高速の死角
その四
梅崎を飲み込もうとした化け猫が、バモスを背に悠然と去っていく中、田波の方は、はらわたの中で散々振り回されたあげく幾度も頭頂部をぶつけたおかげで、やっと目が覚めた。
「うっんっ」
だが、目覚めたばかりで低速回転の田波の頭では、周りの状況はもとより、自分がどんな状態であるかの把握も出来ない。
そんな状態の頭で命令出来るのは、まず、まぶたを開ける事だった。
一度、強く目をつむり、それから、ゆっくりまぶたを開けてゆく。
半開きになってくる頃には、頭の回転も上がってきて、
「つっ痛ぅ〜」
初めて頭の痛い事に気がついた。
手が、痛いところをさするために、頭にもってこられようとする。
「シャッツッ」
だが、胸の辺りで、左手の甲が何かにこすれて止まった。
「うんっ」
ゆっくりと、掌を外側に向けて触り、それがゴムであることを確かめた。
だが、そのことには気をとめず、続いて、目を完全に開く。
暗闇。
「うぅっん」
目をこすり、何度も瞬きをする。
目は開いているし、目をこする手も、暗闇の中で、うっすらだが見えている。
じゃぁ、周りに明かりが無い?
ここは、何処だ?
「ザッザザッ」
その場で、窮屈に肩を前にすぼめ、腰をひねって、上体を仰向けにする。
「うんっ」
右肩裏に、弾力のある何かが、音もぜずにぶつかった。
まだ、体は90度以上回っていない。
田波は首を回して、邪魔なそれが何なのかを確かめようとするが、顎が前にすぼめた肩にストップをかけられた。
はやる気持ちが、眼球を首よりも先に回す。
「ううん」
幾つもの小さな光点が、いきなり目に飛び込んだ。そのどれもが左から右に流れている。
そして、何故か、それら全ての光点は、透き通った田波の顔の向こうにあった。
「えっ!?まっ、まさか!!」
驚いた田波は、すぐさま上体を起こそうと右手をついた。
「ポスィッ」
予期せずに、右手が沈む。手をついたのは、さっき右肩にぶつかった邪魔なものだ。
田波は、沈んだ右手の周りをマジマジと見る。
車のシートだ!!
「イッ!!」
瞬時に田波の心のメーターは、レッドゾーンに達した。
実験車両の中にいる!!化け猫に捕らえられた!!
慌てて、右手をついていたシートに体を移そうとする。
シートの上を滑る右肩甲骨。
急いで伸ばされる右腕。
焦ったため、ツルッと滑った右手。
代わりにシートを押す右肘。
勢い余って、首の裏をシートの背もたれにぶつけてしまう。
シートが柔らかかっため、首の方は痛くはなかったが、顎が胸におもいっきりぶつかった。
だが、痛みにはかまわず、両膝を胸まで引き寄せようとする。
それは、少しでも体を小さくして、敵に発見されにくくしようとする本能的な行動だった。
もちろん、車の中という逃げ場のない場所にいるのに、それは無意味な行動には違いない。
とはいえ、
「ガッ」
それが出来ないと、人は更にパニックにおちいる。
シートは、一番前に位置していた。ハンドルは、一番下に位置していた。当然、シートとハンドルの間は、狭くなっていた。
そして、右足の甲が、ハンドルに引っかかっていた。
田波は、一度、右足を降ろしてから、抜こうと試しみる。
だが、抜けない。
まだ運転席のシートに残っていた左足と、ハンドルの間に挟まれていたからだ。
まずは左足を……、その前に体位置を……、右足を上げてから……、いやハンドルを……、焦ってなかなか抜けない。
「痛ゥ」
ハンドルが右脛を圧迫する。今のままでは、すぐには抜けそうにない。そう考えた田波は、手の力を使って左足を押し下げて、ハンドルとの隙間が広がったところで右足を抜こうとした。
右手をシートの背もたれにつき、腕のばねを使い、勢いをつけて上体を起こした。
上体が、前に曲がる。
顎が上がる。
目の前にハンドルが迫る。
一旦、ハンドルに右手をついて、体を止める。
「ポッム」
目が合った。
いや、その前に触れてはいけないものに触れてしまっていた。掌には、鼻先と唇が。親指と小指には、頬骨が。人差し指と薬指には、眉毛とまぶたが。そして、中指には髪の毛が触れていた。
ハンドルに顔があった。
「ヒィィィ!!!」
化け猫だ!!
「バッ!!スッ!!」
驚いてのけぞった田波の背中が、シートの背もたれを軋ませる。
揺れるビジョン、揺れる思索。
逃げる、どこへ?、その前に足を抜かなくては、………どうやって?
ゆっくりしてる暇はない。無理矢理、引き抜くしか………、いや、その暇もない。
それよりも、化け猫はどうしている?
田波は、視界の隅に入っていた化け猫に、注意を向けた。
笑っていた。
化け猫が笑っていた。
もがく様を嘲笑うように。
「殺られる」と、田波は思った。
急所だけは守らなくては。急所は上体に集中している。
田波の手がシート横のレバーにのびた。
「カッチ」
背もたれが倒れる。
上体が倒れる。
脚は?
「アッ痛ッッッ」
脚は、何故か前に押しやられていた。
それは、誤算だった。
クッションと背もたれが一体可動するシートリフターを採用しているなんてことは、田波には思いもつかなかった。
背もたれは、半分が倒れたところで止められた。
化け猫は……、化け猫は、また嘲笑っている。
それを見て、田波は、痛みを耐える事を決断した。
「グッガッ!!」
挟まっている両足を、無理矢理左にスライドさせた。
回るハンドルが、右足脛の肉に食い込む。
右足アキレス腱が、圧迫される。
左足ふくらはぎが、シートに押し付けられる。
顔が、歪む。
「グッ!!」
シャンペンの栓が抜けるように、左足が抜けた。
続けて右足がハンドルの下から出るのを見ることなく、歪んだ顔が、一転してあせりの顔になった。
レバーに再度手がかかる。
「ガチャッダッ」
シートから、壊れたのかと思えるくらいの音がしたが、反動はなかった。
完全に倒れた背もたれの上を、田波は、勢いを利用して、そのまま後転する。
両足は、まっすぐにはせずに、右に曲げたまま揃えていた。
腰が浮きあがる。
両足の膝が、曲げられる。
揃えられた両脛が、運転席の背もたれの横を通過する。
「パッダッ」
両足裏を、運転席の背もたれの裏につけると、両足を左にひねった。
「ザッザザ」
腰が後部座席のシートの上を右に移動する。
そして、臀部がドアにつく寸前に左腕で体を持ち上げると、運転席の背もたれを唯一の楯にして、急いでハンドルの方を警戒した。
だが、そこには、もう化け猫の姿はなかった。
「はっはっはぁ〜〜〜〜」
上がりきった息をなんとか整えつつ、車内を見回した。
……、いない。
化け猫の姿は、どこにもなかった。
それを確認した田波が、今の内に……と、すぐに、ドアのロックを解除して、開閉レバーに右手をかけた。
「エッ!?」
だが、力をこめてもレバーは引けなかった。
考えられる理由は、一つしかない。
田波の背筋に悪寒が走る。
恐る恐る手元を見ようとするが、首も含めた体中の筋肉は硬直しきっていたため、目だけを下に向けることになった。
そして、予想通り、
「だっぁぁぁあぁぁぁ!!」
ドアからヌッと顔を出し、開閉レバーを手で押さえている化け猫を目にして、叫び声を上げた。
化け猫は、嘲りながら、ドアのロックを、元に戻す。
「カチッ」
と、ロックが完了した音と同時に、田波の硬直した筋肉に、急激にアドレナリンが流し込まれた。
脚が、腕が、そして体全体が、本能のままに動かされる。
「だっあぁ!!」
化け猫の顔に、両足の裏を向けて、蹴りを放つ。
が、それを読み切っていた化け猫は、既に顔を引っ込めていた。
そのため、力をこめた両足が、化け猫ではなく、ドアをおもいっきり蹴ってしまった。
当然、体は作用・反作用の法則のせいで、後ろにいく。
結果、
「ガッドッ」
しこたま頭をドアガラスに打ちつけた田波は、目の前が、少しクラッとなった。
おかげで、田波は、すぐに次の行動を起こすことが出来なくなる。
もちろん、そんな田波を化け猫は放ってはおかない。
そっと田波に気づかれないように、左後部座席ドアから、手だけを出すと、痛めたばかりの田波の後頭部を優しく撫でた。
「ヒッヤッ!!!!」
痛みとは別の感覚を頭に感じた田波は、驚きのあまり、何も考えずに前に飛んでしまう。
そして、今度は、
「ガッドッ」
額を右後部ドアガラスに、しこたまぶつけた。
一方、その、あまりに滑稽な田波の反応に、嘲笑しながら化け猫は、またドアの中に消えていった。
で、田波の方は、化け猫が消えていく中、痛みでサンドイッチされた脳が、今、置かれている状況を分析していた。
籠の中の鳥、ネズミ捕獲器に捕らえられたネズミ、タイガースファンに囲まれたジャイアンツファン、ホテルに缶詰にされた小説家、賭場でヤクザに囲まれたギャンブラー、……
「うわっ〜〜〜」
田波が、顔面引きつらせて、涙目で大声あげた。
「ところで、どうするの社長」
「事態が変らない限り、打つ手ないわよ」
「ふにゅ〜」
(以上、どうすることも出来ない事態に、今なっているのがわかったでしょうか、みなさん。って、やっと時間を戻しました。あ〜〜〜〜、長かった。では、時間を進めることにいたしましょう。)
「でも、それじゃ、すませられないわよ。この状況じゃ」
「それは、十分わかってるわ。でも、相手は防弾仕様で、しかも人質までとられてんのよ」
「ふにゅ〜」(高見ちゃんです)
「ふうっ」
蘭東は、小さく溜息をついた。
「たとえそうでも、やらなくちゃいけないのよ。契約は、契約だし」
「相手が要人警護用の自律走行車でも?」
そう言い返した菊島に、おちゃらけたところはなかった。
「研究主任の云った事を信じてるの、社長?」
「ばか言わないで。あんな簡単に景気のいい契約を結んでくれた会社の事……」
と、言いかけたところで、周りの研究員がざわめきたった。
「んっ、なに」
「なにかあったのかしら」
周りにつられて二人とも、研究員が見ているモニターを見た。
「あっ、田波くん!!」
「やっと起きたようね」
モニターには、実験車両の中で、顔を引きつらせいている田波の情けない姿が映し出されていた。
「でもあの調子じゃ……」
「今の現状じゃ、田波君と連絡取るわけにもいかないわね。それに、みすみす相手に情報を教えるようなものだし……」
「ふゅにゅ〜」(高見ちゃんです)
と、いろいろ言われている間に、二度三度と、化け猫が乗っ取った実験車両が急停止をした。その度に、田波は車内のいたるところにぶつけられ、情けなさにいっそうの拍車がかかった。
もちろん、その様子も、モニターに映し出されている。
「ああっ、あれじゃ自力脱出は無理ね」
「とはいえ、ここからじゃ手助けする事も出来ないし……」
そう言って顔を上げた蘭東の目線は、モニターからはずされ、周りの壊されたり、狂わされたりした機械類に移されていた。
それらの修理は、研究員達の手によって急ピッチで行われていたが、なんとか無事だった機械を使って行われている、化け猫に乗っ取られた実験車両の監視と同時進行だったため、まだまだ時間がかかりそうなのは、明らかだった。
「……それに、こういった大事な事を言ってくれなかったせいで、対策の第一歩が遅れたのもあるし……」
そう言うと、蘭東は、環実験場主任と山崎研究所主任を‘キッ,と睨んだ。
睨まれた環は、そのことに気づいたのか、顔の前で手を横に振って、全然知らなかったことをアピールしていたが、同じく睨まれた山崎の方は、我関せずといった素振りで、部下達に指示を与えていた。
二人の態度の差に、如実に力関係が表れていた。
「まぁ、いずれにせよ、高見ちゃんが、元に戻ってくれないことには、こちらは身動きがつかないわ」
また振り出しに戻った蘭東の台詞に、
「で、結局どうするわけ?」
菊島が冷静に聴き直した。
「そうね、田波君救出作戦は、真紀と夕に引き続き続行してもうとして、こっちは、なるべくお仕事しているように見せましょう」
そう答えて、蘭東は携帯を取り出すと、
「ねぇ、夕、そっちはどう?」
とりあえず、連絡を入れた。
が、その姿は、少しばかり白々しかった。
「栄子ちゃん、気づかれてるわよ」
すかさず、菊島が指摘を入れる。
「うるさいわね、あんたも何かしてなさい」
「何かって、どこにも携帯かけるとこない……」
と、またも菊島が冷静にツッコミを入れたところに、
「あっ、栄子。あ〜、今、やっと後ろが見えたところ」
携帯から、どこかポォ〜とした返事が返ってきた。
「よく追いついたわね」
少しイラついていた蘭東であったが、もう冷静さを取り戻していた。
「んっ、まぁ何度も止まってたからね。ところで、……うん?」
「どうしたの、夕?」
「いや、田波君が何かしてるみたいよ」
そう言われて、蘭東はモニターを見てみた。
「うん、どうしたの」
続いて、菊島もモニターを覗き込む。
そこには、御札を右後部座席のドアガラスに貼り付けている、田波の必死な姿が映し出されていた。
「考えたじゃない、田波君。あとは、ノートパソコンに繋ぐだけね」
「栄子〜、田波君脱出するの?」
「夕、ドアガラスが破れたら、田波君が出てくるわ。なんとか横につけて」
「は〜い、了〜解」
と、答えると、姫萩は左横にいる
「真紀ちゃん、聞いた」
梅崎の方に顔を向けた。
「了解!!」
梅崎は、BRN−303を、姫萩しか見てないのに、カッコつけて構えた。
「じゃ、足止めお願いね」
「うっし」
今度は、姫萩も見てないのに、威勢良く助手席から身を乗り出した。体は振り落とされないように、目一杯引き出したシートベルトで、ぐるぐる巻きにしている。
「夕、もうちょうい右」
サイトを覗きながら、姫萩に指示を出す。
梅崎が覗くサイトの上を、道路上のあらゆる物がス〜と右から左に流れていく。驚く事に、車に乗っていて、それも十分な姿勢でないのにもかかわらず、梅崎の覗き見る風景は全く揺れていない。これは、車から来る振動にあわせて体を動かしているからなのだが、これこそ梅崎の実力のなせる技であろう。
「まだぁ〜」
「もうちょい」
化け猫の乗っ取った車は、まだサイトの右端にしか、かかっていない。
「もうちょい」
ゆっくりと、車とサイトと重なり合っていく。
梅崎が息を整える。
そして、サイトに車が隠れた。
だが、
「もうちょいだ!」
「早くしないと、追いつけないよ」
目標は、化け猫ではなかった。
梅崎の覗き見る景色が、さらに右から左に流れる。
サイトの裏に隠れていた、化け猫の乗っ取った車が完全に現われ、そして狙いから外れた。
「もうちょい!」
本当の狙いは、
「よしっ!!」
道路の右端にあった標識の支柱だった。
「ダッダダダダダダダダダダダダ」
BRE−303から発射された弾丸が、化け猫の乗っ取った車の右横を素通りし、一発も外れず支柱に命中していく。
「カラッンガンガンガン」
あっという間に支柱は撃ち倒され、化け猫の車の前方で、何度も大きくバウンドする。
「キッギュギ〜〜〜〜〜」
化け猫の車から、耳をつんざくブレーキ音がした。
「追いつくよォ」
「準備よし!!」
対して、バモスからは、体を震わすエンジン音が聞こえてくる。
足止めは、見事に成功した。
見る見るうちに、バモスと化け猫の車との距離が縮まっていく。いくら加速は化け猫の車の方が上とはいえ、急ブレーキをかけては、バモスに追いつかれるのは、目に見えている。
徐々に、テールランプを照らすヘッドライトの光が明るさを増していき、そして、ついにバモスがケツを捉えた。
梅崎は、BRN−303を運転席と助手席の間に置くと、体にシートベルトを巻き付けたまま、もう一度バモスの助手席から身を乗り出して、田波を引き寄せる体勢を整えた。
準備は終わった。
だが、
「脱出は、まだぁ〜」
右後部ドアのガラスは、まだ破られていなかった。これでは、救出しようがない。
だが、むこうの加速性能を考えると、時間的余裕はあまりなかった。
「ちっ、何やってんだ」
梅崎が舌を打つ。急停止したため、田波自身の脱出作業が一時中断したとはいえ、御札をノートパソコンと繋ぐことに、そんなに時間がかかるとは思えない。現に、田波が、御札を貼りつけたドアガラスで、しきりに手を動かしているのを、梅崎と姫萩は見ていた。
そうこうして、二人が焦っていた時に、
「ドッ」
バモスが、撃ち倒した標識の上を通り過ぎた衝撃が、二人に伝わった。
「もう待てないから、横につけるよォ」
もうギリギリと判断して、姫萩は右に出た。
バモスが、化け猫が乗っ取った車の右横にスゥ〜と並び、並走し始める。
田波の顔の表情が、梅崎と姫萩の目に見て取れるようになってくる。
もちろん、その表情は、真剣そのものではあった。
が、二人は未だ割れぬドアガラスを見ると、同時に、
「ハァ!?」
と口を開けた。
「どうしたの?ねぇ、田波君、どこか怪我でもしてるの」
未だドアガラスが破られていないのにもかかわらず、バモスが横に並んだのをモニターで見た蘭東が携帯をいれてきた。
「真紀ちゃん、読んだげて」
あきれた口調で姫萩がそう言って、その問いを、梅崎に答えてもらう。
梅崎が、ドアガラスに貼った御札に書かれている田波の文章を、一文字づつ、読んでいく。
「のーとぱそこんなし、くろすぼうなし、だっしゅつふかのう」
それを聞いて、「ヘェ!?」となった蘭東の背中で、
「あ〜〜〜〜、やっぱり」
と菊島が肩を落してた。
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