季節は若干遡る。
 まだじめじめとした梅雨が始まるかどうかといった、春の終わりの頃。
 「………なんてことだ」
 青年は唖然と呟いた。
 彼の周囲には、彼の尊敬する師や兄弟子達が無造作に倒れている。
 その誰もが「明らかに手加減された」攻撃を受けての結果である。
 半身が凍りついた者、火傷を負った者、鋭利な物で切られた様な傷を負った者、強い衝撃を受けて伏した者。
 ダメージの質は様々だ。
 そして今、この場に動ける者は彼ともう一人しかいない。
 もう一人――目の前に立つ、褐色の肌を持った少女。
 彼女こそが、彼の所属する国家機関「陰陽省 熱田庁」の待機メンバーを全て叩き伏せた本人だ。
 赤い着物から伸びる細い手足には武器もなく、相手を叩き伏せるだけの筋力があるとは思えない。
 目を見張る部分があるとすれば、それは彼女の額から伸びた1本の「角」である。
 「鬼、か」
 青年の渇いた喉からこぼれ出た言葉に、彼女は小さく微笑み。
 「見つけた」
 彼に向けて右手を伸ばす。小さな手のひらから生まれ出るのは、地獄から引き寄せたような青白い業火だ。
 それが青年に巻きつき、その身を焦がす―――が。
 「やはり、効かない」
 小さな少女の呟き。
 青年が驚いているのは、少女一人に天下の熱田庁が潰されたためだけではない。
 彼自身に『術』が効かないことに、驚いていたのだ。
 唖然とする彼に、少女は小走りに歩み寄りそして再び手を差し出した。
 今度は攻撃の為の手ではなく、
 「探した、土御門。清明の血を引く契約者」
 握られた手からは、僅かに暖かな、見かけ相応の感触しか伝わってこなかった。


白黒双月
7 ある陰陽師の誕生


 土御門 亜門は古来より陰陽を生業とする家に生まれた男だった。
 幼少より陰陽術を叩き込まれ、その術を生かすべく「公務員」としてかつての陰陽寮―――今では一般には公開されていない裏の省庁である「陰陽省」に配属。
 彼の脳裏には世の中に跋扈する魑魅魍魎どもを来る日も来る日も調伏することを思い描いていたという。
 しかし実際は。
 「世の中は広いなぁ」
 唖然とするほど、彼の習得していた陰陽術は稚戯に等しかった。配属から3年で、彼自身自らに才能がないことを自覚したほどだ。
 日々出張に出ている熱田庁の主力メンバーの実力を数度、サポートとして同行した際に見たことがあるが、レベルが違った。
 彼らの繰り出す陰陽術は亜門の最大妖力の数十倍はあり、それは修行をして身に付けるどうこうという問題ではなく、生まれながらの才ということだと知った。
 そして5年目の今年。
 術の向上も見受けられず、妖力も増えず。ただ力仕事が多い為に無駄に筋力だけはついて、とても術師には見えないガタイの良さに磨きがかかっていた。
 相変わらずの下働きを手際よく終え、数人の後輩に後を越された己自身をふと思い直した時の事である。
 一人の鬼に襲撃を受けたのは。
 主力メンバーが出張の為にいないとはいえ、熱田庁は熱田神宮の結界に守られた聖域のはずだった。
 また老いたとは言え、徳の高い術師先生や才能のある術師見習いが多数控えるこの場を襲ってくるなど、考えられない話だ。
 だが現に、目の前の鬼の少女は結界を突き破り、全ての抵抗勢力をなぎ倒して唯一立っている彼の前にいる。
 それも倒れた仲間達には致命傷の者はいないことが見て取れる。それは彼女の手加減。
 額の角からも、彼女は鬼であると考えられる。
 鬼とは人の力を遥に凌駕した能力を持つ種族だ。
 主にその能力は身体的な面に――怪力という部分に特化されがちだが、たまに妖力に特化した化け物が生まれることもあるという。
 彼の手を取る彼女は、陰陽五行の全ての術を最高レベルで行使しうる、その化け物だった。
 そしてその術を数度食らいながらも、全くダメージを受けていないのが、土御門 亜門である。
 「どういうことだ」
 「それが貴方の能力、土御門」
 彼をやや見上げる形で、たどたどしく単語をつむぐ彼女。
 「そんな能力が俺にあるはずが…」
 「これまで試したことは、あった?」
 「……」
 問われ、言葉に詰まる。
 訓練であっても攻撃系の陰陽術を人にかけたりかけられたりすることはなく、そもそもそんなことはご法度だ。
 「それが清明の血の能力。絶対の対術特性、そして」
 鬼の少女は懐から白い面を取り出す。
 目の部分だけが開いた、無表情な白き面。
 「我ら鬼が島の一族、今ここに古き盟約に準じ、貴方の力を求める」
 片言ながらもそう告げると、彼女は面を彼の顔に押し当てた。
 「むごっ?!」白い仮面は吸い付くように彼の顔を覆う。
 反射的に彼は両手で顔のそれをはがそうとするが、まるで皮膚の一部になってしまったよう。
 ジャストフィット、としか言いようがない。
 その時である。
 「これは一体?!」
 「貴様かっ!」
 背後から誰何の声が2つ。
 振り返ればそこには、出張に出ていた熱田庁の実力トップ2,3の2人の姿がある。
 一人は痩身の青年。鋭い眼光で亜門を見据えており、すでにその両手には数枚の札が握られていた。
 もう一人は中年の女性。スラリとした体躯だが、そこから繰り出される打撃は岩をも砕くことを亜門は知っている。
 2人とも亜門を見つめる目は、敵を睨むそれと同一だ。
 「い、いや、違います。これはそこの鬼が…あれ?」
 つい先程までいたはずの鬼の少女の姿は煙のように消えていた。
 あるのは、怪しい面をつけた亜門一人。
 「気をつけろ、たった一人でこの熱田庁を落としたヤツだ」
 「分かってる、サポートよろしくっ!」
 放たれる札を援護射撃に、女性の方が直接打撃を武器に亜門に襲い来る。
 「っ?!」
 一瞬の間に彼我の距離は0となり、亜門の顎、胸、腹の中心三点へと連打が決まり彼の身は背後へとはじけ飛ぶ!
 背後にあった土壁に半分めり込んだ形の彼に、飛来する札の爆砕の力が強連打した。
 舞い上がる土埃を避けるように背後へと飛ぶ陰陽師の女性。
 打撃と術の直撃を受けた亜門はしかし、その土埃の中で。
 『打撃軽減95%/術効果無効』
 仮面からの暗示とも取れる強力な防護術により、何事もなく立っていた。
 「なんだこれ? これだけのダメージ食らっても突かれたくらいの感触しかないなんて」
 彼の驚き以上に、攻撃の手を加えた2人が驚いていた。
 「なんだ、アイツは。全くダメージが通っていないようだぞ??」
 「そんな馬鹿な!」
 「よせっ!」
 男の制止を振り切り、女の方が再度亜門に襲い掛かる。
 その足を大きく振りかぶり、彼に向けて踵落とし!
 「わっ!」
 思わず亜門は右手で高速で振り下ろされる彼女の足を払いのけた。
 『筋力増加800%』
 まるで木の葉を振り払うかのような手の感触の後、女陰陽師は足をおかしな方向に折り曲げて横っ飛びに吹き飛んだ。
 その先には男性陰陽師がおり、
 「「がっ!!」」
 2人は重なるようにして激突、しかし吹き飛んだ勢いは止まらずにそのまま背後へ5m飛んで建物の壁を破壊することでようやく止まった。
 「え……マジですか?」
 ピクリとも動かない2人を見て、硬直する亜門。
 『3分経過/装着解除』
 ポロリと、彼の顔から仮面が落ちた。
 その下から現れるのは、唖然とした亜門の顔だ。
 彼は周囲を見回す。
 そこかしこに傷を負い、伏した仲間達。壊された施設に装備品。
 そして今自身が壊してしまったもろもろと、主力のうちの二人。
 今、ここで動いているのは彼しかいない。
 やがて我に返った彼は、慌てて足元に落ちた仮面を懐に隠すと、非常電話を使って外への連絡と救護班の要請をかけたのだった。


 騒然とする熱田庁に亜門が置手紙を一つ置いて立ち去ったのは翌日のこと。
 運がいいのか悪いのか、鬼の少女に倒された職員たちはそう大した怪我ではなかったのだ。
 だがしかし、彼が倒してしまった二人の陰陽師は骨折を伴う重傷。しばらく戦線復帰は無理だろう。
 不可抗力とはいえ、自身が起こしたことが一番熱田庁にダメージを与えてしまったことに居たたまれなくなり、彼は飛び出したのだ。
 「これからどうしようか」
 やっと自分自身の今後の身の振りに考えが及んだのは、適当に乗った電車に揺られて6時間後のこと。
 「何も考えなしに、飛び出した?」
 「む。ばれてはいないとはいえ、居づらいからな」
 「計画性のなさは、清明そっくり」
 「そんな大昔の人と比べられても…って、あれ?」
 亜門はハッと我に返る。
 ガタゴトと揺れる電車は席が向かい合わせのシート席。
 時間は夕方前と、ただでさえ過疎路線な上に人もあまり乗らない時間だ。
 ガラガラな車両の彼の目の前には、一人の少女が座っている。
 額に角を持つ、鬼の少女。
 焼けたような褐色の肌から覗く透き通るような青い瞳に、亜門の間が抜けた顔が映っていた。
 「君は一体、何者なんだっ」
 亜門は、ややうわずった声で目の前の少女に問う。
 後ろへ下がろうにも、硬いシートはそれ以上の後退を許さない。
 対する鬼の少女はそんな亜門とは対照的に、特にその顔に表情を浮かべることなく彼の問いに答える。
 「私は鬼が島からの使い」
 「鬼が島?」
 「そう、鬼が島」
 彼女は小さく頷く。亜門は僅かに頭を抱えて、
 「桃太郎に出てくる、あの鬼が島?」
 「その、鬼が島」
 「実在するのか」
 「その指摘は、半分当たっていて、半分はずれている」
 「は?」
 「私達は、清明と契約を結んだ。彼を助ける代わりに私達も助けると」
 「俺は清明じゃないが」
 「清明の直系。だから貴方が私達を助けなくてはならない」
 「待て待て待て!」
 亜門は首を激しく横に振る。
 「そんな大昔のこと、俺は知らん」
 「貴方にとって大昔でも、私達にとっては昔というほどでもない」
 鬼の少女は僅かに眉をひそめ、続ける。
 「鬼が島は清明亡き後、封印されて世界とは外れた場所に、ある」
 「外れた場所?」
 「そこは時の流れが、きわめて遅い。そしてこちらの時間で108年に一度だけつながる」
 「……島ごと異界に封じられているということか? 今では考えられない大規模な術だな」
 「それを解けるのは、清明の直系である、貴方だけ」
 「いやいやいやいや!」
 再度亜門は首を横に激しく振った。
 「そんな太古の大規模な封印術を、今時の陰陽師が解けるものかよ。それ以前に俺の陰陽術は情けないことだが程度が低い」
 特に後半は自嘲の思いを込めて告げる彼に、しかし鬼は首を横に振る。
 「大丈夫」
 「なんだその自信は」
 「清明は術すら、使えなかった。それに比べれば、ずっとすごい」
 「へ?」
 「清明は『術が全く効かない』能力しか、なかった。彼の代わりに、私達が陰陽術を、使った。彼を守る為、その仮面も作った」
 「マジですか?」
 亜門は驚きつつも懐疑的な目で彼女と手にした仮面を見る。
 彼女の熱田庁を制圧した圧倒的な術式、仮面の力、亜門自身の術に対する遮断能力。
 そのどれもが彼自身の目に焼きついたものだ。それを前提に鬼の少女の話を聞く限りは、全くの嘘とも思えない。
 「私達が求めるのは、その清明の能力と同様の力を持つ、貴方。その能力で、鬼が島を救ってほしい」
 「どういうことだ? 術が効かない俺の能力が異界にある島をどう救うっていうんだ??」
 その問いに少女は困った顔で小さく首を傾げると、
 「来てくれれば、わかる」
 「なんだそりゃ」
 「108年、清明の末を探した。その間に、難しいことは、忘れた」
 「ちょっと待て、ってことはお前」
 亜門は少女を驚きの目で見る。
 「お前、100歳オーバーか?! ババアなのか、ババアなんだな?!」
 そう叫んだ亜門のアゴに少女のアッパーがクリーンヒット。
 仮面の力が作用していないこともあり、良い具合に彼の脳がシェイクされる。
 「私の名はメノウ、歳は秘密。貴方には鬼が島に来てもらう」
 「108年に一度だろ、行けるのは。次はいつだよ」
 「来週」
 「早いな、おい」
 「だから、私と一緒に来てほしい」
 彼女は細い手を彼に差し伸べた。亜門はしかし、
 「俺のメリットがわからない。清明との契約といっても、それは俺との契約ではない訳だしな」
 「メリット……、契約は生きている、それがメリット」
 「??」
 「貴方は私達を助ける、私達は貴方を助ける、だから」
 鬼の少女は小さく微笑んで続ける。
 「私達の、私の全ては貴方の物」
 告げた少女を見つめながら、亜門はしばし考え、そして苦笑い。
 「俺はロリコンじゃないからな」
 「??」
 首を傾げる彼女の細い手を握ったのだった。


 水平線の向こうから、まばゆい光が満ち満ちて。
 やがて神々しいばかりの太陽が顔を出した。
 日が昇る。
 それは普遍的な日々の出来事。
 ここから見える、水平線から昇る太陽はこの108年間繰り返し見られたものだ。
 しかし。
 しかし、今日は違う。
 日が昇る、その瞬間。
 完全に見えていた太陽の中に黒いものが生まれた。
 揺らめくそれは、まるで日を食らうように徐々に徐々に大きく、そしてその形状をはっきりとさせていく。
 日が完全に昇る頃には、それはそこに姿を現していた。
 何もなかったはずの、どこにでもあるような沖合いの水平線。
 そこにぽつんと、島が浮かんでいる。
 まるで鬼の頭のような、大きな岩山を抱えたその島を伝説の中ではこう呼んだ。
 『鬼が島』と。
 だが108年に一度しか現れないこの世では、その伝説すら知る者はすでにいない。


 「うぁ、マジかよ」
 波打ち際の砂浜で、彼は水平線に浮かんだ奇岩のある島を見つめて呆然と口を開けていた。
 「半分冗談かと思ってたのに、いやいや、あれは蜃気楼ってことはないか?」
 「ない」
 独り言のようなそのボケに、背後の少女がツッこんだ。
 梅雨入り前の季節とはいえ、まだ朝方は寒い。
 2人は『たたみいわし』と銘打たれたダンボールを身にまとって砂浜で夜を明かしていた。
 「ところでどうやってあそこまで行くんだ?」
 彼――土御門 亜門は隣の角を持つ少女――メノウに問いかける。
 「舟でもどこかから借りてくるか?」
 「歩いていく」
 「それとも泳ぐ……には距離ありすぎるしな」
 「歩いて、いく」
 「あー、えーっと、それとも」
 「歩いていく」
 「………」
 少女のかたくなな言葉に、亜門もついに押し黙る。
 メノウはダンボールを脱ぎ捨てるように立ち上がると、海に向かって胸の前で両手を突き出し。
 「えぃ」
 両手を横に、勢いよく開いた。
 ザザザザザッ!!
 途端、まるでモーゼが海を割るのと同様に横幅で2mほどの道が海の中に貫き走る。
 「さ、いこ」
 少女の誘いに、若き陰陽師はおずおずと頷いたのだった。


 2人が歩き過ぎたと同時に、背後の道が海水で埋まっていく。
 まかり間違って地元の人間がメノウの作った道を迷い込むことはこれでないのだが、亜門としてはいつ自分もろとも道がふさがってしまうかが心配でならない。
 普段よりも早足で歩くこと1時間。
 2人は遠く見えていた鬼が島へ到着した。
 「むぅ、ここが昔話か何かでよく聞く鬼が島か」
 亜門は眉を潜めた。
 朝早いこともあってか、人気のない港町はどことなくノスタルジックな雰囲気を醸し出しているが、田舎の港町といわれればそれ以外の表現がないほど普通の景色。
 「なんだか思ったよりも普通だな」
 そのままの感想が漏れる。
 「108年前は、桟橋と民家が数件しかなかった」
 メノウの方は驚いているようだった。
 「すごい進歩」
 「そ、そうか?」
 メノウを先頭に街中へ進む2人。
 入り組んだ町並みを5分ほどで抜けると、左右を田畑に囲まれたのどかな道に出る。
 「どこに向かうんだ?」
 「長老のところ」
 振り向かずに先を急ぐメノウはそう答える。
 「おっと!」
 後に続く亜門が慌てて足を止めたのは、そのメノウの足が止まったからだ。
 「どうした?」
 問うてから、彼は彼女が立ち止まった理由を知る。
 進む田舎道の先からやってくる人影が一つ。
 腰を曲げて杖をついた、白髪の老人だ。
 彫りの深いその顔には、額のところに太い角が一本ついている。
 「長老!」
 叫ぶメノウ。
 その声にようやく気付いたのか、老人は細い目を大きく見開いて彼女を見た。
 「もしや、メノウか?」
 「はい!」
 老人に駆け寄る彼女。慌てて亜門もその後についていく。
 「はて、しかしメノウは外の世界にいるはずじゃが」
 「戻って、まいりました」
 回答に老人はしばし考え……。
 「おおぅ、108年目か、今日は!」
 「おぃおぃ」
 思わずツッこむ亜門。そこで老人は初めて彼の存在に気付いた様子でメノウに問うた。
 「メノウよ、この者は?」
 「は。清明の血を引く者に、ございます」
 「なんと、まさか見つかるとは?!」
 「おぃおぃ」
 亜門の再度ツッコミ。
 「ああ、すまんな。あの非モテな清明が結婚して子供できたとは思いもしなかったものでの」
 「あの、108年探した私って、一体??」
 「おお、そういう意味ではなくての。まぁ、なんだ、その…ご苦労だったな、メノウ」
 この時、亜門は怒りに震えるメノウの肩を、これ以上もなく優しく叩いたのだった。


 鬼が島は108年に一度しか外界とはつながらない。
 確かにその通りではあるが、TVやラジオは入るそうだ。
 また座礁して迷い込む船や、迷惑なことにゴミなども流れ着いたりするそうで、外界からの情報はそこそこ得ているのが現状。
 島内で娯楽含みで全て自給自足でまかなっており、地熱による発電まで行なっているのには亜門は目を見開いたくらいだ。
 長く外界より隔絶されつつも、それなりの生活を送っていた鬼達は特に不自由はないそうで。
 「だが、まぁ。やはりそろそろ外には出たいものだの」
 長老を始めとして鬼達の顔役が島の公民館に集まったのは、お昼を過ぎた頃だった。
 「で、俺は一体何をしたらいいんだ?」
 その問いに長老を含め、顔役達は顔を合わせて目配せしあう。
 やがて一様に頷いたかと思うと、
 「では早速、お願いしよう」
 長老はそう言って亜門を奇岩の麓まで導いた。


 まるで地球の中心へと向かっているかのような深い深い石段を彼らは降りていく。
 先頭を行く長老の持つ松明の炎が、階下から吹き上げてくる湿った風に今にも消えそうに揺らめいた。
 その度に何とか見えている足元が暗くなり、亜門は闇に飲まれるような錯覚に陥ってしまう。
 やがて時間の感覚も曖昧となり、階段を下り始めて何時間経ったのか?
 いや、まだ数分しか経っていないのか?
 全てが曖昧になってゆく。
 「大丈夫?」
 不意に後ろから袖が弱々しく引かれ、彼は振り返る。
 そこには心細そうな表情を浮かべたメノウが、彼と同じ目視線の高さで見つめていた。
 「…何が? 特に問題はない」
 「そぅ」
 視線を元に戻し、亜門は再び足を進めた。
 彼は自身の時間と空間の感覚が、今の呼びかけで元に戻っていることを知る。
 「っと」
 前を行く鬼の歩みが止まり、亜門は危うくぶつかりそうになる。
 「うっ」
 という声とともに彼の背中にポスンとぶつかるのは後ろにいたメノウだ。
 彼らがたどり着いたのは両開きの鉄扉のある狭い踊り場。
 長身の亜門の頭が天井に付いてしまうかどうかの高さしかない。
 長老の指示で前にいた鬼達が扉を開ける。
 ギギギときしんだ音を立て、重々しい扉はその口を開いた。
 「む」
 扉を潜ると視野が広がる。
 そこは巨大な岩のドーム状となった場所だ。
 長老が手にした松明を壁の縁にかけると同時、油が仕込んであったのか予め壁にかけられてあった松明に次々と明かりが灯る。
 それは円形に一周して元の松明に戻ってゆく。
 直径20m、高さは10mほどだろうか、ドーム状の部屋だ。
 その中心には荒々しい岩の柱がドームの頂上と床を貫いている。
 柱の胴回りは5,6mほどだろうか?
 「あれは?」
 亜門はその柱に何か刺さっているのに気付く。
 長さ1mほどの…木の棒のように見えた。
 「ここは?」
 「ここはこの鬼が島の中心にして最深部。島の根底ですじゃ」
 亜門の呟きにも似た問いに答えた長老は柱に向かって進む。
 亜門と鬼達もそれに従いついていった。長老が足を止めるのは中心の岩の柱の前。
 ここからならよく分かる。柱に刺さっているのは木刀だ。
 黒光りする刀身のそれは、何の木かは分からないが幾重にも年輪が刻まれており材質自体が年を経たモノであると思われる。
 そんな木刀の刀身の3分の2ほどが、岩の柱に食い込んでいるのだ。
 「そしてこの柱はここ鬼が島の土台とも言うべきもの」
 「これが折れると、島が沈む」
 ボソリといったメノウの呟きに、亜門は「そうか」としか答えられない。
 島が岩の柱一本で支えられているはずもないし、それが折れたら島が沈むなんてのは考えられない話だ。
 だが。
 それは亜門がこれまで過ごしてきた知識内での解釈であり、別の見方があるとすればそれもありなのかもしれない。
 108年に一度しか現世に出現しない島。
 そんな不思議な伝説を目の前で見ている以上、今の彼に否定するだけの力はない。
 「で、この木刀は?」
 「それがこの島を現世より隔絶した原因ですじゃ」
 「これは、生命の木の枝で作られた邪剣」
 長老とメノウの言葉に亜門は首をひねる。
 「生命の木――万物に宿りし生命を、混沌より生み出すとされる原初の木。世界樹とも呼ばれるこの世界の中心に生える木じゃよ」
 「かつてこの世に生命に満ち溢れていた頃、余剰となった力により『膿み』出されてたとされている剣。空間を切断する力を持っている」
 「ふぅん」
 亜門は2人の言葉を聞きながら、おもむろに木刀の柄を掴む。
 「そんな大層なものなのか、これが」
 彼が手を引くと、木刀はずるりと柱から抜けた。
 黒光りする刀身をみれば、確かに尋常ではない力を感じる…気がする。
 「はい」
 「ん」
 亜門はメノウから手渡された金属製の鞘に木刀を納める。
 「ん、どうした??」
 彼はメノウ以外の、長老を含めた鬼達が力なくその場にへたり込むのを見てたじろぐ。
 「いやはや、どうしたもこうしたも」
 「よもや急に邪剣を手に取るとは」
 「さすが清明殿の末裔といったところかの」
 鬼達は顔を見合わせながらそう頷き合う。
 「??」
 「この剣は」
 メノウは亜門が手にする木刀を眺めつつ、告げた。
 「108年で一番力が弱まるこの時でも、触れた者は剣に宿る圧倒的な力に消し飛んでしまう」
 「え…」
 「その神鉄を打ち抜いた、封刃の鞘に納めない限りは」
 そして彼の手から鞘に収まった木刀を受け取る彼女。
 「術式無効の貴方だから、できたこと。これで鬼が島の呪いは解かれた」
 彼女はそう、言葉を区切ってからこう言った。
 「ありがとう」
 言いづらそうに、はにかんで告げる彼女に長老を始めとした鬼達も後に続く。
 その時だ。
 「おはようございまーす」
 唐突に、やや間の抜けた声がこの地下ドームにこだました。
 鬼達の間に緊張が走る。
 その緊張を感じ取って、亜門もまた自然と身構えた。
 声の主は彼らが入ってきた扉の前に立っていた。
 腰までの黒髪を持つ、20半ばくらいの女性だ。
 亜門は確認する。
 彼女の額には、鬼族の証である角がないことを。
 いや、それ以前に気付いた。気付かないわけがない。
 何故なら、彼女は彼にとって……
 「乙音さん?!」
 思わず漏れた声に、今度は彼女の方が驚く番だった。
 「あら、もしかして亜門さん? こんなところで奇遇ですねー」
 ほのぼのとした物言いに、しかし亜門は逆に警戒を強める。
 「何年振りでしょう、ほんとお久しぶり」
 「5年ぶりです、貴女が操られて俺達の前から姿を消して」
 「操られていたわけではありませんよ、心外ですね」
 僅かに頬を膨らませて、彼女は歩み寄る。
 「同調していたんですよ」
 「…それはもっとタチが悪いですね」
 言って思わず彼は手にした剣を鞘のまま構えた。
 それを見て乙音は目を見張る。
 「あらあら、すでに解呪済みでしたか。亜門さんが清明の末裔っていう噂は本当だったんですか」
 あまり驚いた風にも見えないが、彼女は口に手を当ててしばし考える。
 「そちらにおられるのが、ここの鬼族の長さんですね」
 「…ふむ」
 不意に視線を長老へと向け、彼女は微笑んで告げた。
 「私の名は若桜 乙音。機族の代表として鬼が島の鬼族との協力関係を結びにまいりました」
 その微笑みは鬼族にとっての微笑となるかどうかは、まだ分からない。


 通された客間で、亜門とメノウは遅めの朝食を摂っていた。
 五穀米に薄めの味噌汁。鯵の干物に納豆とたくわん。
 どこか懐かしい味をゆっくりと噛み締めていると、亜門はその視線に気付いた。
 「?? なんだ?」
 対面に座るメノウがじっと彼を見ている。
 「…あの女」
 「あの女?」
 「乙音、とかいう」
 「乙音さんだな。どうした?」
 「何故、知っている?」
 亜門は味噌汁を一口すすると「ふむ」と頷く。
 「昔、一緒に住んでいた」
 ぷっ
 メノウが僅かにお茶を噴き出す。
 「というと変な風に取られる気がするから言い直すと、修行先に滞在していた家にいたんだ」
 「へぇ」
 何故かメノウは亜門の顔色を見るように伺っている。
 それに気を止めることなく、彼は続けた。
 「その頃は彼女はなんというか、俺も知らなかったんだが付喪の類だったんだろうな。色々あって家を出て行ったんだが」
 「初恋の、相手?」
 ぶっ、と今度は亜門が味噌汁を少し噴き出した。
 「図星」
 「いやいやいや、なんでそーなる?!」
 「焦りすぎ、かまかけ」
 「焦ってもいないし、もしもそうだとしてもだからどうした、うむ、そうだ。だから何か?」
 「…別に」
 メノウは亜門から視線をはずし、彼の残した最後のたくわんを無常にも摘み上げて自らの口の中に放り込んだ。
 「あー!」
 「ごちそうさまでした」


 普段から主要な鬼達の打ち合わせの場として使用しているのであろう、大きめの座敷に10を超える鬼達と女が一人。
 「私達はイグドラシルに敵対しているわけではありません、対立していると言った方がいいでしょう」
 女がそう、鬼たちに言う。
 「それの何が違う」
 「俺達を閉じ込めたアイツらは必ず倒す」
 「待ちなさい、皆の衆」
 長老の一言で、他の鬼達はしぶしぶ静まった。
 「で。貴女は何を欲し、何を我々に与えてくれるというのかね?」
 鋭い眼光を放ち、老いた鬼は彼女を睨む。
 対して彼女は平然と、変わらない笑みを彼らに向けてこう答えた。
 「本来ならばイグドラシルの行なった『呪い』の解呪と答えるところでしたが、すでにそれは行なわれていましたね」
 困ったように笑いながらの答えに、鬼達から失笑が聞こえてくる。
 「では我々には利はない、ということかの?」
 長老の言葉に、乙音は小さく首を横に振った。
 「この島の次元が元に戻ったことにより、この海域は『現実』に存在することとなりました、違いますか?」
 「その通りじゃ」
 「では世間は大騒ぎになるのではないでしょうか?」
 「「??」」
 首を傾げる鬼たちに、彼女は続ける。
 「貴方方が鬼であることを隠したとしても、記録のない島に戸籍のない人々が存在したとなると、これは大問題です」
 「そんなこと、人間の勝手な都合ではないか。我らにはどうでも」
 鬼の一人が叫んだ言葉に、彼女はやんわりと否定を入れる。
 「その人間の支配してしまっている世界へ『戻って』きてしまったんですよ、貴方方は」
 その言葉に鬼達からいくつか反論が出るも、やがてそれは小さな声となり沈黙へと落ち着いてしまう。
 「では、我々はどうしたらいいというのかね?」
 長老の言葉に、彼女は自信を持って頷いた。
 「それこそが私達の得意とするところ。海域データの変更や戸籍改竄なんて私達にかかればカップラーメンが出来る間に終わってしまいますわ」
 鬼達の間から感嘆の息が漏れる。
 「お主達、機族とか言ったな。わしらが世界に居るころはそんな一族は聞いた事がなかった。何者じゃ?」
 「私達は…人の作り出した電算機というネットワークに居を構える妖。植物のネットワークをもつイグドラシルと似て異なる存在です」
 顔を見合わせる鬼達。
 長老は同胞達の様子を一度見回した後、彼女にこう問うた。
 「なるほど、なんとなく理解した。我々が受ける恩恵は大きいようじゃ。だがわしらはお主らに何を与えたらいいというのだ?」
 長老の言葉に、彼女は怪しく微笑みこう伝える。
 「今後の協力と、イグドラシルの魔剣の処置を一存ください」
 会議は、荒れ模様を呈してきたようだった。


 「で、俺は今度は一体何をやればいいんだ?」
 再び鬼が島の深部。
 島の柱とされる岩柱のある地下ドームで、亜門は隣のメノウにそう尋ねた。
 彼の手には彼自身が柱から引き抜いた両刃の剣が握られている。
 木製のその剣――木刀に違いないのだが、それはセラミック製と思われる陶器で作成された鞘に収められ、簡単に引き抜けないように縄で柄とくくられていた。
 さらにその上から数枚の呪符が貼られ、霊的にも力が抑えられているはずだ。
 だが駆け出しの陰陽師である亜門のような素人に毛が生えた程度の者が見ても、剣からはどす黒いオーラが放たれているのが分かる。
 何も知らない者がこの剣を持てば、心の底から湧き上がる破壊衝動に当たりかまわず周囲をこの木刀で叩きつけることだろう。
 しかし陰陽を含む妖術、魔術全般が効かない体質である亜門の手にある限り、剣の魔力は完全に抑えられていた。
 「ここに来る者に、その剣を渡せば、いい」
 メノウは静かにそう答える。
 「ここに来る者? 誰だ、それ」
 「敵」
 「…おいおい、渡していいのかよ」
 「あの機族の女が、そう指示した。新たな契約により、我々鬼族はそれには従うよう、了承している」
 「乙音さんが、か。どんな契約を結んだんだよ、お前達と」
 「知らない。私が知る必要も、ないこと」
 だが、とメノウは珍しくその顔に表情を浮かべる。
 とてもとても、好戦的な顔だ。
 「戦わずして渡せとは、言われていない」
 「俺としては自分の能力的には戦闘を避けたいのだが」
 しかし亜門の呟きは虚しく無視されたのだった。


 彼らは遅めの朝食を摂った後、そのまま客間で疲れていたのか眠ってしまった。
 目が覚めた頃には日はすっかり傾き、早めの夕食を摂った後に再びここに通された、といった次第である。
 別れ際に長老からは詳しくはメノウに聞くことと、人間である亜門にとってはここの方がまだ安全かもしれない、と告げられただけだった。
 「ん?」
 遠く、騒ぎ声が聞こえてくる。
 複数の人々、いや鬼達の怒号と破砕音、のように亜門には思えた。
 「敵とやらがきたってことか」
 彼は懐から1つの面を取り出す。
 白い無表情なそれは、メノウから清明の末の者へと『返された』術法具。
 この面の力によって、亜門の術無効の能力を物理面でも大きくサポートすることができるという。
 「しかし」
 敵地である鬼が島に乗り込んでくる敵というのは、亜門が思う以上に強い存在だろう。
 と、ふと思い出す。
 同様に敵地である陰陽寮に乗り込んできて1人であっさり制圧してしまった鬼の少女の存在を。
 あの時の彼女の戦闘能力は目を見張るものがあった。
 今、彼女が傍らにある。
 亜門は彼女に視線を向ける。メノウは岩の柱に背を預けて暇そうに足をぷらぷらさせていた。
 「ふむ」
 彼は今度は視線を面に向け、そして。
 それを意を決したように顔に装着。
 前に陰陽寮でつけたときには余裕がなかったが、今は落ち着いて自身の状態を確認することができる。
 面をつけた瞬間から、彼の全身を何か暖かく硬いものが隙間なく包んでいく感触があった。
 「これが術無効の特性を物理無効に変換している感触か?」
 メノウによれば、面をつけた亜門の状態ならば5tトラックに時速80kmで衝突されても軽くデコピンを受けたくらいのダメージだろうとのことだ。
 10tトラックだと鼻にグーパンチを受けたくらいのダメージだというが、それは痛いのか痛くないのか微妙なところだろう。
 「敵の強さがどれくらいのものかが問題だな」
 亜門は自らの持つ数少ない陰陽術のうち、探査/評価の術を小声で起動させる。
 すると彼の視野に薄いスクリーンが生まれた。
 その状態のままで亜門はメノウを見る。
 スクリーンにはメノウが映り、僅かな時間を要した後に彼女の評価結果が映し出される。
 戦闘能力「B−」と。
 すなわちそれがメノウの妖力の評価値だ。
 ちなみにB−とは腕利きの陰陽師が3,4人がかりで封印にこぎつけるかどうかといった程度である。
 亜門が知る限りでは、そんな協力な妖怪がこの平和な日本ではこの数十年発生した記録は陰陽寮にはないはずだ。
 そんな化け物が今は味方であることに、心のどこかでほっと溜息をついたとき。
 1つしかない扉が開いた。
 現れたのは灰色のロングコートを着込んだ20代後半の男だった。
 灰色の短髪に、鋭い目が亜門とメノウに向けられている。
 その額には角は、ない。
 鬼族ではないということだ。それはつまり。
 「来た」
 メノウが亜門の隣に立ち、小声でそう呟いた。
 「あれか」
 亜門のスクリーンには対象の男の戦闘能力がD+と出ていた。
 近接戦闘ならば達人以上、術式専門ならば高位の導師クラスであり、決して気の抜ける相手ではないが。
 隣の少女の存在に、亜門は余裕を持って相対することができた。
 この時までは。
 「ふむ、これはどういうことか」
 コートの男は亜門を見て、そして彼の持つ剣に視線を走らせたらしい。
 「引き抜かれているとは、貴様の力か、人間?」
 かけられた声に亜門は反射的に身構えた。
 言霊に威圧を込めている。それは術式無効の亜門には通じはしないが、込められた感情は伝わっている。
 それは明らかな敵意、だ。
 男は構える亜門を見てにやりと微笑む。
 「なるほどなるほど、鬼の一族も黙って時を過ごしていたわけではないということか」
 そして、
 彼は、
 大きく吼えた。
 「んなっ!」
 「!?」
 亜門だけでなく、メノウにも緊張が走る!
 狼の遠吠えを思わせる男の声がドーム一杯に響き渡り、それが収まる頃。
 「戦闘能力がC++、だって?」
 亜門は効果時間が近づき消えつつあるスクリーンに映った数字に唾を飲む。
 彼らの前に姿を現したコートの男は、その頭部を狼のそれと思わせる獰猛なモノに変化させていた。
 しかしそれでも、メノウよりも能力的には低い。
 「犬神、かなり修練を積んだ強敵…」
 メノウの言葉が終らぬうち。
 犬神の姿が消えたかと思うと、亜門の懐に飛び込んでいた!
 「んなっ!」
 驚く彼のみぞおちに、強烈な右のブローが炸裂する。
 「ぐっ!」
 「む?」
 数十センチ宙に浮いた亜門と、なぜか後ろに飛びのいて距離を取る犬神。
 「ッチ!」
 舌打ち1つ、犬神はさらに亜門から距離を取ることとなる。
 犬神のいた場所に炎の嵐が吹き荒れたからだ。
 メノウの援護射撃だが、それは犬神のコートの裾すら焦がすことはなかった。
 「大丈夫?」
 「あ、あぁ。結構効いたけどな」
 喉に上ってきた夕飯だったものを無理やり飲み込むと、亜門は改めて犬神を見た。
 背丈自体は亜門と同じくらいの人型だが、今のブローは人間ではありえない破壊力を持っていた。
 面をつけていなければ、上半身と下半身がお別れしていただろうと思うとぞっとする。
 「妙な術を使うものだな、人間」
 感心したように犬神――亜門から見れば狼男そのものといって良い化け物は、彼にそう告げる。
 「だが」
 半身に身構えて、狼男が耳まで裂けた口をニタリと笑みの形に歪めて言い放つ。
 「力は使い込ませねば、意味はない!」
 イヌ科特有の瞬発力は犬神の能力によって増幅され、まるで瞬間移動したかのように彼は跳ぶ。
 メノウの前へ、と。
 「しまった!」
 「!?」
 メノウは声もなく、犬神の前でくず折れた。
 「自らが持つ力を分析し、把握し、勝つ為のシミュレートを幾通りも行い、そして」
 犬神は倒れ伏したメノウに背を向けると、亜門に向かって身構える。
 「万全な準備の下で、確実に勝利をモノにする。君は自身の戦闘能力を把握したことがあるか?」
 亜門は思わず首を横に振る。
 「術式及び物理攻撃無効の特性、始めて見るがなかなか興味深い。君の戦闘能力はAと出ているが」
 再度犬神の姿が消える。
 「能力に頼っているだけでは、この世界は生き抜けぬ。大きい能力ほど、使う者の力量が必要となるものだ」
 その言葉は彼の耳元から。
 犬神の豪腕でヘッドロックを食らった亜門は、瞬時にして闇に沈んだのだった。


 程なくして長老を含めた鬼達と、乙音が地下ドームへと小走りにやってきた。
 「亜門殿、メノウ!」
 倒れ伏した2人に彼らは慌てて駆け寄った。
 「よかった、生きている」
 「昏倒しているだけのようだな、怪我もないようだ」
 そう安心する鬼達を後ろから眺めながら、乙音は周囲に侵入者の目的だった魔剣がないことを確認。
 そして落ちていた一束の犬のような毛を拾いながら小さく呟く。
 「あの人が相手でしたか。亜門くんも多く学べたことでしょうね」
 背負われる若き陰陽術師を一瞥し、彼女は一足先にドームを去ったのだった。

〜 そしてここに 真の陰陽師が 誕生への第一歩を 踏み出した 〜



 櫂を操る両腕に汗が浮かぶ。
 曇天の下、荒れる波に小さな小船は翻弄されながらも確実に前へ前へと進んでいく。
 前方には本土である港町はうっすらと波間に見えていた。
 背後には、伝説から普通の島へと認識が改まった鬼が島と呼ばれる小島が遠く遠くなっていく。
 木の葉のような小船には、漕ぎ続ける一人の青年と、舟の先端にちょこんと座る少女の姿。
 2人は言葉を交わすことなく、ただただ前を見つめている。
 決して後ろを振り返ることなしに。


 「そうか、旅立ったか」
 「メノウも同行しているようですが」
 「好きにさせておけ」
 角を持つ老人は、同様に鬼である中年の男の報告に小さく微笑む。
 「ワシらはワシらでやるべきことを行おう」
 窓の外。
 降り始めた雨を眺めながら、彼は強い意志をその瞳に込めて呟く。
 「それが新たな契約によるワシらの指針。もはや敵も味方も言っていられるほど余裕のある状況ではないようだしの」
 やがて雨は本降りとなり、海は荒れ模様を呈してきていた。


 ガタンゴトン
 ガタンゴトン
 延々と続くリズムに揺られながら、黒髪の女性は降り始めた車窓の外をぼんやりと眺めていた。
 窓の外は荒れ始める海と、遠く小さな島影が見える。
 影はどことなく、鬼の頭に見えなくもない。
 「さてさて」
 一人、彼女は呟く。
 車両には彼女以外人はおらず、誰に話しかけているわけでもないようだ。
 「亜門さんはどれくらい強くなってくれるでしょうね」
 うっすらと口元に笑みを浮かべる彼女の視線は、島影とも海とも言えない場所に向けられていた。
 「鬼の少女も予想通り、同行しているみたいですし」
 そこで彼女は思い出したように傍らに置いた袋を膝の上に移した。
 「再開が楽しみ。今後に乞うご期待、ですね」
 袋を開く。
 そこにはお茶のペットボトルが1本と、駅弁が1つ。
 駅弁には鳥取名物「あご寿司」と書かれている。
 「ホント、楽しみ楽しみ♪」
 とびうおの駅弁を美味しそうに頬張りながら、彼女――若桜 乙音は帰路についたのだった。


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