高速の死角
その三
「ちょっ、ちょっと、待って下さい。完全自律走行自動車の研究内容は、社内でも、完全な極秘になっているんです」
研究所内の廊下で、環実験場主任の、あわてふためいた声が響いていた。いきなり、実験車両の詳しい事が知りたいと言って、研究所主任のいる実験車両のモニタールームに向かおうとしている、菊島、蘭東、及び、蘭東におんぶされている桜木(つまり、高見ちゃんの現実逃避は、田波が、化け猫が乗っ取っている車に人質に取られた時に、なっちゃったものだったのですね。はい。)を、何とかして止めようとしているのだ。
「そんなの、こっちの知ったこっちゃないわ。ウチは、社員が人質にとられたのよ」
横に張り付く様して、ゴチャゴチャと言ってついて来る環には、まったく振り向きもせず、ズンズンと菊島は進む。その後ろに、桜木を背負った蘭東が、ピッタリついてきている。
「そっ、それは、お察しいたしております。ですが、当社の極秘事項を上層部の許可なくして見せるわけには……」
「許可?許可なら要りませんわ。ほら、ここにちゃんと、当社は秘密厳守いたしますと明記しております」
蘭東は契約書をビィシッと環の目の前に突き出した。
「それは、そうですが……」
契約書を楯にされて少しひるんだ環は、今度は説得の仕方を変えてみた。
「いや、しかし別に、実験車両の詳しいことが、わからなくとも、そちらの仕事に影響があるとは思えませんが……」
これを聞いた菊島は、急に立ち止まり、初めて環の方に体を向けた。
「じゃぁ、あれが普通の車両だと言いたいわけ。あんたも見たでしょ、ウチの田波君を人質に取った時の、あの動き!!」
と、一気にまくしたてた。
この菊島の勢いに圧倒されて、環は黙りこんだ。この一瞬、環の注意は、完全に菊島の方にだけ、向いていた。
蘭東は、この瞬間を逃さなかった。
膝を曲げて桜木を静かに床に降ろすと、スッと後ろから左腕を、環の左肩の上を通して、環のシャツの胸ポケットに手を伸ばし、カードキーを人差し指と中指とで挟んで抜き取ると、そのまま手首のスナップを使って、菊島の方にカードキーを投げた。
「社長、ハイッ」
カードキーは、縦回転をしながら飛ぶ。
「あっ!!!!」
環の目に、菊島の掌を着地点とした放物線を描くカードキーが映った。
「栄子ちゃん、ナイス!!」
カードキーを受け取った菊島は、すぐさま実験車両のモニタールームの扉を目指して走った。
「ちょっ、ちょっと」
あわてて、環は菊島の後を追いかけようとしたが、
「うわっ!」
左肩を蘭東に掴まれてバランスを崩し、尻餅をつきそうになってしまった。
すかさず、蘭東は、左肩を掴んでいた左腕を環の首に回すと、耳元で、
「環実験場主任、ちょっとお顔をお貸ししてもらいますよ」
と、囁いた。
「えっ」
「正確には、目ですけど」
何かを企んでそうな、その言葉に、環は肝を冷やす。
そして、目線の先には、モニタールームの扉に到着した菊島が、今まさにカードキーを通そうとしている姿があった。
「ほいっと」
菊島は、上から下に勢いよくカードキーを通した。
「Pi!」
電子音が鳴る。が、扉は開かない。
「えっと」
菊島は首をかしげた。
「あれっ?栄子ちゃん、開かないよ」
「社長、機械の横にあるコネクターに携帯電話を繋いで」
「これ?」
「そう、社長、それ」
蘭東に、そう言われた菊島は、指示通り、携帯電話とカードリーダーをケーブルで繋いだ。
菊島が繋ぎ終えたのを確認した蘭東は、右手でジーンズの尻ポケットから、デジカメを取り出した。
「環主任、ちょっと目を開けたままにしてもらえますか」
環の首にかけていた左手を、環の右目に移動させると、親指と人差し指で目をグッと開いた。
「あたたたったたっ」
「まずは、右目」
痛がる環を気にせず、デジカメのレンズを眼球ギリギリまで近づけてシャッターを押した。
「で、左目と」
「いたたったたっ」
続けて左目も、同じようにしてから、シャッターを押した。
「さてと、ケーブルは、どのポケットだったかしら」
無事(環は痛がってるが)、撮影を終えたらしい蘭東は、ジャケットのポケットからケーブルと取り出すと、携帯電話とデジカメをケーブルで繋いだ。
「これで、良しっと。社長、今から、そっちに送信するから」
「送信って、まさか、網膜を!!」
デジカメの送信ボタンを押し終えた蘭東に、環が驚いた顔で振り向いた。
そんな環に向かって、
「ええ、このデジカメ、ちょっと改造してあるんです」
と、いたって普通に蘭東は答えた。
みるみる環の顔が、崩れていく。
その後ろで、
「網膜パターンは、環倫一郎、本人のものと確認しました」
女性の合成音声がして、モニタールームの扉が開いた。
「ほ〜〜〜〜い、栄子ちゃん、開いたよ〜」
開いた扉の前で、菊島は手を振った。なんか、えらく楽しげだ。
「じゃっ、環さん、誰が研究所主任か、教えていただけますか」
桜木を背負い直した蘭東は、こう言いながら、固まりかけている環の横を通り過ぎた。
という訳で、環の不幸は、まだまだ続く。どんなに、努力したって、続いてしまう。何故って、それは、いつも不幸を背負っている、田波君がここにいないため、その代わりになっちゃっているのだから。
コントロールルームに、入る、入れないの一悶着が、環と菊島&蘭東の間にあった間、梅崎&姫萩のコンビは、化け猫が乗っ取った実験車両と、カーチェイスを、
「見つけた!!夕、あそこだ!!」
「今度こそ、逃がさないよ」
していたと言うよりは、鬼ごっこをしていた。
梅崎&姫萩は、田波が囚われの身になってからも、バモスで追跡を続けていたのだが、化け猫の車に、とても普通の車両とは思えないような動きをされて、寸前のところで捉えきれていなかった。
「あの実験場主任が、同姓同名の別人じゃなく、本人だったら」
「あたしの運転、信用できないの〜」
今度も、多分逃げられてしまう。
化け猫の車は、道幅6メーターの行き止まりの道路にいた。
奥から、出口までは、約35メーター。化け猫の車は、出口から30メーター地点に完全に停止して、奥の方を向いていた。
「キッ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッキギッ」
「よっし、これで出口は塞いだわよ」
姫萩は、バモスを道路の出口に急停止させた。
相手は、肉眼で完全に捉えられる距離にいる。
袋のねずみ、いや、袋の化け猫にすることが、ようやく出来たのだ。
しかし、化け猫の車に、動く気配はとんとない。
「夕、気をつけろよ」
田波を人質に取られている以外は、絶対的優位な立場にいるにもかかわらず、二人とも気を抜いた顔をしていない。姫萩は、帽子のつばを手で掴んで、しっかり被り直した。
「いくわよ」
「OK]
「ジャズズズ」
ソロリと、姫萩がバモスを発車させた。それと同時に、姫萩は、背中を、ピッタリとシートに押しつける。基本中の基本であるが、あいてを警戒して、ゆっくり近づいていくものと思っていた梅崎は、車を注視するあまり、上体が少し前に倒れていた。
そういう姿勢は、以下の場合、危険である。
「どっかに、掴まっといて」
「えっ?」
イキナリ、姫萩はハンドルをおもいっきり左に回し出した。
「キッキュ〜〜〜イキキュ〜〜」
「どわっ〜〜」
急激に、バモスが横に振れる。
姫萩に掴まっといてと言われてた梅崎だが、すぐに、そんなことは出来やしない。
当然、振り回されて、座席から飛ばされた。しかもバモスには、ドアはない。
まず、前のめりの姿勢になっていたせいで、左側頭部をフロントガラスの枠にぶつると、トレードマークの帽子を車内に残して投げ出された。
「イッ」
背中が地面に迫り、梅崎は息を呑む。
「キッキュ〜〜〜イキキュ〜〜」
それから一瞬の間を置き、バモスは、今度は急激に右にターンした。
地面に加え、荷台が、梅崎の右体側に迫る。
だが梅崎は、間一髪、それに気づくと、
「たぁ〜〜っ!!!!」
迫る荷台になんとか掴まろうとして、必死で体を右に回転させた。
地面に落て轢かれるより、荷台にぶつかっても、それを回避する方がマシだ。
「ダウッッン」
あまりに激しく胸と顔をぶつけたため、叫び声も発することが出来ないほどになった梅崎だったが、何とか左手首を荷台に、左爪先を座席に引っかけて、地面への落下を防ぐことに成功した。
「ィツイゥ〜、ィツイゥ〜」
声にならない声を発しながら荷台を伝い、梅崎が座席に戻ってきた。
顔は潰れ、白スーツは、すすだらけになっている。
「真紀、おかえり」
姫萩はハンドルを回すのを止めることなく、そっけなくそう言った。
その言い方に、荒い息をしている梅崎はカチンときた。
「いきなり、こんなことするな!!」
「だから、掴まってって言ったじゃん」
これまた、そっけなく言い返した。
「だって、こうでもしないと、向こうに逃げられるかもしんないからね」
姫萩はそう言いながら、ジグザグ走行を続けた。確かに、道幅6メーターあれば、いくら追い詰めたとはいえ、今までのあの化け猫の車の動きから考えると、姫萩のドライビングテクニックをもってしても、すり抜けられてしまう可能性はある。ジグザグ走行は、それを阻止するには、有効な手段であった。
座席に座り直した梅崎は、背もたれを両手で後ろ手に持つと、足を突っ張って激しい揺れに対抗した。だが、首だけは、両肩を上げたり、頭の後ろに力を込めて座席に押さえつけたりして、横揺れに対抗してみても、振られっぱなしであった。
それでも梅崎は、揺れる光景の中に、必死に化け猫の車を捉え続けた。
波打つように流れるテールランプが、どんどん太くなってくる。
尻尾までの距離は、あと10メートル。
そこまでになって、初めて化け猫は動いた。
バモスの車内に緊張が走る。
右か、左か。
何れにせよ、バモスを押しのける以外に脱出する手段はない。
「夕、来るぞ!!」
梅崎の、その叫び声に合わせるかの様に、姫萩の左手がシフトレバーにかかった。
バモスのハンドルは、左に切られている。
姫萩の右斜め前方から、尻尾が迫る。
距離とタイミングを計る。
「てやっ!!」
そして、いきなり、バックギヤにシフトした。
「ガガガガガッギュギ〜〜〜」
機械と、タイヤの悲鳴が同時に聞こえる。
読みはあった。
相手が脱出を第一に考えるなら、より出口に近い荷台の方にぶつけてくるはずなのだ。
そして、その読み通り、化け猫は少し左にハンドルを切っていた。
読みは当たった。
あとは間に合うかどうかになった。
だが、バモスの悲鳴は、まだ終わっていない。
焦った姫萩は、たまりかねてアクセルを目いっぱい踏んだ。
鞭がバモスに入れられた。
「ッウ〜〜ガッズヴィ〜〜〜」
それが効いたのか、一瞬静かになったあと、猛烈なバックを始めた。
「よ〜〜〜〜しっ」
姫萩は、顔をわずかに緩ませ、ハンドルを、さらに左に回す。
見る見るうちに、バモスが道路と平行になっていく。
それと同時に、バモスと化け猫の車を結ぶ線も、道路と平行になっていく。
「ダッドゥン」
化け猫の尻尾と、バモスの額がぶつかった。
「キッキッ〜〜」
バモスがブレーキを掛ける。
「ブトゥ〜〜ン」
化け猫の車が、低い唸り声を上げた。
「ジャッズズズズズズズ」
バモスが、少しづつ後退していく。
パワーも、車両重量も上の相手では、これは当然であった。
「真紀、早く田波君を助けてあげて」
「わかった」
あわててバモスを降りた梅崎が、相手車両の助手席側のドア(前の左側のドア)に駆け寄り、顔と手をガラスに貼り付けた。
ウインドウの向こうに、気絶したままの田波の姿があった。
「田波っ、田波っ」
握った左手の小指側で、窓ガラスをドンドン叩きながら、あらんかぎりの声で叫んだ。
しかし、一向に田波は気づかない。
そうこうしている内に、田波の姿が右に流れ出した。
窓ガラスに貼り付けていた右手も、右に引っ張られていく。
梅崎は、確実にさっきよりも、バモスが押されていることに気づいた。
「夕っ!!」
姫萩の方を振り向いた梅崎の顔には、焦りがありありと表れている。
しかし、姫萩の方も、目が大きく開き、胸がハンドルにくっつくような前傾姿勢をしていて、とても余裕があるようには見えない。
「ザザササザ〜〜〜ザザササ〜〜〜」
バモスのタイヤが空転する音が、ほんの少しだけ高くなった。
「早く!!」
姫萩の顔が、さらに険しくなっている。
バモスが、もう耐え切れないのを、梅崎は、そのことから悟った。
「チッ」
舌打ちして、懐からモーゼルを抜いた。
田波が、気がつくのを待ってる暇はない。少し車から離れると、田波に気をつけながら、窓ガラスとドアの境目に狙いを付けた。ここに穴を空けた方が、ドアのロックの解除作業はしやすい。
「パン、タッキーーーーンッ」
銃声のあと、わずかに遅れて別の音がした。
目を細めてサイトを見つめていた梅崎の目が、逆に大きく開かれた。
「なっ!」
その大きく開かれた梅崎の目には、何の変化も無い窓ガラスが映っていた。それは、梅崎にとっては悪い夢としか思えなかった。
「パン、タッキーーーーンッ、パン、タッキーーーーンッ」
その悪い夢を追い払うかのように、続けて撃つが、そのどれもが、ほんの少しの擦過痕しか窓ガラスに残せない。
「ゆっ、夕!!」
予測していなかった事態に対して、困惑した顔つきになった梅崎は、姫萩に向かって懇願するかのような声を出した。
と、その時だった。
「ドゥゥゥゥゥゥゥゥ〜〜〜〜ウ」
少し高く、そして小さな唸り声がしたかと思うと、一気にバモスが押された。
4メーター、5メーター、とにかく、いきなりだった。
「真紀、早く!!」
精一杯の顔をして、姫萩が叫んだ。
そして、その叫び声がバモスにも聞こえたのか、今度は逆に押し込んだ。
いや、違う。そう見えただけで、本当は、化け猫の方から、引いたのだ。
姫萩は、すぐにその狙いに気がついたが、反応しきれなかった。
まず、実験車両は、後部座席のドアが梅崎の横を通りすぎると、途端にバモスの左側へと変わった。
「スシャーーーーーン」
バモスと実験車両の、お互いの右サイドが擦れあった。
次の瞬間、その嫌な音が、
「シャーンシャシャシャーン」
大きくなった。
実験車両が、出口に向かって急にバックし出したからだが、それは直に止んだ。
バモスが、完全に、はたき込まれたからだ。
その後、すぐに、その音に代わって、
「ガチャッ」
別の音が梅崎の背後でした。
それは、後部左ドアが開いた音だった。今度は、梅崎を飲み込む算段なのだ。
実験車両が大きく口を開けて、背後から梅崎に迫る。
「ドッ」
逃げる間もなく、顎が、後部左ドアが、梅崎の背中にぶつけられた。
そして、田波の時にも見せた回転を、化け猫が、乗っ取られた実験車両が、始めた。
口内が、実験車両の車内が、前に飛ばされ倒れこむ梅崎の目に入る。
だが、梅崎は観念しなかった。
「くっ」
左脇に、右手で握っていたモーゼルを通したあと、ギュッと左脇を締め、
「パッゥンパッゥン」
連射した。薬莢が、車内に飛び入る。
と同時に、倒れこむ梅崎の体に加速がついた。
左脇を締めたおかげで、反動が逃げなかったからだ。
ただ、左脇から後ろに向けて撃ったせいで、体は右回転をしていた。
ループタイが、髪が、振り回され、スーツのポケットに入れていた御札は、辺りに散らばった。
そして、体が、180度回転する。
既に暗くなった空をバックに、月明かりを、ほんの少し透した御札が、羽のように舞っていた。
だが、梅崎には、そんな光景に見とれている暇はなかった。
何故なら、倒れて、ほとんど地面につきかけている梅崎の頭に、−−−左脇に通したモーゼルのバレルを−−−左側後輪が、−−−肩関節の裏にピタリとつけて−−−迫ってきてたからだ。−−−トリガーを引いた。
「パッゥン」
左耳の後ろが光った。
両足の踵とふくらはぎ、そして大腿部が地面と擦れる。
そして、自ら、顎を上げる。
「キッシュゥゥゥゥイ〜〜〜」
間一髪で、化け猫の腹が、鼻先を通り過ぎていく。その間、梅崎の両眼は、極度の緊張と興奮のため、大きく開いたまま固定されていた。
「イッイッイッィツ」
目を開けていた事で有無を言わさず味わされた安堵と恐怖が、梅崎に、しゃっくりを無理矢理我慢したかの様な声を出させる。
その後、化け猫は180度回転し終わると、この場を悠然と去っていった。
テールランプが、ほんの少しだけ赤く、バモスを照らした。
「Uターンしても間に合わないわね」
バモスに乗っていた姫萩が、その赤い明かりを振り返って見つめていた。
幸いな事にバモスは、壁ギリギリのところで停止出来たため、傷は実験車両と擦った擦過痕だけで済んでいた。
「ふぅ」
姫萩は、タバコに火をつけてから降車すると、一服した後で、ゆっくり歩いて、まだ仰向けになったままの梅崎の方に向かった。
さて、その梅崎は、寸前のところで危機を逃れることが出来た訳だが、
「イッイッイッィツ」
安堵と恐怖からは、まだ逃れていなかった。
「タンタンタン」
そういった精神状態の梅崎のところへ、スニーカーがアスファルトを叩く音をさせながら、姫萩は近づいた。
両方の目には、髪とスーツは埃にまみれ、周りには何枚もの御札が散乱している梅崎の姿が、ちゃんと入っていた。
そう、ちゃんと見ていたのだ。
見ていたのだ。
しかし、それにもかかわらず、
「あっ、生きてる、生きてる」
姫萩が梅崎にかけた言葉は、さっきみたく、そっけないものだった。
けれど梅崎の方は、さっきみたく、カチンとくる気力はなかった。
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