって行く。


 神社の境内のベンチに腰掛けてオレ――いえ私は、よく冷えたラムネを片手に夜空を見上げる。
 どーん!
 今どきシンプルな菊を象った黄色い大輪の花が一つ、咲いた。
 どーんどーん!
 少し遅れて紫と、同じく黄色のものが2つ同時に咲く。これは最初のものより少し小さい。
 「たーまやー」
 隣の少年が嬉しそうにそう叫ぶ。
 その笑顔はどの花火よりも私にとっては眩しい。だから思わず目をそらして夜空に再度視線を向けてしまう。
 どん!
 お腹の奥にまで響く重低音を伴って、最後の柳が夜空を覆いつくす。
 たった4発の花火。有名どころのそれと比べてなんと少なく、特徴もないものだろう。
 けれど私にとって、この小さな花火大会はとてもとても眩しく鮮やかに脳裏に焼きついたのだった。


 「みんなお疲れさま、好きなの食べてってね」
 「売れ残りだけどな」
 「それは言わない約束でしょ」
 両手一杯に焼きそばやお好み焼きの入ったパックを手にした北見と今井、若桜はベンチに腰掛けた3人にそれらをどさっと手渡した。
 神輿の担ぎ手で汗のまだ引かないハッピ姿の3人はとりあえず、めいめいに遠慮なくパックの1つに手をつけ始める。
 「久しぶりにお神輿なんて担いだよ。小学生の頃以来かなぁ」
 「気に入ったら来年も頼むわね」
 お好み焼きを口に運びながら言う巧に、北見が笑いながら答えた。
 「ところで総一郎はどこをどうしてお神輿担いだり、出店やったりすることに?」
 たこ焼きを頬張りながら歩が、隣に腰掛ける卯月にそう問うた。対する彼はゴムのような焼きそばを頬張りながら、
 「今借りてるアパートの大家さんが町長さんでね。そのツテでアルバイトなんだ」
 「へぇ、そうなんだ。北見…さんも?」
 彼女は気風のいい2つ年上の先輩に尋ねた。
 「私の家は町内で銭湯やっててね。こっちの今井は昔から家が隣で、自動的に青年会に入ってるんだよ」
 「近所付き合いも面倒ごとが多いよなぁ」
 「祭くらいしか手伝ってないくせに、面倒も何もないでしょうが」
 脇腹を遠慮なしに突かれて、今井はガードできずに逃げ惑う。
 「あ、えっとこちらの若桜さん、は?」
 「アタシ?」
 不意に話を振られて、ツインテールの少女はうちわを動かす手を止める。
 「アタシもそーくんと同じで大家さんからの依頼だよ」
 「そーくん?」
 「うん、そーくん」
 若桜は卯月を見る。その視線を歩は追いかけて、そして卯月と若桜を交互に見つめた。
 「むぅ」
 思わず唸る。
 「さて、お祭りも無事終わったことだし、汗を流しにウチの銭湯にでも入っていきなさい」
 「わー、銭湯なんて久しぶりだね、歩」
 嬉しそうに言う双子の兄に、妹は戸惑って答える。
 「いや、えと、着替えもないし」
 「私のと、ウチの弟のを貸すわよ。その辺りは気にしなくていいから」
 笑って答える北見に続いて、
 「じゃ、北見銭湯にしゅっぱーつ!」
 若桜がそう言って先導。
 それに引きずられるにして進む一行を見つめる視線に、この時は誰も気付いていなかった。


 銭湯「北見」は駅の西側、整理されたショッピングモールを越えて昔ながらの商店街が続く北端で営業している。
 瓦葺の大屋根の奥には、長い銀色の煙突が夜空に向かって伸びていた。
 「銭湯なんて大昔にお風呂が壊れたとき以来かな」
 「なんだか懐かしい感じだね」
 柚木兄妹はひときわ高い煙突を見上げながら、「男」「女」と書かれた暖簾の下がる入り口に立つ。
 近年は猫寝荘ですら風呂なしのアパートではなくなり、銭湯の必要性は減ってきている。
 また郊外に大規模なスーパー銭湯といったレジャー施設も出来ていることから客足は遠のき気味のようだ。
 しかしご年配の方々の憩いの場になっているようで、彼ら彼女らが人生を引退しない限りはここの銭湯は存続していきそうな勢いではある。
 「さ、入った入った」
 北見に背を押されて雪音と歩は女湯の暖簾をくぐる。
 「俺たちも行くか。さっぱりしようぜ」
 「はい」
 「そうですね」
 さわやかに今井は言いながら暖簾をくぐ……った先には仁王立ちの北見嬢。
 「お約束をするんじゃないよっ!」
 「ぐはっ!」
 顔面パンチを受けた今井は「女」と書かれた暖簾の外に追い出される。
 「いや、そのノリは無茶でしょう」
 「さすがは今井センパイですね」
 尊敬の念など全くない後輩からの視線を受け、彼は憮然と2人を睨む。
 「俺も当然覗きたくはない」
 「じゃあなんで?」
 「お約束だからだ。例えツルペタ3人組であっても、覗いてあげるというのが慈悲というもので、あぐはぁ!」
 暖簾の向こうから飛んできた桶が今井の後頭部を打って黙らせる。
 2人はしばらく困った顔で2つ上の先輩を見下ろすが、やがて諦めたように彼を引っ張りながら男湯の暖簾を潜り抜けていった。


 「うわぁ」
 巧の声が浴室によく響く。
 「卯月くん、きれいな富士山だねー」
 「うん、きれいだなぁ」
 湯気の立ちこめるその先には、富士山のタイル絵が壁一面に描かれている。
 「おー、しばらく来ないうちに富士山に描き変えたのか」
 『ケロヨン』と大きく書かれた桶を片手にした今井の言葉に巧は振り返る。
 「描き変え?」
 「あぁ、何年かに一回くらい描き変えるんだよ。前来た時は宮島だった気がするな」
 「へぇ」
 「ほらほら、さっさと体洗っちまいな」
 急かされ、卯月と巧の2人もまたそれぞれ桶を持ってお湯を体にかけ始める。


 「「ふぃぃぃ〜〜〜」」
 三人の男は湯船に並んで、同時にため息をつく。
 「よく体もんでおけよ、明日筋肉痛になるぞ」
 「「はーい」」
 今井の言葉を聞いているのかいないのか、卯月と巧は湯に沈む。
 「あれ?」
 ふと。
 卯月は何かを思い出しそうになる。さてなんだったか。
 鼻の下まで湯につかりながら、彼はぼーっと考える。と、
 『わー、雪音って肌まっしろね』
 『北見センパイも日焼けぜんぜんないですね』
 『そう? まぁ文化部だしさ。歩ちゃんはすっかり小麦色だけど、肌のハリが良いわねぇ』
 『わ、ちょ、どこ触って?!』
 そんな声が壁を一枚隔てた向こうから聞こえてきた。
 男湯を女湯を分け隔てる中央の壁は高さが3mほど。天井までは6mほどあるので上の方でつながっているのだ。
 「あー」
 そして卯月は思い出す。この街へ来た頃のあの出来事を。
 ふと彼は隣の今井と巧に視線を向けて、思わず問うた。
 「女湯見れるとしたら、どうする?」
 途端、豹変する2人の顔。豹変といっても、嫌なことを聞いたといった表情だ。
 「つるぺたどもには興味なし」
 「自分と同じ顔をした裸見たくないし」
 と、冷静にノーセンキューだ。次の声が聞こえるまでは。
 『しっかし、此花さんだっけ? そのプロポーションは何を食べたらそうなるの?』
 『ずるいねー、そう思わない? 歩ちゃん?』
 『あ、いや、その…はい』
 『ちょ、みんなで触らないで。くすぐった…いっ』
 「「なっ!?」」
 今井の目の色が変わる。つられてか、巧もちょっと変わった気がする。
 「なんで、いつのまにあの浴衣っ娘ちゃんが来たんだ?! くぅ、憎い、今はこの男女を別ける壁が憎い!」
 壁に頭をぶつけながら今井。
 「巧も残念?」
 「あ、いや、そんなことないということもないよ、うん」
 言いながら彼は困った顔で笑う。


 さて。
 君は覚えているだろうか? この街へ来た頃に学校指定の制服を購入したときのことを。
 その際、洋品店の店主はこんなことを卯月に教えていたはずだ。
 この街にある銭湯――北見銭湯の秘密を。
 君はその秘密をここで明かしてもいいし、そのまま胸のうちに秘めておいてもいい。


 秘密を打ち明けますか?
  → はい
    いいえ


 「えーっと、なんだかおかしな選択肢が不意に出たけど。確か」
 卯月は洋品店の主人の言葉を思い出す。
 確か彼はこんなことを耳打ちしてくれたっけ。
 『浴槽の中で、男湯と女湯を別ける壁際まで行ってみな。そこでちょっとばかり潜ってみるんだ。実は…』
 ということで、浴槽の壁際まで行ってみる。
 タイル張りの壁は当然厚いコンクリだと思われる。彼は小さく息を吸うと、ちょっと潜ってみる。
 ”ん?”
 右手の壁と思われていたそこには、こぶし一つ分くらいのスペースで横長にスリットが入っているのが見て取れた。
 スリットの向こうは明るく、ところどころ肌色の人影が見える。
 それはそのまま女湯……つまり。お湯から顔を上げて、彼は思わず呟いた。
 「あー、つながってたんだ、これ」
 「「ナンダッテーー!!」」
 次の瞬間、彼は二人の野獣(?)に押し分けられる。
 2人はお湯に潜り、優に1分。
 「??」
 「うーん??」
 やがて首を傾げて顔を出した。2人とも納得できないような、そんな表情だ。
 「どうしたの?」
 「いや、ね」
 「向こう側、暗くてよく見えなくてなぁ」
 「え? さっきはそんなことなかったけど」
 「「むぅ」」
 再度潜水を開始する二人。巧の普段見られない様子に卯月が若干戸惑いながら、整理する。
 「暗いって??」
 向こう側を誰かがふさいでいるということだろうか。
 卯月もまた、潜って見てみることにする。こうして3人で頬を寄せ合いながらスリットの向こう側を見てみると……。
 ん?
 「あ」
 水の中で巧がそう声を漏らしたのが分かった。
 スリットの向こうには目が、見えた。
 それは彼らと同じことをしている証左。
 その目はニヤリと笑みを浮かべていた、間違いなくそれは。
 「雪音さん?」
 思わず卯月も水の中で声にならない声で呟いてしまう。
 慌てて湯船から飛び出る3人。すると壁の向こう側から雪音のこんな声が聞こえてきた。
 「みんなには、とてもとても残念な結果を報告しなくてはならないわ。まだ3人とも小学生並み…」
 それはわざと聞こえるように言ったものに違いない。
 「何が残念だ、この痴女がぁぁ!!」
 「「涙?!」」
 走って浴室を飛び出す今井の目を伝った一筋を、卯月と巧は見過ごさなかった。そして告げる、冷静に。
 「走ると転びますよ」
 「ぐはっ!」
 ケロヨンの桶に足を突っ込んで盛大に転ぶのを見送りながら、改めて汗を流した二人も風呂を上がったのだった。


 「楽しかったね、歩」
 「そう、だね」
 まだ日中の熱気を帯びて生暖かい夏の夜風を受けながら、彼女は大きく息を吐く。
 空には夏の大三角形である、こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブが地上の光に負けじと輝いていた。
 「またこうして遊びたいな」
 思わずぼそりを呟く彼女に、
 「そう思うなら、卯月くんをどこかに誘えばいいのに」
 「な、なんでわざわざそんな」
 「まぁ、いいけど。ちゃんと言わないと伝わらないよ。あとで後悔とかされても困るからね」
 「別にしないよっ」
 そう言い放つと彼女は早足で巧を追い抜いていく。そんな妹の背を追って、双子の兄もまた帰路の足を速める。
 暑い夏はまだ始まったばかりだと、この時の彼らはまだ思っていた。


 「でもさくらがそーくんのクラスメートだったとはね、びっくり」
 「挨拶が遅くなりましたね、改めてよろしくお願いします」
 帰路。
 僕は雪音さんと此花さんの三人でアパートへの道を歩いていた。
 長風呂したつもりはないけれど、火照った体に夏の夜風は心地良かった。
 「雪音さんは此花さんとはお知り合いだったんですか?」
 初耳だった。なにせ此花さんは人間ではないのだから。
 「うん、去年だったかな。例の桜並木のある土手でお花見してた時にね」
 「へぇ、世の中狭いものですね」
 「そうねぇ。っと、あそこに見えるのは姉上達かな?」
 雪音さんは足を止める。交差点の向こう、まだ祭りの余韻の覚めやらない大通りに数人のグループが立っていた。
 それは猫寝荘の住人達。大家さんに連れられてどこかへ向かう最中のようにも見える。
 その中の1人、乙音さんがこちらに気がついて大きく手を振りながらこちらへ駆けて来る。
 「どうしたんです、姉上。みんなで揃って」
 「探したのよ、貴方達。これからアパートのみんなで打ち上げに呑みに行くところなの。行くわよ」
 「僕達は未成年だけど」
 「誰もお酒を呑めと言わないわよ、ウーロン茶でOK」
 微笑む乙音さんは、ふと僕の隣の此花さんに気がついた。
 「あらあら、久しぶりね。さくらちゃんも一緒に来なさい。大丈夫でしょ、大丈夫ね」
 「あ、あの、その、えー?!」
 乙音さんは強引に此花さんの右手を掴むと、元来た道を走り出す。
 「もしかして乙音さん、ちょっと酔ってる?」
 「全く、強引な」
 僕と雪音さんは互いに顔を見合わせ、
 「早くなさい、2人とも」
 「「はーい」」
 微笑み合うと、交差点で待つ猫寝荘の面々の下へと駆け出したのだった。


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