若桜さんが到来


【暑い→寒い】

 「暑いよー、姉上」
 「暑いわね」
 「暑い暑い暑いー!」
 「……うるさい」
 「暑い暑い暑い暑いーー!」
 「うるさいっ!」
 ごす!
 最後に、何か重たいモノを叩きつける音がして静かになる。
 「あー、今のは乙音さんのニースタンプかな?」
 薄い壁を挟んで聞こえてくるそんな騒ぎに、オレは同じく汗の噴いた額をタオルで軽く拭く。
 今日は梅雨明けの日曜日。
 僅かに肌寒いこともあった雨の日は去り、無慈悲なほどの遠慮のない日差しがさんさんと降り注ぐ快晴だ。
 我らが猫寝荘にはクーラーという文明の利器が存在しない。
 いいところ扇風機止まりなのである。
 こんこん
 と。
 玄関がノックされたかと思うと、返事を聞く間もなく開かれる。
 「亮クン、涼みに行きましょう」
 ぎこちない笑顔を浮かべつつも、拒否を受け入れる様子もない問答無用さで、そう乙音さんは言い放ったのだった。
 右手に白目をむいた雪音ちゃんの襟首を掴みつつ………。

 
 乙音さんの運転する車に揺られて(拉致されて)1時間余り。
 ようやく辿りついたのは一応都内だけれども、どこぞの山の中。
 「「寒っ!!」」
 オレと雪音ちゃんは同時にそう声が出た。
 まるで冷凍倉庫の扉を前にしているようだ。
 「はー、天然のクーラーですねー」
 「「いや、寒すぎるから」」
 「つべこべ言わずにさっさと入る!」
 こうして乙音さんはオレ達の背中をその中へと蹴り込んだのだった。
 その中―――とある有名な鍾乳洞へと。

 
 「鍾乳洞というより、洞窟って感じですね」
 「洞窟と鍾乳洞って違うのかしら?」
 「洞窟は川口探険隊っぽいよねー」
 うん、雪音ちゃん、それは的確な意見だ。
 まぁ、洞窟の中でも石灰質が多くて石筍とかあるのが鍾乳洞なのだけれども。
 「なにはともあれ、涼しいでしょう?」
 「涼しいというか…」
 「…寒いと言った方が」
 オレと雪音ちゃんの言葉はほぼ聞かずに、乙音さんは洞窟の奥へとずんずん進む。
 仕方なしにオレ達もその後を追うが……
 「うぉ、狭いっ?!」
 「すごい急な階段だねー」
 上ったり降りたり。道は観光客用に整備されてはいるが結構悪路だ。
 やがて洞窟の中の、一番「高い」と思われる部分に到達する。
 先ほどまで寒く感じていたが、適度な運動で肌を刺す冷気は心地良く感じる。
 「はー、涼しいね」
 「丁度良い感じですね」
 冷たい岩肌に背中を預けつつ、オレ達は各々の感想。
 「でしょう?」
 笑う乙音さんは腕の時計を見やりつつ、
 「じゃ、帰りましょうか」
 「「え、もう??」」
 「いいからいいから」
 押されるように、オレ達は元来た道を戻る。
 そして外へ出ると、
 「「うぁ」」
 むっとした外気の暑さ。湿った感じ。
 だけれども。
 「ちょっと涼しく感じるよ、亮お兄ちゃん」
 「そうだね」
 気付けば時間は夕方。
 ここは標高もそこそこあることもあってか、涼しく感じた。
 きっと、これから猫寝荘へ帰る間にも、夕闇が昼間の熱を奪って行ってくれる事だろう。
 「毎日ここに来るってことはできないけれど…」
 乙音さんはにこっと笑って続ける。
 「いつも暑い暑いと思っていると、思った以上に暑く感じてしまうのよ」
 涼しげな風が一陣、オレ達の間を駆け抜けた。が。
 「「いや、でも暑いモノは暑いでしょ?」」
 「うぁ、きれいにオチないものなの?!」
 そりゃ、もちろん。
 オレ達に、オチはない。


【オンラインゲームコラム】

 「悪いんだが、オンラインゲームについてのコラムを書いてくれないかな?」
 これは、そう編集から勧められたことに始まった。
 それまでの俺はゲームには無縁とは言わないが、どっぷりはまったりする事はなかった。
 「オンラインゲーム、ですか」
 渡されたパッケージは、今流行りだというファンタジーな舞台のRPGであった。
 オンラインゲームは未経験な俺でも、そのタイトルくらいは知っていた。
 「じゃ、頼むよ」
 「はぁ……」
 生返事をした俺はあまり気乗りしないまま、家へと帰ってオンラインゲームを始める事とした。
 それが、ちょうど一ヶ月前のことである。


 『マグナムブレイク!』
 ごしゃ!
 俺の放つ必殺剣は、トロルを一撃の下に葬った。
 だがしかしトロルたちは続々と現れ、俺を囲むようにして包囲を狭めつつある。
 「やばい!」
 俺のキャラクターである剣士は、見る間に追い詰められていった。
 体力ゲージが一気にレッドゾーンに突入し、ピンチを乗り切るために放つ必殺技を放つための精神力も尽きている。
 「ここで死んだら、5時間の苦労が泡と消えるぞっ!」
 退路を求めるが、そこも敵によって埋め尽くされていた。
 「死っ……」
 覚悟を決めたときだ。
 『ロード・オブ・ヴァーミリオン!』
 ごぅ!
 モニターいっぱいに火炎のグラフィックが燃え盛った。
 同時、
 『ヒール!』
 俺の剣士が淡い光に包まれたかと思うと、
 「あ、体力が」
 剣士の赤かった体力ゲージが無傷状態のブルーへと変化する。
 気が付けば画面いっぱいの敵は火炎魔法によって瞬殺され、代わりに2人のウィザードとプリーストの姿があった。
 『魔法少女雪音ちゃん、参上♪』
 『癒し系プリースト、乙音見参です』
 「……隣の姉妹はゲームの中ですらも俺の生活に干渉してくるのか??」
 もしも2人の名前がリアルな名前でなければ、また違った出会いがあるかもしれないなとしみじみ俺は思ったのだった。


 ―――という訳で、こんな感じでどうですかね?」
 編集に記事を渡し、彼は一読。
 「なるほど、ゲームの中での出会いはオープンでありすぎる故にクローズの方向へ進むのではないか、こう言いたいのだね?」
 「ええ。それ故にまず初めのパーティは実際の知人であるパターンが多いことを無視できませんね」
 「顔を知っているが為に、必要最低限の礼儀があると」
 「はい。見知らぬ相手であれば気軽に、かつコチラ側に精神的な圧力がない為、無茶な要求をすることが多い。果ては顔が見えないことからNPC扱いするプレイヤーもいるはずです」
 「プレイヤーの精神レベルが低いとも言えぬかね?」
 「それもあるでしょう。ともあれはっきり言えるのは、そこに書いてある通りです」
 「ふむ。『何事も使い方次第』ということか」
 「そうですね。のめり込んでムキになるのも、手軽に生き抜き程度に遊ぶのも、人それぞれですよ」
 「まぁ、そうだろうな。当たり前の結論ではある」
 編集長は立ち上がる。俺もまた席を立った。
 「そうそう、まだプレイしているのかね?」
 別れ際、彼は思い出したように問う。
 「息抜き程度には、ですね」
 俺は苦笑いを浮かべ、そう答えた。


【お祝い】

 俺の目の前にはケーキが皿に載って置かれている。
 その隣には湯気とともに芳しい香りをたてるストレートティー。
 ケーキはホールを三等分にした、大きなものだ。
 白いクリームに包まれたスポンジケーキには、苺が2つばかり乗っている。
 なんでこんな甘ったるいものが俺の目の前にあるかというと、だ。
 「なんとなく甘いものが食べたくなって、かな」
 買って来たのは俺自身だったりする。
 理由は述べた通り。
 「ふーん、アタシはてっきり、お祝い事か何かあったのかと思ったよ」
 呟くのはお隣の雪音ちゃん。
 「お祝いかぁ……ちょっと大きな仕事が1つ終わったから、お祝いとも言えなくないかもな」
 その疲れで、甘いものが食べたくなったとも言えるけれど。
 「亮クンはお祝い事があると、ケーキを買うパターンが多いんですか?」
 俺の右隣に腰を下ろした乙音さんは小さく首を傾げて問う。
 「そういう訳ではないんですけど。乙音さんはお祝いのときには何を買います? というか食べますか?」
 んー、と乙音さんは小さなあごに人差し指を当てて、
 「そうねぇ……買うことはないんだけれど、お赤飯を炊きますね」
 「って、炊くのアタシじゃん! いつもいつも言うけどさ、料理の1つくらいまともに」
 「はいはい、紅茶が冷えちゃうわよ。せっかくの亮クンが買ってきてくださったケーキなんだから、美味しく頂きましょ」
 雪音ちゃんの言葉をさえぎり、乙音さんはスプーンを手にした。
 「むー、いただきまっす!」
 さくっとスプーンをケーキに刺して雪音ちゃん。
 「「いただきまーす」」
 疲れた頭には甘いケーキは染み込むように美味しかった。
 「でも何もまるまる1ホール買ってくることなかったんじゃないですか?」
 紅茶を一口、あっという間にケーキを平らげてしまった乙音さんが言う。
 「それもそうですね」
 俺もまた、紅茶をのカップを手に取りながら姉妹を見つめる。
 特にお腹の辺りを。
 「勢いで買ったとはいえ……太りますよね」
 「「ケーキは太らないもん!!」」
 身を乗り出しての反論がユニゾンした。
 「あー、いや、そんなことはないん、じゃ?」
 「そんなことあります、ね、雪音?」
 「そうです。ケーキはいくら食べても太らないものだよねー」
 2人して「そうだよねー」と言い合う姿を見つめながら、俺は2人のこめかみにうっすらと浮かぶ汗を見逃すことはなかった。
 この後、何故か2人は「運動の秋!」とか叫びながらランニングに出かけたのを俺は見てしまうこととなる。


【リンゴ狩り♪】

 ピンポーン♪
 インターホンが鳴る。玄関を開けるとそこには両手いっぱいにリンゴを抱えた乙音さん。
 「どーしたんです、それ??」
 「リンゴ狩り行ってきたんですよ。つい取りすぎてしまったのでおすそ分けです」
 ごろごろごろ
 「そう言っている間にも手から落ちてますよ」
 リンゴの数は40個。よくもまぁ、袋も何も使わないで運べたものだ。
 「問題は」
 ちゃぶ台を前にお茶をすする乙音さんを前にし、俺は呟く。
 「こんな大量のリンゴをおすそ分けとしてもらっても、食べきれないことですね」
 「大丈夫、男の子なんだから」
 「理由が訳分かりません。それに朝昼晩リンゴを食えとでも?」
 「食費節約になりますよ?」
 「……そもそも乙音さんは何個リンゴを取ってきたんです?」
 「んー、100個くらい」
 「……加減ってものを知らないんですね」
 「でもでも、残りはちゃんと食べますからね。今、雪音がリンゴ料理作ってるんですよ」
 「リンゴ料理?」
 「ええ。ジャムとかジュースとか、炊き込み御飯だとかシチューだとか、そうそう、カレーにも入れます」
 「……食べたくないのがいくつか混じってますね。それにカレーに入れるのは隠し味程度ですよ」
 「ともかく!」
 乙音さんは立ちあがると、こう言い残す。
 「しっかり処分してくださいね。それじゃ♪」
 去り行く背を見つめながら、俺は大きく溜息をつく。
 「処分って、自分で言ってるし……」


【秋の山へドライブに行こう】

 真っ赤なミニクーパーが山道を駆けて行く。
 くねくねと曲がりくねった道に、加速と減速を繰り返しながら進むその車はマフラーから異様に黒い煙を吐いていた。
 ドライバーはこのような山道に慣れていないようだ。極端な加速と減速の繰り返しでエンジンが焼きつきを起こしかけているように思える。
 その死にそうな車と同様、助手席の少女も死にかけた顔を浮かべていた。
 車が右へ左へと遊園地の絶叫マシンの如く揺れる度に、シートベルトできつく固定された身体はそのまま、ツインテールの頭がだけががくんがくんと揺れている。
 表情は青い。
 「あ、姉上、もうちょっとゆっくり走ったらどうです?」
 「うふふふふっ、私は鷹、大空を舞う鷹なのよっ」
 運転席の女性の目には尋常でない何かが宿っているような気がした。
 「……はぅ」
 助手席の少女は再び力なくうなだれたのだった。


 「とうちゃーく!」
 爆走ミニクーパーはどこぞの山の山頂にあった。
 運転席の彼女――乙音が車から降りて大きく背伸び。
 「ちょっと寒いわね」
 少し遅れて助手席側が開き、まるで貞子のようにずるりと少女――雪音が降りて、いや落ちてきた。
 「し、死ぬ…」
 「雪音、紅葉は堪能した?」
 「……そんな余裕は全然。しかし寒いですね、すっかり秋って事なんだろうね」
 「そうね、寒いから帰りましょう」
 「え?」
 「さ、早く乗って。風邪引いちゃうわよ」
 「えぇ?! もうちょっと休ませ…」
 「しゅっぱーつ!」
 「ふぇぇぇ?!?!」
 地獄の二丁目にようこそ。
 今度は乙音の山道下り運転に、死ぬ思いをした雪音であった。


【転換点】

 そこは小さな喫茶店。
 ただし場所は郊外であり、社会人相手に経営している訳ではないようだ。
 店主自身は一昨年、勤めていた会社をめでたく定年退職し、この店を始めたのだという。
 すなわち趣味で経営していると言っていいだろう。
 特徴と言えば、少し歩いたところに公立高校が1つあることくらいだ。
 お昼時。
 広くはない店内に3組の客がいた。
 そのうちの1つは、女性2人だ。
 1人は桜色のスーツを着込んだ若い女性。目の前の相手に厳しい目を向けている。
 対するもう1人は長い黒髪の、どこか眠そうな顔をした年上の女性だ。
 2人の前には大皿に乗ったサンドイッチと、紅茶の入ったカップが1つづつ。
 カップからは湯気は立っておらず、それでいて量も減っていない。
 サンドイッチにしても同様だ。
 「貴方はどうお考えなんですか、乙音さん?」
 静かな、それでいて迫力のある声に黒髪の女性はカップに入ったスプーンを軽くまわす。
 陶器と金属の触れる、小さな甲高い音が響いた。
 「考えなんてありませんよ、春菜さん」
 飄々とした態度で応じる。答えに春菜はさらに目を細めて言葉をぶつけた。
 「私達がこの世界にいる理由を、お忘れではないでしょう?」
 「ええ、もちろん」
 微笑んで乙音は続けた。
 「ラストファクターを見出すために、私達はここに来…」
 「しっ!」
 春菜は乙音の言葉をさえぎる。
 「その名を不用意に出してはいけないと、あれほど言っているでしょう?」
 「そうでしたね」
 小さく微笑み、乙音はカップの中身を口に運んだ。
 生ぬるい紅茶が口の中に広がる。
 「私達が探し当てることによって、私達は…仲間達はさらに人間に近づけるんです」
 春菜もまた、冷えたカップに口をつける。
 「私達、人より創り出されし人で無いモノ――完全なる『人』になるための最後のエッセンス」
 かちゃり、カップを置いた乙音。
 言葉を春菜が引き継いだ。
 「それを探し出すために私達は来たのでしょう、この世界に。妨害と監視の目を潜り抜け、数多くの仲間達を犠牲にしてまで」
 「そうね、そうでしたね」
 乙音は無表情に春菜に問いかける。
 「それで貴方は見つけたのですか? 最後のエッセンスを」
 春菜は小さく首を横に振る。
 「だから私は焦っています。この世界にいられる時間も、そう長くはないのだから」
 「そうかしら?」
 首を傾げる乙音に春菜は大きく溜息。
 「正体がばれたら、すぐに彼らは追ってくるでしょうし、なにより人でない私達は人間達にとって格好の研究対象になるでしょう」
 「正体はでも…ばれるかしらね?」
 能天気な乙音の言葉に、春菜は厳しい顔をする。
 構わずに乙音は続けた。
 「副担任の貴方は、絢夏ちゃんやウチの雪音がクラスメートから突出してなにかおかしいところがあると思う? そう見えるのかしら?」
 ぴくりと、春菜の眉が動いた。
 「そしてなにより。貴方は教師としての職業をしっかりと全うしているのではないの? 普通の人間と違う行動をしているの?」
 「それは…ないけれど。でも!」
 春菜は乙音の言葉を振り払うかのように首を左右に振りながら言う。
 「でも、答えを見つけ出さない理由にはならないわ」
 「では貴方は教師として…」
 乙音は表情を変えないまま、すなわち無表情のままに再び問う。
 「絢夏ちゃんと雪音、2人と他の人間であるクラスメートを見てきて、何か圧倒的な違いを見出すことができた?」
 「できないわ」
 春菜は即答。
 「できなかった。違いこそが答えだと思って教師となったのに。あの娘達は人間と変わるところがない」
 「ではすでに私達はラストファクターを手にしている、とは考えられないかしら?」
 「?!」
 乙音の言葉に、春菜は驚きの表情を浮かべる。
 そしてすぐにそれは猜疑のそれへと変化した。
 「いつ、どこで手にしたというのです?」
 「はじめに言ったでしょう?」
 そこでようやく、乙音は小さく微笑んだ。
 「考えなんて、ないって」
 「はぁ……まったく……」
 春菜は右手で己の額に手をついた。
 「では発想の転換をしましょうか」
 乙音は楽しげに、こう切り出した。
 「人の意志と私達の意志の違いはなんでしょう?」
 「……人の意志なんてこと、解明されていないことが分かる訳ないでしょう。私達の意志についてはただのプログラムであるとは言えますが」
 「違いはあるんですかね?」
 「違うでしょう」
 「どこが?」
 「人は完全なる自由意志であり、私達は決まった思考ルーチンしか持たないプログラムというところがです」
 「でも人もまた、それぞれの意志の下である程度決まった思考ルーチンで活動していると思いませんか?」
 「……それとこれとは違うでしょう?」
 「結果は似ていませんか?」
 「過程が違います!」
 頑と張る春菜に、乙音は困った顔で頭をかいた。
 「私は思うんですよ」
 溜息1つ、乙音はカップの中身を見つめながらこう言った。
 「ここにこうして存在しているということが認識できる時点で、すでに私達は人と余り変わらないのではないかって。そして」
 カップを手に取る。
 「そして、私にとってのラストファクターは私自身に作用するものではなく、もっと別の……なんというか」
 そしてカップの中身を一気に飲み干した。
 「そう、自身と他者との間にあるものなんじゃないかって」
 カタン、カップをテーブルに戻して乙音。
 「今のところは、こんな答えじゃダメですか?」
 対する春菜は少し呆れた、そして難しいものが混じった顔をしている。
 「ちゃんと考えをお持ちじゃないですか、乙音さん」
 「え、こんなので良いんですか?」
 「ダメですけど」
 「あぅ」
 ばっさり切られた。
 「ですが、それはそれで追いかけてみてください」
 春菜もまた、カップの中身を一気に飲み干す。
 「私は私で答えを探します、ですがその先には貴方の考えるものは決してないと思います」
 「そう、ですか」
 溜息のような乙音の言葉を聞きながら、春菜は腕時計を一瞥。
 「それでは、私は午後の授業があるのでこれで」
 「はい、頑張ってきてくださいね」
 春菜は席を立つと、軽く乙音と店の主人に手を振って店を後にした。
 残された乙音は目の前の手をつけていないサンドイッチを見つめ、
 「マスター、サンドイッチお持ち帰りしていいですか?」
 無邪気な笑みを浮かべてそう問うたのだった。


【妹系の時代到来?!】

 それは静かなある晩のことだった。
 彼女――雪音はちゃぶ台に載ってこう叫びだした。
 「とうとう本格的にアタシの時代が到来よっ!」
 彼女の右手左手にはそれぞれビデオテープがあり、タイトルに「To Heart 2」と「canvas2」と書かれてあった。
 「雪音、時流はむしろ時代の変化よりも遅れていることが多々あるのよ」
 大きく溜息を吐きながら、乙音が得意顔の妹に忠告。
 「姉上! けれどTVアニメ化されてる作品で、初っ端から妹キャラがメインで出てくるのが2作品もあるんですよ! やはり今が旬ということでしょう?!」
 「でもねぇ…」
 乙音は困惑顔で続ける。
 「両方とも2話が幼馴染みのお話でしょう? もはや題名だけそのままで中身を替えても視聴者は気が付かないんじゃ…」
 「シャラーップ!! 姉上、それ以上は危険発言です、敵をたっくさん作っちゃいますよっ!」
 「?? そう? ともあれ、絵柄も似すぎてて違いが分かりづらい作品ばっかり見るのもなんだと思うわよ」
 「じゃ、姉上は何がオススメなのですか?」
 「capeta」
 「面白いに決まってるじゃん! もっと「こりゃダメだろ」ってので勝負しようよ、勝負っ」
 「その言い方の方が暴言だと思うけど…」
 そして今夜も電波だけが騒がしく、静かな夜が更けていく。


【秋の洗濯】

 「からっとした秋晴れですねー」
 年季の入ったアパートを背に、その中庭で乙音は大きく背伸びした。
 まるで身体にまとわりついたジメジメした空気を振り落とさんとしているようにも見える。
 「そうですね、ずっと雨続きでしたから一安心ですよ。洗濯物もこれで乾きます」
 缶コーヒーを片手に、その隣で所帯じみた事を言う亮。
 「へー、亮お兄ちゃんてちゃんとお洗濯してたんだ」
 からかうように言うのは、2人の足下で竹箒を膝の上に抱えてかがんでいる雪音だ。
 彼女の目の前には山のように詰まれた枯葉の山。
 先ほどからマッチに火をつけて着火させようとしているようだが、わずかに湿っているためかなかなかうまくいかないようだ。
 「失礼な。オレだってアイロンがけまでするぞ。むしろ乙音さんより巧いと思う」
 「へー、そうなんだ」
 「ま、言いましたね、亮クン」
 「じゃ、勝負してみればいいじゃん。丁度、夕方にはウチの洗濯物も乾くしさ」
 「「アイロン当番をオレ(私)に押し付けようとしているんじゃないか(の)?」」
 雪音の提案は2人の突き刺すような視線に串刺しにされた。
 「……えーと、よし、火がついたっ!」
 かがむ雪音は「ふーっ、ふーっ」と火のつき始めた落ち葉の山に必至に息を吹き始める。
 後ろの2人の視線が気づかないかのように。
 「うぁ、煙むーい!」
 ごほごほ咳き込む彼女に、
 「がんばれー」
 「じゃんけんで負けたんだからな」
 後ろから心のこもっていない声援が後押し。
 「……うー、雨、降れば良いのにな」
 ボソリ、雪音は一人目に涙をためながら雲1つ無い青空を見上げたのだった。


【空のライセンス】

 煙草が切れた。
 「むぅ」
 正直、原稿がはかどっていたところだ。
 小休止を入れることによってこのなんというか、仕事が進む波が止まってしまいそうな気もするが。
 「仕方ない」
 ないと気づけば気づくほど、欲しくなるもの。
 俺は革ジャンを羽織って玄関の戸を開けた。
 外は快晴。
 覆うものが一つもない、高い高い青空だ。
 それ故、寒さがいつにも増しているような気もするが。
 革ジャンのファスナーを閉め、俺は1階への階段を下る。
 と。
 「こんにちわ、乙音さん」
 「あら、亮クン。こんにちわ」
 薄手のコートを羽織った乙音さんが階段の下で空を眺めていた。
 「お出かけですか?」
 「ええ、せっかくの祝日ですしね。亮クンも?」
 「いえ、俺はちょっと煙草を買いに」
 「そうですか」
 言って彼女は再び空を見上げた。
 つられて俺も見上げる。
 視線の先には青い空と、
 「飛行機雲、か」
 今生まれはじめたばかりの白いスジが、蒼空をきれいに割って行くのが見えた。
 「自由に空を飛ぶって、素敵なことだと思いませんか?」
 視線は空のままに、そう乙音さんが呟くようにして言った。
 しかし青空に雲を生み出す飛行機は、しっかりと順路をたどって飛んでいる訳で。
 「そうですね」
 俺は同意しておいた。意地悪というわけでもなければ、面倒というわけでもない。
 なんとなく、そう思ったから。
 きっと空の高さのせいだろうな。
 「ですよねー、うん、決めました」
 「??」
 数日後、おそらく何かに騙されたらしい乙音さんが『航空機ライセンス』などという免許書を自慢げに俺に見せびらかすことになる。
 どこでそんなものをとって来るんだか……。


【クリスマスを前に】

 コンクリートに囲まれたこの街はあまり四季の移ろいを感じさせない。
 しかし『暑さ』と『寒さ』は別だと思う。
 むしろ四季のはっきりしている田舎よりも、この2点に関しては強烈だと、そう思う。
 雪は降りはしないが、すっかりと冬といえる寒さになってきたこの時期。
 オレはコタツに腰まで浸りながら、煎餅をかじりつつぼんやりとTVを見つめていた。
 TVではニュースが放映されており、何故かサンタの衣装をしたお天気お姉さんがクリスマスの赤と白で飾り立てられた繁華街をレポートしている。
 「あー、そろそろクリスマスですねー」
 オレの右手、同じく煎餅をかじりつつ、ぼんやりと呟くのは隣のお姉さんであるところの乙音さんだ。
 「そーですねー」
 ちなみに煎餅はこの人の差し入れである。
 草加のお土産だそうだ……何しに草加に行ったのかが良く分からないが。
 「亮クンはクリスマスの予定なんてのは詰まっちゃったりなんかしてるんですか?」
 ニヒヒ、と挑発的な笑みを浮かべながら乙音さんは訊いてくる。
 「そりゃ、もぅ大変ですよ。引く手あまたで断るのに一苦労です」
 「へー、断りすぎて予定入れ忘れた、とか言うんだった、お煎餅2枚同時に食べてくださいね」
 ごりごりっ!
 硬い草加煎餅の2枚はかなりきつかった。
 「そーゆー乙音さんは、そんなセレブな過ごし方されるんですか?」
 「フフフ……、もぅ、叶姉妹真っ青な、超豪華・超絢爛・超…えーっと…」
 「慣れない言葉使わない方がイイですよ」
 「……そうですね」
 そもそもそんな予定があるような人が、こうしてお隣にお邪魔して呑気にコタツで煎餅食べたりしないと思う。
 ってか、くつろぎ過ぎですよ、乙音さん??
 「亮クン、お茶おかわりー」
 「…はいはい」
 やがてTV画面の中では、クリスマス特集と称してケーキの有名なお店やら、七面鳥やら、人気アミューズメントパークやら、カップルにお似合いなオススメ映画やら、照明がきれいなナイトスポットやら……。
 「地域振興会の宣伝みたいな番組ね」
 「そーですねー」
 「でもこういうのを観ていて思うのだけれど」
 「はい」
 「えっと、私は違うんだけどね。こういうのに縁がない人が見たら、もーどうしようもない敗北感とか感じるのは何でだろうなーって、そう思うの」
 「敗北感ですか?」
 「ええ」
 「感じてるんですか?」
 「いえいえいえ、私じゃなくてね! えっと、その、知り合いがね、そう言ってるの」
 「へー」
 この期に及んでまだ否定するか、この人は。
 「オレは別に、感じませんよ、そんなの」
 「そうですか?」
 「全然平気ですね」
 「本当ですか?」
 「縁がないと、そう割り切ってしまっていれば、何とも無いものなんですよ。クリスマス? 何それ? って感じですよ?」
 「…じゃ、亮クンはクリスマス・イブはどう過ごされるんです?」
 「そうですねー、近所の居酒屋で軽く一杯、ってところですかね」
 「そう、ですか」
 まじまじとオレの顔を見つめる乙音さん。
 いえ、別に顔は引きつっていませんから。無理していませんからっ!
 ……多分。
 「乙音さんはイブはどう過ごされるんですか?」
 「え?! そ、そりゃ、もう……えーっと、そうだ、雪音もいるし、姉妹水入らずで」
 「雪音ちゃん、クラスメート達と遊びに行くって昨日嬉しそうに言ってましたけど?」
 「あぅ! というのは冗談で……えとえと……」
 「暇、ですね」
 「ひ、暇じゃないもん!」
 必至に否定する乙音さん。うっすら目に涙が溜まっているような気が……。
 「じゃ、暇だったら、一緒に呑みに行きませんか? 一人モノ同士、少しは賑やかになるでしょう」
 「え? それって……」
 伺うようにして乙音さんは問う。
 「デートのお誘いってやつですか?」
 「じゃ、居酒屋は焼き鳥専門の鳥将で決まりですね」
 「七面鳥の代わりに焼き鳥で、シャンパンの代わりに焼酎ですかぁ?」
 「ご不満そうなセリフの割には顔を嬉しそうですね」
 「やっぱり芋焼酎ですよねー、呑むとしたら。亮クンいれば間違い無く家に帰れるからたくさん呑みますよー♪」
 よっぱらいの面倒は見たくないので、当日はオレも負けずに呑もうと誓った瞬間だった。
 これは何気ない、本当に当たり前のように何気ない、クリスマス前の冬のある日のこと。
 まだこの時は、オレはこの当たり前のような時間がずっと変わることなく今の延長線上にもあるものだと、そう信じて疑わなかったんだ。

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