7月の夏祭りも終わり、本格的に暑い夏がやってきた。
 今年は冷夏と言われているけれど、頭上でギラギラと輝く太陽は容赦なくその熱線を地上に降り落として焼いている。
 からりと晴れた青空は高く、雲一つなかった。
 「暑い」
 全身をじりじりと焼かれて、僕の視界が一瞬揺らぐ。
 ぽす
 と、頭の上に麦藁帽子が置かれた。思わずかぶせてくれた隣を見る。
 「大丈夫?」
 夏の風に、彼女の黒く長い髪がふわりと広がる。白いワンピースとの色の対比が眩しく感じた。
 「ありがとう、でも此花さんは?」
 「私はこのまま光合成するからいいの」
 麦藁帽子をくれた彼女は此花さくら。この街の川沿いの土手にある桜並木に宿る桜の樹精だ。
 「ところで総一郎さんはどこに行く予定?」
 僕こと卯月総一郎と彼女とはクラスメートであり、ともに人ではないモノ同士だ。
 今日はたまたま散歩中に出会い、この長い夏休みのことを話していたのだが。
 「んー、ちょっと商店街の方へ寄って、食材でも買ってこようかな」
 「そう、では私も本屋さんによるから同行するわ」
 そう言い、彼女は軽い足取りで僕の隣に並ぶ。
 地面に落ちる僕たちの影は、今の時間はまだまだとても小さく足元の周りに黒いエリアを作っているだけだった。


 暑さが手伝ってか、駅前の商店街の人通りは少ない。
 アーケード下は熱がこもり、より蒸し暑さが増しているからかもしれない。
 そんなアーケード歩く僕らの足は不意に家電店の前で止まる。
 正確に言うと、此花さんの足が止まったから僕も止めたといった方がいいかもしれない。
 家電店のショーウィンドウには、50インチの液晶TVがNHKと思われる局の番組を流している。
 「どうしたの?」
 問う僕に此花さんからの返事はなく、ただ彼女は画面に魅入っている。
 番組は報道特集だった。
 南米アマゾンのジャングルが加速度的に消えていく、それにより二酸化炭素が増えて地球温暖化につながるといったことを警鐘する番組だ。
 消えていく原因は人間達による伐採、焼畑といったことだ。地域開発も加わっている。
 「あ」
 そうか、樹精の此花さんにとっては熱帯のジャングルは同族であり、人に犯されざる自身の領域でもある。
 勝手に自分の家に上がられて汚されるだけではなく、奪われていく感覚なんだろう。
 これはでも、人事ではない。
 「僕の故郷も同じだもんな」
 「え?」
 思わず漏れた僕の独り言に、此花さんは画面から視線をはずして僕を見た。
 「あ、僕の故郷の森もね。人間の開発が入って、なくなろうとしてるんだよ」
 「……総一郎さん」
 「だから僕は一族を代表して、どうやったら人間の中に溶け込んでこれから生きていけるかを学びにきたんだ」
 そこまで言って苦笑い。
 「今を生きるので精一杯で、答えもまだ全然見つけられていないけどね」
 「どうして?」
 「へ?」
 彼女は黒い瞳で僕を見つめている。そして真摯にこう問いかけた。
 「どうして故郷を守ろうとは考えなかったの? 森を守ろうとは…」
 「それができるなら、ね」
 そう、それができるものならとっくにやっている。
 「戦って勝ったとしても、それは一時的で最悪の場合は一族は死に絶えると思う」
 妖のほとんどがそう観念したからこそ、今の世の中には妖の存在はおとぎ話の中でしかない。
 「それに僕ら一族にはお金もないから森を買い上げるなんてこともできないしね。人間に合わせて生きていく道を探るしかないと思うんだ」
 「人間に合わせて……そうなったとして、その新しい世界で私達は生きていけるのかな?」
 此花さんはぼんやりとそう言って、再び画面に視線を戻した。
 そこには切り倒された木々の映像と、動物達の逃げ出す姿が捉えられている。
 「新しい世界、か。そこに居場所をどう作れるか…」
 彼女の危惧する通り、人間に合わせて生きていくことなどできるだろうか?
 出来たとして、そこは居心地が良いところだろうか?
 「人間に合わせることはないんじゃないかな?」
 「え?」
 画面を見たまま彼女は問い、僕は聞き返す。
 「人に合わせるのではなく、そこに私達の…」
 彼女の言葉はそこで途切れた。
 何故なら突如、背後で爆発のようなものが発生したから。
 「「?!」」
 コンクリートの破片を伴った砂煙が、爆風に乗って僕らに襲い掛かる!
 風に対して身構える僕らの間を、一筋の黒い風が駆け抜けた。
 「え?」
 「な!」
 「あ!」
 此花さんと僕、そして黒い影の視線が一瞬交錯する。
 「総一郎、さん?」
 「浩二郎??」
 「兄さん?」
 黒い影。
 それはまさしく。
 もう二度と会えないと思っていた、弟の浩二郎だった。


白黒双月
8 反撃


 「浩二郎、どうしてここに?!」
 真夏だというのに黒い長袖シャツにフード付きのコートまで纏った暑苦しい姿の弟。
 薄汚れた旅装といった感じの彼の背には、大き目の布に巻かれた棒状のものが背負われている。
 それだけが、妙だった。
 気味が悪い雰囲気がそこから漂っている。
 しかし久々の邂逅に僕らは驚く暇すらない。
 「逃げて、兄さん!」
 「え…」
 「見つけたぞ!」
 声は彼の背後から。
 襲い掛かる巨大な殺気と肉食獣臭に、僕は思わず身体が硬直してしまう。
 だが、浩二郎は違った。
 僕と此花さんの前に気丈に立ち塞がり、迫り来る追跡者を睨み返している。
 一歩一歩近づいてくるのは、黒い男だった。
 正体は直視しないでも分かる。犬神だ。
 彼我の距離は10m。走って逃げ切れる……か?
 「いや、逃げ切れない」
 僕は犬神を見て直感する。
 背を見せた瞬間、男の鋭い牙は僕の背に食い込むだろう。
 「もう、逃がさない」
 両手を広げる犬神。
 それだけで、此花さんを含む僕らは完全に逃げ場を失った錯覚に陥る。
 犬神の能力の一つ『猟犬包囲』だ。
 「大丈夫、兄さん?」
 犬神から視線を外さず、背負った棒状のものを手に取りながら浩二郎は言う。
 「僕は逃げることだけは、誰にも負けない!」
 浩二郎は手にした棒状のものに巻きついた布をはがす。
 そこから現れたのは一本の刀。金属製と思われる鞘に収まっていた。
 それを彼はおもむろに抜く!
 「「?!」」
 此花さんも一瞬震えたのが分かる。
 抜かれた刀は、黒光りする刀身を持つ木刀だった。
 しかしだたの木刀ではない。
 なにか歪で、圧倒的な霊気を持ったモノ。今にも溢れそうな力をその身に宿している。
 刀を抜いた浩二郎を見て、しかし犬神は鼻で笑う。
 「抵抗するか、兎。逃げることしか出来ぬ貴様が、それで俺に切りかかろうとでも言うのか?」
 「否」
 彼は即答。
 「知っているでしょう、僕は逃げることしか出来ない。いえ」
 木刀を正眼に構えて、浩二郎は告げる。
 「僕はいつ、いかなる時も逃げることが出来る。それが兎神の力」
 ゆっくりと、彼は。
 木刀を真横に振った。
 途端、切断されるのは空間自体。
 「逃げるよ!」
 僕と此花さんは浩二郎に手を掴まれて、緑色に染まっている空間の穴に飛び込んだのだった!


 3人で潜った穴の先は、一面の緑だった。
 そして圧倒的な草の匂い。
 肌に直接刺激を感じているような錯覚を覚えるほどの、強烈な植物の生命力に満ちた場所だ。
 慌てて振り返れば、すでにここへと至った穴はきれいさっぱりと消えてしまっていた。
 しばらく呆然としていた僕と此花さんだったが、はっと我に返り周囲を見渡してみる。
 「え?」
 「あら??」
 ここは今までいた商店街ではなく、森の中だった。
 いや、違う。
 僕の知るような森ではなく、シダ類というか……見たことのない植物が乱立する、じめっと蒸した緑の中だ。
 「すごい強い、植物の力を感じます」
 目をしばたきながら、此花さんは周囲を見渡して呟く。
 「けれど、私の知る生命力ではない。この襲い掛かってくるような貪欲な生命力は、今の地球では滅多に感じないもの」
 「そう、ここは僕らのいた世界じゃない」
 答えるのは木刀を手にした浩二郎だ。
 「どういうことだ、浩二郎? ここは一体、どこなんだ?」
 「ここは紛れもなくさっきまで居た商店街と同じ場所だよ、兄さん」
 ちょっと困った顔をして、久々に会う浩二郎はこう続けた。
 「けれど、遥か太古。人間が支配する世界ではなく、植物がこの世を支配する時代の、ね」
 「どういうことだ??」
 問う僕に、浩二郎は手にした木刀を見せた。
 黒曜石のような刀身は先程よりもさらに強い力を放っているように思える。
 それはまるで周囲の植物達に呼応するかのように。
 「この木刀は時空を切り裂くことが出来るんだ」
 「ほぅ」
 「はぁ」
 浩二郎の言葉に、僕と此花さんは気のない返事。
 というか、言葉が理解できていなかったと言っていいかもしれない。
 「ええと、この刀の力に、僕の兎神としての『逃亡』の能力を掛け合わせたんだ」
 「へぇ……って、兎神?? 浩二郎、お前いつのまにそんなに力をつけたんだ??」
 よくよく見れば浩二郎から発せられる気力は、森の長老のそれよりもずっと強力だ。
 なお兎神というのは僕ら兎妖の最高ランクに位置する力量を意味している。
 「あ、うん。ドラクエVでLv1の戦士がLv99の仲間3人に連れられてロンダルギアで戦闘を繰り返したような感じでいつの間にか」
 言っていることが分からない。
 「そんなことより、兄さんはちゃんと勉強してる? これからみんなを背負っていかなきゃいけないんだから!」
 「あぁ、分かってるよ。でもその犠牲に浩二郎を生贄にとか聞かされてたから…ともかく無事でよかった」
 「……無事って訳でもないんだけど」
 「ん?」
 「ううん、なんでもないなんでもない」
 首を横にぶんぶか振る浩二郎に、此花さんが尋ねる。
 「ところで貴方は何故追われていたの? 相手は犬神――追跡のプロよ、なにか悪いことをしたのではなくて?」
 「してないよっ、ただ僕は師匠に頼まれてこの木刀を」
 「木刀を?」
 「あ、なんでもないよっ」
 乾いた笑いを浮かべて、浩二郎は此花さんから目を背けた。
 言いたくないことをしているのか??
 「ところで浩二郎、ここは大昔の商店街になる予定の場所ってことだよね」
 「う、うん、そういうことになるね」
 「……現代とは違って、なんて強い植物の力なんだろう。ね、此花さん」
 話を振られ、彼女は浩二郎からようやくこちらに視線を移した。
 「そうね、これくらいの力が現代にもあれば、それこそ人間にも負けないのに」
 なかなか物騒なことを言う。
 よく見れば彼女、目つきが怪しくなっている。
 彼女は常に周囲の植物から力を得ていると言っていたから、この時代の植物の力に当てられているのではないだろうか?
 「で、浩二郎。どうやって戻るんだ?」
 「うん、そこの樹精さんの『ライン』がこの刀で広げた穴に引っかかっているから、もう一度同じ場所を切れば戻れるよ」
 「ライン?」
 「私と、私の本体である桜の樹を繋ぐ見えない線みたいなものよ。これが切れたら、私はここにいないもの」
 答えるのは此花さんだ。
 「けれど今戻ると、まだ向こうでは例の犬神が待っているのではなくて?」
 「……もう少し待ってから、帰りましょうか」
 困った顔でそう答える浩二郎の後ろの草むらが不意に割れたのはその時だった。
 ぬぅっと。
 そいつは現れた。
 まず現れるのは巨大なぬっぺりとした頭。
 次に周囲の木々の背景を塗り替えるように、巨大な身体。
 しかしぬっぺりとした顔に覗く2つの瞳は穏やかなものだった。
 「「な、なんだ、これ?!」」
 悲鳴に近い声を同時に上げる僕と浩二郎。
 「ブロントサウルス。この時代は中生代ジュラ紀のようね」
 極めて冷静に此花さんは言う。
 ブロントサウルスとはアパトサウルスと呼ばれる大型の竜脚下目の恐竜。体長は25〜30mはあろうか。
 和名は雷竜であり、大型の竜脚類を意味するカミナリ竜という言葉からこれは取られている。
 歩くと雷鳴のような響きがしたであろうということから、こう名付けられたのだろう。
 そしてその予想はまさしく当たっていた。
 どしん
 どしん
 お腹にまで響く振動をリズム良く鳴らしていく。
 長い首をゆっくりと持ち上げながら、『彼』は大きなあくびをしつつ足を一歩二歩と踏み出してくる。
 きっと今まで、この草むらの向こうで寝ていたのだろう。
 僕らの会話で目を覚ましてしまったのか、僕たちは『彼』の進路を塞がないように駆け足で脇へとずれた。
 ブロントサウルスは巨大な恐竜は時々思い出したようにシダの葉を食みながら僕らの前から通り過ぎていく。
 その後姿を僕と浩二郎は呆気に取られた目でいつまでも眺め続けていた。
 「はぁ、びっくりしたね、兄さん」
 「いやしかし、貴重な体験をしたよ、浩二郎」
 「でもおかしいわね、ブロントサウルスが生息していたのは北アメリカだったと思うけど」
 此花さんのそんな指摘に、心に沸いた興奮が不意に不安に変わる。
 それは浩二郎も同様だったらしい。
 「で、でも確かにここは場所は変わらずに大昔のあの商店街のはず…」
 「貴方の術が正常に起動していたとするならば、ね」
 桜の精霊の言葉は浩二郎の呟きを切った。
 彼女は不意に目を瞑ると、息を整えてから周囲を耳で巡らせた。
 「私を呼んでいる声がする」
 「「え??」」
 彼女はそう言って目を開くと歩き出す。
 ブロントサウルスが作り出した道へ。
 僕と浩二郎は顔を合わせて、そして慌ててその後を追う。
 此花さんはなぎ倒された木々を軽快によけながら告げた。
 「私を呼ぶ声に引かれて場所がずれたようね。いえ、どちらかというと」
 振り返り、浩二郎の背に収まった木刀を見る。
 「その魔剣がここに惹かれたのかもしれない」
 「それは一体どういう…」
 浩二郎の言葉はそこで止まる。
 「!」
 僕は駆けていた足を止めた。
 「これは」
 此花さんもまた、息を止める。
 目の前に広がった風景は想像を絶するものだった。
 先程のブロントサウルスが――体長が30mはあろうかという恐竜が、木の根元にいた。
 それはまるで、食玩の恐竜フィギュアを街路樹の根元に置いたとかそんな雰囲気。
 想像の規格外に大きなシダの大木……いや神木が、その巨大な葉で天上を覆いつくしていたのだ。
 神木とも言うべきそのシダの木は、ありえない高さと幹の太さを誇っていた。
 どことなく周囲が薄暗いと思っていたのだが、それはこの木の葉が雲の上に届き、日の光を薄くさえぎっていたからに他ならない。
 「ねぇ、兄さん。これって木、だよね」
 「そう思うけど、なんか縮尺が間違っているような気がしてならないよ」
 僕たちは互いに目をこすってから改めて木を見るが、大きさは変わらない。
 僕たちがそんな風に呆けている間にも、此花さんはいつもののんびりした態度からは想像できない位に足軽に駆けて、木の根元までたどり着いてしまっていた。
 彼女は細い右手で、シダの幹に触れている。
 その口元が何かしら動いているように見える。
 会話を、しているのだろうか??
 としたら、何と?
 「あっ!」
 浩二郎が隣で不意に叫んだ。
 何かと思い目をやれば、僕の目の前を黒い何かが飛び去ってゆく。
 「魔剣が…」
 それは浩二郎が背負っていた黒身の木刀。
 それがまるで見えない何かに引っ張られるようにシダの木の方へと飛んでゆく。
 僕らはそれを追いかけようとして、
 「あぶない!」
 僕は駆け出す浩二郎を左手でさえぎった。
 頭上から急速に近づく黒い巨大な影。
 それは駆け出していたら、間違いなくつぶされていたであろう、僕らの目の前に落ちてきた。
 巨大な巨大なシダの一枝。
 ズシンと、ブロントサウルスの足音よりも大きな音を立てて僕らと此花さんの間をそれは遮った。
 続けてずしんずしんと続く音。
 これは先程のブロントサウルスの足音だ。それが近づいてくる。
 ぬぅっと。
 再びそののっぺりした顔が僕らの前に現れた。
 その顔は口を大きく開けて目の前を遮るシダの葉をむさぼり始める。
 巨大な枝と葉、そしてブロントサウルスの巨体。
 幹へと向かうにはそれらを回避し、大きく迂回するしかなくなった。
 「これは偶然かな、兄さん?」
 「そんな訳、ないだろう」
 「そう、だよね」
 僕らは右回り、浩二郎は左回りと二手に分かれて大きく迂回し、此花さんと木刀の向かった巨木の幹の下へと全力で駆け出した。
 シダの壁を抜けたところで、此花さんの姿が確認できる。
 巨木の幹に右手を合わせていた。空いた左手には浩二郎の持っていた魔剣が握られている。
 彼女は顔を上げて、何かと会話をしているようだった。
 しかしその口の動きはどこの国の言語よりも早く、そして複雑に見える。
 「此花さん!」
 僕に叫びにしかし、彼女はこちらに振り向くこともない。
 左右から、僕と浩二郎が同時に此花さんの元へたどり着く20mほどのところでのことだ。
 ごん!
 「うっ!」
 「がっ!」
 僕らは文字通り、目に見えない壁にぶつかってもんどり打った。
 「なんだ、これ?」
 目の前を両手で触れる。
 暖かくも冷たくもない、硬い空気の壁がそこにはあった。
 「魔剣の力だ」
 浩二郎の言葉に僕は此花さんの手に握られた剣を見る。
 黒い刀身がほのかに輝いているように見えた。
 「どうなってるんだ、これは此花さんが?」
 「なんかこの巨木と話をしているように見えるけど」
 浩二郎は僕の方へ駆け寄りながら、そう言った。
 そんな時だ。
 顔を上げた彼女は不意に視線を下ろした。
 その視線の先は、僕らだ。
 こちらを見たまま彼女は何か一言二言言葉を巨木と交わすと、
 「あ」
 「壁が消えた」
 不意に壁が消えた。
 「帰りましょう、2人とも。私達は私達の時代でなすべきことをしましょう」
 妙に清々しい表情でそう語りだした此花さんは、おもむろに左手にある魔剣で空を切る。
 すると、
 空間が切れ、その向こうには夕暮れに染まる河川敷が見えた。
 「大丈夫、猟犬はいないから」
 そう語る彼女に僕らは一抹の不信感を抱きつつ。
 黙ってその穴を潜ったのだった。


 木陰から生み出されつつある夕闇の中で、桜の葉が風に揺れている。
 頬を撫でるのは湿気を帯びた南東の風。
 藍色に染まった西の空を眺めつつ、僕は後ろを振り返った。
 すでに古代の森に通じていた空間の裂け目は消え、此花さんが浩二郎に魔剣を返している姿が目に映る。
 「此花さん、あの巨大な木と何を話していたんだ?」
 問う。
 「挨拶をしただけよ」
 簡潔な答え。
 「浩二郎の魔剣がどうして此花さんの手に渡ったんだい?」
 見えない何かによって浩二郎の元から引き抜かれた魔剣。
 それは落ちてきたシダの巨大な枝の向こうで、彼女の手に握られていた。
 「あの巨木はあの時代での神木だったの。見たことのない力だったから、調査の為に失敬させてもらったと言っていたわ」
 「なぜ貴女はこの魔剣の力を使えたのですか?」
 これは浩二郎の問い。
 「神木が教えてくれたの。なぜならその剣は」
 彼女は浩二郎に背負われる鞘に納まった魔剣を見つめながら、こう言った。
 「あの神木自身の、未来の姿だったのだから」
 え?
 彼女は一体、何を言っているんだ?
 「ところで弟君、猟犬はまだこの街にいるみたいよ」
 「うっ」
 「そうだ、浩二郎。お前は一体そんな剣を持ってどこに行こうとしているんだ?」
 僕の問いかけに浩二郎は困った顔をして、そして。
 「この街に住む、ある人にこの魔剣を渡しにいく所なんだ」
 「ある人?」
 「そうだ、兄さん。知ってる? 猫寝荘とかいうアパートを」
 そこが浩二郎の探す『ある人』の住む場所だという。
 世の中は狭いなぁと思わざるを得ない。
 その後、運良く猟犬に出会うことなく、僕らは猫寝荘――すなわち自室にたどり着くことができた。
 何故か此花さんも同行し、今は3人で部屋にて小休止。
 冷やした麦茶が喉に心地よかった。
 「まさか兄さんの住処だったなんてね」
 「で、浩二郎の会いたい人って誰だよ。ここには妖関係者はいないと思うんだけど」
 そこまで言ったところで、不意に玄関の戸が「バタン」と遠慮なく開かれた。
 「敵?!」
 身構える浩二郎。
 「いや、あれは」
 「おかえりー、スイカ買ってきてるんだけど一緒に食べない…って、あら?」
 それは水色のワンピース姿の女性。
 お隣の若桜 乙音さんだ。
 「お客様きてたのねぇ、もしくは分身の術?」
 言いながら彼女は僕と浩二郎を交互に見つめ、そして。
 浩二郎の背の魔剣に目を留めた。
 「あら、これは……じゃあ、貴方はやっぱり鬼が島に来ていたあの子?」
 浩二郎にそう問うた。
 「はい、あの時はなんというか…大変でした」
 「そうねぇ。そうだったのね、貴方が総一郎くんの弟だったのね」
 ?? 2人はどこかで面識があったらしい。
 「浩二郎と申します」
 「よろしくね、浩二郎くん」
 乙音さんはそう笑って言うと、此花さんに視線を移し、
 「どっちが好み?」
 「相変わらずですね」
 呆れられていたのだった。


 「それで浩二郎くんは久々にお兄さんに会いに来たわけ?」
 「いいえ」
 スイカの種を頬につけて、浩二郎は首を横に振った。
 「師匠に頼まれて、この魔剣を貴女に預けるようにと」
 言って魔剣を乙音さんに差し出す。
 「あらまぁ。貴方のお師匠さんは今どこに?」
 やや困った感じの乙音さんの問いに、浩二郎は俯いてボソリと言った。
 「師匠は多分、捕まりました」
 「何があったのかしら?」
 乙音さんは魔剣を受け取りつつ、それを傍らの畳の上に置くと浩二郎にそう問うた。
 「鬼が島にこの魔剣を回収しに行った師匠は、他の皆と依頼主に届けに行ったその先で傷ついて帰ってきました」
 「依頼主とトラブルを起こしたってことかしら?」
 「はい。師匠は僕にその魔剣を渡してこう言いました。『これを追ってくる者に決して奪われるな。そして鬼が島で出会った機族の女に渡せ』と」
 浩二郎は続ける。
 「そしてこうも言いました。魔剣を求める者の名はイグドラシル。世界の植物を統べる王――世界樹だと」
 イグドラシル――世界樹の名を聞いてしかし。
 隣の此花さんには何の表情の変化もなかった。まるで事前にそれを知っていたかのように。
 乙音さんはそんな浩二郎を見遣りながら、困った顔で言った。
 「何をどう解釈したのかしらね、あの女狐は」
 魔剣を再び手にして、彼女はその柄を見つめる。
 「もともとこの剣の力はイグドラシルのものなのに。そもそも自分のボスのことも信じられなくなったのかしら?」
 「それは違いますよ、乙音さん」
 彼女の呟きのような言葉に横から口を挟んだのは、此花さんだった。
 「どの部分が違うのかしら?」
 「今はもう、その剣の力は世界樹様のものではありません」
 まっすぐと、乙音さんを見て言う彼女。
 「そしてあの人は立場上ともに行動しているだけで、世界樹様を主とは思っていらっしゃらないかと」
 「どういうことかしら、さくら?」
 乙音さんが今まで見たこともない表情――厳しい半眼になって此花さんを睨んだ。
 それをさらりと受け流すように、彼女は音もなく立ち上がる。
 「弟君の匂いを猟犬が嗅ぎつけたようです」
 視線の先は玄関の扉。
 此花さんにはしかし、その扉の先であるこの猫寝荘の入り口が見えているかのようだ。
 一方の乙音さんは魔剣を手にして、
 「困ったわね。これを返して帰ってもらうという訳には」
 そこまで言って浩二郎を見る。
 「いかないわねぇ」
 肩の力を落とし、彼女は剣を手に玄関へと向かう。
 がちゃり、と。
 扉を開けると同時、僕のそして浩二郎の全身の毛が逆立った!
 肉食獣の、獲物の気力を根こぞぎ奪わんとする殺気が僕らを襲ったのだ。
 殺気の元は猫寝荘の敷地の外でこちらを睨んでいる黒いコートの男。
 まるで檻の外から歯痒げに目の前の獲物を狙っているかのよう。
 その気配を知ってか知らずか、乙音さんは玄関を出ると階段を下りて無造作に猟犬の男へと近づいていった。
 猫寝荘の敷地の外から、猟犬はそんな乙音さんに向かって低い声で威嚇してくる。
 「その剣と、兎妖を引き渡してもらおうか」
 威圧の言霊を込めた発言に僕と浩二郎は、部屋の中に居るにもかかわらず思わず身構えるが、乙音さんはあっさりそれを聞き流して問い返す。
 「相棒の狐はどうしたのかしら?」
 「どこの誰が相棒だ!」
 「違うの?」
 「断じて違う! というか話を逸らすな」
 肩を怒らせる猟犬を彼女は軽くいなす。
 乙音さんは一体何者なのだろう? あの犬神はかなり神格は高いはずだ。
 前に立つだけで普通の者ならばプレッシャーを受けるはずだが、そんな感じは微塵もない。
 すなわちそれは鈍感であるとかそういうことではなく、乙音さんもまたそれなりに高い神格を持つそんざいであるということでもある。
 「キゾク」
 先程出た言葉を反芻する。
 どんな字なのか分からないが、それは乙音さんの分類される神格なのだろうか?
 「この剣を貴方に返すと、私になにかお得なことはあるのかしら?」
 「取引する気か?」
 猟犬は文字通り、牙を剥く。
 人にはありえないほどに口が裂け、鋭く大きな牙がいくつも覗いた。
 「取引? それはまたご冗談を」
 対する乙音さんは冷たく笑って彼にこう切り返す。
 「貴方は私に対して懇願すべき立場にあるのではなくて?」
 魔剣をくるりと回して鞘から抜き、その黒い刀身を彼に向けて言葉とともに突きつける。
 「何を上から目線で勘違いしているのかしらね、この駄犬が」
 バキン!
 断ち割る音と、肌を刺すような刺激が一瞬、空間一帯に響き渡る。
 それは猟犬が猫寝荘の結界を力ずくで打ち破った音。
 次の瞬間には、犬神と乙音さんが交錯していた。
 ごしゃっ!
 何かをつぶしたような、そんな耳に残る音を立てて地面を転がったのは。
 「むぅ、貴様」
 口に入った土を吐き出しながら、すぐさま体制を立て直した犬神だった。
 対する乙音さんはその場を動いていない。
 代わりに犬神が先程まで立っていたところには、顔全体を白い仮面で覆った男が一人。
 白いそれには目の部分に細く睨みつけるような穴が2つ空いているだけだ。
 そこからはぞっとするような強い妖力が覗いているように見えた。
 猟犬と交錯したのは乙音さんではなく、この男だったようだ。
 「素手?」
 仮面の男には特に武器はない。
 しかしかなり鍛え上げられていると思われるその肉体一つで、犬神に再度対峙した。
 犬神が仮面の男に向かって駆ける!
 対する男は左腕を前に突き出し、右腕を殴りかかる前の体制で迎え撃つ。
 「!」
 男の直前、猟犬は右に飛んだ。
 男はその神速についていけない。右に回りこんだ犬神の鋭い爪が、男の脇腹に食い込む。
 と思われた瞬間だ。
 「雷よ!」
 女の鋭い声が響き、犬神を撃った。
 「くっ!」
 犬神はコートを所々焦がしつつ、男から距離を取る。
 力ある声が放たれたのは、男のそばから。
 それは、地面に映る夕闇に溶け込みそうな彼の影からだった。
 仮面の男の影から、ずるりと人が湧き出てくる。
 否。
 もともと彼のそばに『彼女』は存在していた。気配を隠しきった彼女に、僕らが気付けなかっただけだ。
 それは褐色の肌を持つ少女。
 小さな額からは鬼族の持つ角が覗いて見える。
 「腕を上げたようだな」
 犬神が耳まで避けた口を笑みに吊り上げながら、仮面の男と鬼族の少女に言い放った。
 それに対し、2人からは言葉は放たれない。
 代わりに。
 行動を以って返答と相成る。
 焦げ付いた犬神の毛からはくすぶった煙と鼻を突く匂いが漂ってくる。
 そんな傷ついた猟犬に、仮面の男がまっすぐに突っ込んでいく。
 無手で突撃する彼の背後が不意にまばゆく輝きだした。
 それは彼の背に隠れるようにして走る、鬼の少女の力。
 先ほど犬神を打った雷を、網のようにその背に張り巡らせる姿はまるで巨大な翼のよう。
 迎え撃つ犬神は顔を上げ、しかしニタリと笑みを浮かべていた。
 「傷が」
 浩二郎の呟きが聞こえる。
 猟犬の傷がみるみる癒えていた。焦げ付いた毛は抜け、新たな毛に生え変わる。
 犬狼族特有の、驚異的な治癒能力だ。
 「はっ!」
 仮面の男が振り上げた右足を、恐ろしく鋭いスピードで犬神に振り落す。
 強烈な踵落としはしかし、犬神か軽く右手で振り払うことで軌道がそらされた。
 柔よく剛を制すを体現したかのような動き。
 ごす、と鈍い音を立てて男の一撃は犬神の右脇、アスファルトの道路に10cmばかりめり込んだ。
 畳み掛けるように背後の少女が雷の網を仮面の男もろとも犬神に向けて解き放つ!
 包み込むようなその軌道を犬神は後ろに飛び退くことで、完全に術式の包囲から脱した。
 バチッ!
 雷の網は仮面の男のみを包み込み、スパークして消える。
 雷を直撃したはずの仮面の男だが、しかしまるで何もなかったかのように犬神を睨み付けている。
 信じられないことだが、どうやら術関連は仮面の彼は完全に無効化できるようだ。
 妖魔の類ではないと思うのだが、鬼と組んで戦う彼は一体どんな出自の男なのだろうか?
 「腕を上げたようね。しかし困ったわ」
 そんな独り言を呟くのは乙音さん。
 彼女の視線の先には、己が手で握った浩二郎が持ってきた魔剣がある。
 「それをどうされますか、乙音さん?」
 問うのは此花さんだ。
 声をかけられ、乙音さんは彼女に問い返した。
 「貴女、さっき言ったわよね。この剣はすでに世界樹のものではない、って」
 「はい」
 「それはどういうことかしら? ここに『ある』ことの理由になるのかしらね?」
 「その答えの前に、乙音さんはその剣が何であるかをご存知ですか?」
 乙音さんは此花さんをしばし見つめ、そして。
 「遥かなる昔、この世界を植物が支配していた時代。植物の王であり中枢である世界樹の、当時の余剰なエネルギーが封印されたものと認識しているわ」
 「それは半分当たっていて、そして半分間違っています」
 此花さんはそう言って続ける。
 「ならば何故、その力は寸断された別次元に追いやられていたのでしょう?」
 別次元??
 後から浩二郎に聞いた話だが、あの魔剣は鬼達が住む鬼が島に封印され、島ごと今この時間帯とは別の時間帯に隔離されていたのだそうだ。
 「そして何故、今この時代に世界樹がこの力を欲したのでしょう?」
 乙音さんは答えない。
 一方でそれを聴いていた僕と浩二郎は、話の中身がどうもよく分からない。
 「答えは簡単です。その魔剣に込められた太古の力は、世界樹の『意志』に同調しない、今の植物達には欠落しかけた力だから」
 「「欠落しかけた力?」」
 僕と浩二郎は顔を見合わせる。
 植物に欠落しかけた力とは、一体何なのだろうか?
 「では世界樹はその『欠落しかけた力』を取り戻す為に魔剣を回収しようとしたと?」
 乙音さんの問いに此花さんは小さく首を横に振る。
 「あくまで己の弱体化した『力』の補填の為に、でしょう。その為にこの剣を『説得』しようとした」
 「けれど説得は失敗した、と?」
 浩二郎の言葉に、彼女は頷く。
 「貴方が私を魔剣と引き合わせてくれたことには感謝します、弟君」
 言って浩二郎に微笑む彼女。
 すっと左手を挙げたかと思うと、次の瞬間には乙音さんの手にあったはずの魔剣は重力で引っ張られたかのように彼女の手を抜けて此花さんのそれに納まった。
 「そして貴方の力で私とこの剣を、かつての魔剣の原型の元に連れて行ってくれたことを」
 魔剣の原型?
 言われて思い出す、巨大なシダの神木を。
 天を貫くほどに大きく、圧倒的な存在感を有した巨木を。
 「お礼にお教えしましょう、世界樹とは異なる理想を持った偉大なる我らが王の御名を」
 「やめなさい、さくら!」
 これまでになく、乙音さんが鋭い声で叫んだ。
 発せられる警告は僕のような兎妖ならば恐怖で硬直してしまいなけないほどの、鋭い気配。
 だが此花さんはいとも気にせずに、僕とそして浩二郎に向けて小さく微笑みこう言った。
 「そしてこの御名の下において、私達は私達の理想郷を作りましょう。そこは人の目など気にせずに私たち本来の姿で生きていける世界だから」
 剣を手にした此花さんは両手にそれを捧げるようにして持ち、そして告げた。
 魔剣の――かつて世界樹に従わなかったもう1つの植物の王の名を。
 「剣の名は天魔。今の我らが失った、他者を食らってでも繁栄し続ける意志に満ちた影の王」
 此花さんの言葉に応じ、魔剣から勢い良く細い何かが突き出した。
 暮れなずむ赤く黒い空の下、僕から見て逆光の彼女は真っ黒で、その表情は知れない。
 剣から伸びる幾筋もの細い何かは、彼女と魔剣を包み込むようにして、やがて絡まり合い太い円柱状を形作っていく。
 薄い雲が晴れ、赤黒い空に朧月が顔を出して。
 弱い日の光に、月明かりが手助けされた薄明かりの下で、その正体を僕は見る。
 剣から伸びるのは無数のツタ。
 それらが絡まり合い、天に伸びるようにして形作るのは一本の大樹だ。
 「これこそ」
 大樹の中、絡まりあうツタの間から見えるのは此花さんの顔だった。
 彼女は満足げにこう僕たちに言葉を綴る。
 「今の世において、世界樹に代わって我らを救い導く救世主」
 そして。
 魔剣から生まれた無数のツタは此花さんと自身を完全に飲み込んで、さらに成長を続けた。
 「兄さん、これは」
 「此花さん!」
 「なにをぼーっとしているの。逃げるわよ、2人とも!」
 浩二郎と僕は、乙音さんの左右それぞれ小脇に抱えられ、ものすごいスピードで猫寝荘を、此花さんと魔剣の形作る大樹の元を離れる。
 揺れる視界の中で僕は見る。
 猫寝荘をも飲み込みながら、ものすごいスピードで成長を続ける大樹の姿を。
 時間にしたらものの数分で状況は一変した。
 かつて猫寝荘があった場所には、巨大な幹を持つ桜の神木が青々とした葉を茂らせてこの町全体を見下ろすこととなる。
 日が沈み、ぼんやりとした月明かりの下でのその光景は写真を切り貼りした如く非現実的だ。
 それ故に人々が騒ぎ出すまでには時間がかかりそうとも言える。
 「兄さん、この木って」
 「ああ、これは間違いない」
 「まるでどこかで見てきたことがあるみたいね、こんな物語の中のような光景を」
 後ろで乙音さんの苦笑いを感じる。
 そう、僕と浩二郎、そして此花さんは見ている。
 これはシダと桜という種類こそは違うが、3人で見た太古のシダの神木を髣髴とさせる、雲にも届きそうな高さを持つ巨木であった。


 夕暮れの下町。
 夕飯時だからだろう、人通りがほとんどない住宅街の通りを2人の男女が並んで歩いていた。
 いや。
 男の方が半歩先に進んでいる。
 男女の間には、ちょうど2人の膝の高さに丸い物体が浮いていた。
 よくよく見ればネットで吊るされた人の頭サイズのそれを、2人がそれぞれ左右1本づつの紐で吊り下げているような体勢だった。
 街灯の下を2人が通り、間の球状のものの正体が判明する。
 大きなスイカだった。普通に切れば5人分はあろうか?
 そんな2人。僅かに先を行く男の方はTシャツと短パンといういでたち。
 Tシャツには薄い青地に赤い文字で「夏 ONLY YOU」と意味不明なプリントがされている。
 女の方は白い無地のワンピースだ。引っ張られるような感じで男の後を付いていっている。
 周囲が明るければこの2人を見る人は一瞬視線を捉われるだろう。
 服装の違いこそあれ、2人の顔は同じだからだ。性別の判別も服装に違いがなければ分からないと思われる。
 やがて2人はやや大きな通りの十字路に出る。
 久しぶりに登場した信号は赤信号。
 並んで青になるのを待った。
 「歩、どうしたの?」
 男性の方が左隣の同じ顔をした女性に問う。
 「ん、なにが? 巧」
 「なんか行きたくないのかなぁって」
 「そんなこと、ないよ」
 答える直後、信号が青く変わる。
 巧は足を踏み出し、しかし
 「?」
 左手にスイカを吊るした紐が動かず、後ろを振り返る。
 「あのさ、巧」
 横断歩道の前で恥ずかしそうな表情の歩は兄に小声で問う。
 「この格好、変じゃないかな?」
 「格好?」
 特に変哲もない白いワンピースだが。
 「別に。似合ってると思うけど」
 「そ、そうかなぁ」
 「ほら、信号が赤になっちゃう」
 「うわっ」
 スイカを間に、文字通り引っ張られるようにして歩は巧の後を追う。
 横断歩道を渡り終わった、その時だ。
 「わぷ!」
 歩は急に立ち止まった巧の背中にぶつかる。
 「もぅ、どうした…」
 前を見た歩は言葉を失った。
 目の前に映る景色に、呆然とする2人。
 するりとぞれぞれ、2人の手の中からスイカを吊るした紐が抜けて。
 ごしゃ!
 アスファルトの上に落ちて、割れた。
 街灯の下、赤い実と黒い種がひときわ目立つ。
 スイカを落としたことにも気付かない2人が見つめる先。
 裏道をここから何本か入った住宅街の奥、そこにあるはずの彼らが目指す猫寝荘。
 ちょうどそこと思われる場所に、巨大な樹が薄闇の空を貫いていた。
 それも、ぐんぐんぐんぐんと2人の見ている間にも大きく大きくなっていく。
 2人はその時、まだ気付いていない。
 足元に落ちたスイカ。
 割れたそれに覗く黒い種が、次々と芽を出し始めたことに。


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