高速の死角
その六
蘭東は、自分の意志とは関係なく、大穴に賭けられてしまったレースを観ながら、ポケットの中に帰りの電車賃が残ってるかどうか確かめるような心境であった。口は、いらだちで半開きのまま、目は、祈るようにまばたきもせず、顔色は、青ざめ始めていたが、心臓は、ペースを下げることなく、速いままで維持されて、両手だけが、落ち着き払い、ゆっくりと優しく、マイクと携帯を机の上に置いた。
菊島は、自己採点では、及第点より、わずかに上であるはずのテストの結果が貼り出された掲示板の前に行く、足取の重い生徒のような心境であった。見ることを、ためらうかのように半分だけ開かれた瞼越しにモニターを見上げる目。しかし、その目は自分にも向けられており、肯定と否定とが、互いのウイークポイントを強打しあう様を、否応無しに見せつけられていた。右頬が、左に比べて少し膨らんでいることから、右奥歯が強く噛みしめられていることが、わかる。
山崎は、声帯に怒鳴り散らす命令を下す用意をしながら、事の成り行きが、そのスターターでないことを当然ながら望んでいたが、それは、とりあえずといった程度ものであった。顎は、半開きの状態を中心にして、一秒に一回わずかに上下し、それに合わせて、息の吸入が行なわれていた。顔と体は、モニターを向いていたが、目は、モニターと菊島、モニターと蘭東との間を交互に、行き来していた。
環は、落していた肩を少し張り、目を、モニター、蘭東、菊島、山崎の順にせわしなく移し、各人の表情から、結果がどうなるかを推測していた。そして、最悪の結果になる確率が上がりつつあることが、荷物を降ろした背中に、また別の荷物を背負わせていた。
桜木は、
「ふにゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
いまだ現実逃避中であった。
そして、田波は……
「どっどどわっ」
まるでコマの様に急に左ターンした車の中で、リアガラス越しに、追いかけるバモスを見ていた田波は、後部左ドアのガラスに、右鎖骨の下あたりと、顔の右側面から鼻にかけた部位をぶつけたあと、今度は、両肩甲骨が後部右ドアに打ち付けられた。恐怖と不安、何も出来ない自分へのもどかしさと、同僚への不信とが、バモスを見つめる目の両瞼を、力をこめて開閉させていたが、体をドアにぶつけた後は、両瞼は閉じたままにされた。
少しして車は完全に停止したが、田波は運転席の背もたれに、後ろから両腕を回して組み付き、両脛を背もたれに、臀部をカーペットに、腰を後部座席シートに押し付け、荒い息をしていた。
車は、その後、すぐには動き出さず、十数秒ほど止まっていたが、その間も、田波が目を開けて、まわりの状況を確かめるようなことは無かった。
息をする時も、口を少しだけ開けた状態を保ち、顎がちょっとでも上下しないよう気をつけていた。そうしないと、瞼の筋肉が弛緩してしまうからだ。
そんな堅く閉じられた両瞼は、化け猫が車を急発進させた時でも、開かれることはなかった。
だが、
「ドゥ〜〜ン!!」
急発進直後に後方でした爆発音が、聞き慣れたものであること気がついた時、両瞼は、目の奥にめり込むかの勢いで開かれた。
真っ先に目にしたのは、
「う、梅崎さん!?」
遠方で、クロスボウを構える梅崎の姿であった。
田波は、それに驚きながらも、すぐさま首を回して、聞き慣れた爆発音のした後方を確認した。
爆発地点がどこかは、一目瞭然だった。
道路の舗装が捲りあがり、黒い小さなアスファルトの固まりが散乱している場所が、一個所だけあったからだ。
そこに田波の目も、当然、真っ先に向けられたのだが、イキナリ、目をカッと見開いたかと思うと、一瞬にして、梅崎の方に向き直った。
田波が、そうしたのは、首を左回りで後方に回す間、ずっと目に入っていた一本の線が、何であるか、急いで確かめたかったからである。
また急ぐ理由は、その一本の線に、田波が見慣れた感覚を覚えたことにもあった。
聞き慣れた爆発音と、見慣れた一本の線。
そんな感覚を覚えたのは、多分、その一本の線の終端が、爆発地点にあったからであろう。
そのせいで、田波は向き直ろうとした瞬間から、嫌な胸騒ぎがしていた。
「なっ、なっ、何考えてんだぁ〜」
そして、そういうのは、往々にして当たることとなる。
梅崎には、絶対の自信があった。
いや、正確に言うならば、自信を絶対のものにしようとしていた。
「ちょっと近かったかな」
梅崎は、クロスボウのサイトから少し目を外して、爆発地点を眺めた。
目には何故か、獲物を仕留め損なった悔しさがない。その代わりに、冷静に標的を見つめる目つきが、そこにあった。
梅崎は、馴れないクロスボウに矢をセットし直すと、左足を、右足との幅が肩幅よりちょっと長めになるよに前に出して背筋を伸ばし、そしてクロスボウを目線と同じ高さまで持ち上げて構えた。呼吸による振動で、狙いが狂うのを防ぐために、息を止め、まるでクレー射撃の様に、左右に蛇行する車の動きの一歩先を狙う感じで、クロスボウを動かす。
右瞼が、ほんの少し上がる。
クロスボウの狙いが、一歩先から、一歩半先に変更される。
「カッ」
トリガーが引かれ、
「ビッシャーンシャー」
ガットの風切り音と、弓の両端についているプーリーの回る音が、混ざって聞こえた。
矢の軌跡が、田波の見慣れたものによって描かれる。
「よっし」
梅崎は、矢の速度と角度に満足いったか、小さく頷くと、クロスボウを左手に持ち、右膝をついて、右足元に置いたノートパソコンの端子にささるコネクターを、右手だけで抜き、そして新しいものに差し替えた。
「フゥワッッ!!」
梅崎の第二射に、田波は、息を少し呑んで吐き、運転席のシートに後ろから抱き着いたまま、肩をすくめた。
矢は、真っ直ぐではなく、山なりの軌跡を描いて飛んでくる。矢の速度は、田波の見慣れたものを引っ張っているせいで、通常より遅くなってはいたが、普段、矢を射る方にいる田波には、そんなことはわからなかったし、関係なかった。とにかく、今は、化け猫が、この矢を避けてくれることだけを、田波は、祈っていた。
しかし、車は、田波の願いを聞きいれるわけもなく、速度を変えることなしに、蛇行を続ける。
現在、右にハンドルが切られているせいで、田波の右目の視界の端に、先の爆発地点が、ギリギリで入っていた。
あらためて御札の威力に戦慄をおぼえると同時に、次の爆発が、コンマ数秒後に迫っていることを思い出す。
田波は、シートに抱き着いてる両腕に、さらに力を入れるが、その瞬間が訪れるまでに、最大値には、もっていけなかった。
右肩が当たる唇と顎だけが、力を入れたせいで痛くなっていた。
梅崎は、右膝をついた状態のまま、左爪先にクロスボウの先端についているフットストラップを引っかけて、弓を引く用意をしながら、今、車に向かっている矢を見つめ、
「タッタッタッ……」
口で、タイミングを計っていた。
それは、田波の視界から、先の爆発地点が、退場し、そして、代わって矢が、月明かりを浴びて、入場した次の瞬間だった。
矢は、田波の願いが通じたのか、リアガラスの運転席側上端を、かすめていき、そして、車の進行方向右側にある壁に突き刺さった。
「ドゥビ〜〜〜」
矢が、振動して、扇状の残像を生じる。
また、振動は、矢の先端に、残像ではない、白い実像を現させていた。
今度のそれは、田波にとっては、使い慣れたものだった。
「……ッタッ」
矢が刺さる寸前で、タイミングを計るのをやめた梅崎は、口を、ストロー一本が入る大きさから、りんごをかじる時の大きさまで広げて、次の一言を叫ぶ準備をした。
「デリート!!」
「うわっ!!」
矢に取り付けられた御札の爆圧は、車に何らかのダメージを与えるほどのものではなかったが、それでも車体は、面積の広い右側面に爆圧を受けたため、左に大きく傾いた。
「はっ、はずれたぁ〜」
田波は、揺れ戻しで左右に傾く車の中で、依然、運転席シートに後ろから抱きつきながら、とりあえず安堵感に浸った。
第二の爆発地点は、壁が壊されて、大きな穴が空いていたが、一秒でも長く次の矢のこと考えたくない田波は、それを見ようとはしない。
しかし、車は、未だ揺れているのにもかかわらず、さらに激しい蛇行運転を始めることで、化け猫は、田波に、次の矢は既に放たれたことを、文字通り体に無理矢理教えた。
「ヒッッ!!」
今度は、左にハンドルが切られている時に、ボンネットの上を、前真ん中から左側に抜けて、車を通り越した空中で爆発した。
「フッ、フウァ〜!!」
再度、爆圧で車体が揺れ、中にいる田波の右側頭部が、サイドガラスに打ちつけられた。
しかし、車は、怯んだ素振りも見せず、依然として激しく蛇行しながら、梅崎に向かって前進する。
梅崎との距離が、じわじわと縮まりつつあった。
「タッタッタッタ……」
梅崎の口ずさむリズムが、車の蛇行する動きに、合い始めていた。
銃床の先端を上に向け、ストックを肩にのせて、右手でクロスボウを担ぐ梅崎は、一射目、二射目、三射目の順に、爆発地点と、地面に落ちたケーブルが描いた形の確認を終え、クロスボウの再確認にへと、目を移す。
四射目にあたる矢は、既にクロスボウにセットされ、ケーブルもノートパソコンに接続されていた。
「タッタッタッタ……」
梅崎は、なおもリズムを口ずさみ続ける。
車は、いまだに、そのリズムにのって、さらに梅崎に近づきつつある。
梅崎は、クロスボウの狙いを真上から少し下げたところにして、両手でしっかり構えた。そして、チラッと横目で右の道路を気にしたあとすぐ、
「タッ!!」
トリガーを引いた。
「タットトタットタットトタットタット」
コイル状にして地面に置いてあるケーブルが、互いに擦れ当たる音がする。
「3、4、5、……」
三つ目の輪、四つ目の輪、五つ目の輪が消え、コイルが短くなっていく。
梅崎は、リズムを口ずさむのを止め、消えていくコイルの輪の数を数える。
「8、9、10、……」
右足が爪先を上げ、踵を擦らせて、コイルに寄っていく。
「12、13!!」
コイルから目を離すと、車をにらみつけ、コイルをきつく踏みつけた。
「ドゥン」
上に昇るケーブルから低い音がして、瞬間たるみがなくなる。
矢は、ケーブルの張力に、少し引っ張られて戻ったが、概ね重力だけが働いて地面にほぼ垂直に落ちだした。
田波は、四射目の軌跡を見ると、シートに抱き着いたまま、目を少し大きく開いて上を見、そして目を細めながら右回りに後ろを振り返った。
「ちっ、近いぃ〜!?」
予測される落下地点は、今は前方にあるが、このまま化け猫が速度を上げなければ、今までの中で、車に最も近いものになる。
だが、田波が、車の蛇行する動きに合わせて、首を多少振り、流れる景色と車との関係を見た限りでは、化け猫は速度を上げていない。
「次も大丈夫か?」
それを、田波は、次の矢も当たらない自信が、化け猫にある表われと感じ、筋肉の緊張、心臓の鼓動、汗腺からでる汗の量は変らないものの、驚きで大きく開いていた目は、そのことで冷静さを取り戻したのか、元に戻ろうとしていた。
「ツゥフ」
喉の、それも一番口に近い所から、息が出る。
口は、また堅く閉じられ、次の爆発の衝撃に耐える用意をしだしたその時、
「ピャタタタ」
田波の左頬を、何かがさすった。
突然のことに、ハッとして、そちらを向くと、それは頬を擦りながら、鼻の上にのった。
御札だった。
「ゆゆ、ゆうばく、誘爆!!」
シールをはがした御札は、ノートパソコンに繋がれた御札と同期して、爆発する。
「一枚じゃ、このガラス、壊れない可能性もあるんだぞ」
田波は、ドアガラスについた弾丸の擦過痕を見て、このガラスが、かなりの防弾の性能をもってることを、分かっていたし、くわえて、もし、ガラスが割れなければ、どうなるのかということも、想像できていた。
「殺す気かぁ〜」
こちらの状況を伝えるために自身が貼った御札が、自分を窮地に追い込むなんてことを、誰が思うであろう。
あまりなことに、田波は、あせって、手ではなく、口で御札を剥そうとする。
それは滑稽な姿であったが、必死でもあった。
しかし、必死なのは、何も田波だけに限ったことではない。
「はがすなぁ〜、田波ぁ〜」
梅崎の怒鳴り声が、何故か防音のはずのガラスを突き抜けて、田波の耳に届いた。
見ると、梅崎は、拡声器を手にしていた。
拡声器を足元の前に置いた梅崎は、田波に向かってまだ怒鳴りながら、中腰の姿勢で、クロスボウのフットストラップを左足に掛けたまま、右手の人差し指を、右足元に置いたノートパソコンのキーにのばした。
その時、矢に取り付けたケーブルが、車にかかろうとしていた。
梅崎の怒鳴り声に、田波は、一瞬、体をかたくした。
田波の顔から察すると、梅崎の意図が掴める、掴めないではなく、ただ何事かと気が動転しているようであった。
車は、左にハンドルを切り始めていた。
速度も、蛇行の激しさも、変っていない。
田波の目には、御札の向こうに、こちらをにらむ梅崎の顔が、しっかり映っている。
車と梅崎との距離は、もうそんなところまで来ていた。
「タッタッタタ」
そして、矢は、取り付けたケーブルが、車の右側面にかかるまで、落下していた。
「ハッ」
田波の口から、咥えていた御札の端が、ゆっくりとユラリ揺れて落ちていく。
「ハァァァ〜〜ア」
振り向いた、その時、矢は、車の屋根よりも下に落ちていた。
「ドゥ〜〜ン」
今までの中で最近の爆発が、化け猫の乗っ取った車の左側面後部近くで起こった。
「どぅわ〜〜〜〜〜っ」
爆圧が、リアを押し、中にいる田波を、運転席シートに抱きつかせたまま、くるっと回して、倒されている助手席の上に乗せた。
化け猫は、前輪にブレーキをかけて、荷重を前に移し、さらに左にハンドルを切ることで、リアを滑らして、爆圧を受け流した。
「キィキュ〜〜〜イィ」
6メーター幅の道路いっぱいに、真横になって車が滑っていく。
そのことは、つまり、化け猫が危機を脱したことを意味しており、また同時に、
「梅崎さ〜〜ん!!」
梅崎に逃げ場が無いことを意味していた。
確かに、梅崎の右側に道路はあるが、あまりに左側の壁際に梅崎が位置していており、それに車の性能も考えると、そこに逃げても、助かる見込みはなかった。
もちろん、前回みたいに、車の下をすり抜けるのも、許してはくれないだろう。
しかし、何よりも田波を諦めさせたのは、田波の目に映る、梅崎の姿が、呆然として立ちつくしているようにしか、見えなかったことである。
目に映る梅崎は、武器であるクロスボウを、左肩にかけたままにして、右手には、もう一つの武器のモーゼルではなく、拡声器とケーブルの束を握り、一歩も動こうとしていなかった。
そして、その梅崎の姿も、右後部ドアの窓から見えるのは、膝から上、大腿部から上となって、とうとう腰から上だけになった。
「うっうっうわ〜〜〜」
梅崎に、アクションを起こす時間は無くなった。
田波は、梅崎が轢き殺される瞬間を見るのを嫌い、俯くことで目線をそらそうとしたが、肝心の目をつむらなかったために、目尻から梅崎の顔が、入り込んでしまった。
瞬間的に、田波は、激しい嫌悪感に包装された。
だが、田波は、リボンを結ばれる直前、あることに気がつく。
梅崎は、呆然となんかしていなかったのだ。
梅崎の顔は、俯きかげんにトレードマークの帽子を左手で押さえているため、目は良く見えなかったが、唇の右端が、頬に引き寄せられていることだけは、わかった。
それだけあれば、表情を読み取るには、十分だった。
そう、梅崎は、ニヤついていたのだ。
そして、それが、覚悟を決めたのでもなく、気が触れたのでもない、他の理由があることを、田波が知るのは、コンマ一秒とかからなかった。
「とうちゃ〜く」
梅崎は、帽子を左手で押さえながら、右側頭部にずらすと、体を左に向けて、腰を落した。右手で持っている拡声器は、腹の前で、左側に向けられた。
「ダッダワァ〜〜ン」
激しい衝突音と共に、田波の目の前を、黄色く塗装された金属製の物体と、こげ茶の布が横切り、梅崎の顔を遮った。
運転席の横にしがみついていた田波は、先ほどとは全く逆に、運転席シートの後ろ側にくるっと回らされる。
「ダッバァ」
田波は、ドアに頭をぶつけないために、腰をチョット振って、折り曲げた右足を先にぶつけた。
足や、腰に、痛みが走る。
だが、その時は、もう意識は痛みではなく、梅崎の方にいっていた。
田波が、バモスと実験車両との衝突音を聞いた時、梅崎は、それと一緒に、
「バッズズ」
別の音を聞いていた。
それはバモスの助手席の幌が、梅崎の体を包んだ音であった。
「どっわっ」
クッション代わりとなった幌を突き破り、梅崎が、バモスの助手席に収まる。
「あいたっ、痛いじゃないの」
梅崎の体がぶつかった左腕を振りながら、姫萩が言った。
難しい状況下でのハンドルコントロールをしているのに、それを邪魔されたとあっては、文句の一つも言いたくなる。
ただ、それはわかるのだが、今はそんなことを言ってる状況ではない。
「いいから、幌上げろォ」
クロスボウを姫萩の首筋に突きつけて、梅崎が半分怒りながら叫んだ。
「うっ、梅崎さん!!」
バモスの幌が上げられて、梅崎の顔を見た時、田波は、そいつがさっきまで自分を恐怖のどん底に叩き落としていた張本人であることも忘れて、喜びの声をあげた。
ただ、体はその恐怖を忘れていないせいか、目も口も、大きくは開かれていない。
「タッタッペ」
田波は、そんな変った笑顔をして、両手を後部右ドアのガラスにくっけたが、
「姫萩さんも」
この言葉を言い終わった時には、懇願するかのような顔に変っていた。
しかし、その顔も
「チタッ」
目の前の御札に重ねるように、姫萩がガラスに御札を貼ったことで、一転した。
「へっ!?」
そして、さらに
「打ち消すぞ。用意しろ」
拡声器を使って、防音ガラスの壁を越えてきた、梅崎の声が、もう一転させた。
「ハァァッ!」
ビックリしながらも、梅崎の言葉を理解した田波は、頭を反対側に向けて、その場でうずくまった。
そう、向かい合った御札を同時に爆発させれば、爆圧は、打ち消し合うはずである。
「夕、荷台をドアに」
「O.k」
姫萩は、ハンドルを左に切って、実験車両と平行になっているバモスを、垂直にしようとする。
「キッキュイッギギギギ」
十度、二十度、三十度、バモスの右リアが、実験車両に擦りつけられる。
「ガッガガガガ」
四十度、五十度、まだバモスは、実験車両に対して垂直になっていないが、荷台は、既に、御札を貼ったドアに、届いていた。
「いくぞ」
拡声器のノイズがのった梅崎の声を聞いて、田波は、後頭部に置いていた両手をずらして、耳を塞ぐ。
出来る限りの対ショック姿勢は、とった。
これだけで無傷ですむはずはないが、大怪我をすることはないだろう。
ただし、それは、
「サッタッ」
御札が、ガラスに貼られた二枚だけの場合である。
田波の頭に触れた、倒された助手席の下に隠れていた御札は、その計算に入っていなかった。
「うっわわわわっ〜〜〜」
多分、その御札は、化け猫が梅崎を取り込もうとした時に、入り込んだものであろうが、今は、そんな詮索よりも、その御札のシールがはがれていることの方が、問題であったし、また、それに関して、別の問題もあった。
それは、一体どういった問題かというと、
「デリート!!」
その御札を処理する時間が、もう無かったことである。
「ドウゥゥゥゥゥン」
三枚の御札が同時に爆発した。
向かい合わせにして貼られた二枚の御札は、その威力で防弾ガラスに、ヒビを入れ、そこに三枚目の御札の爆圧が、逃げ場を求めて殺到する。
勿論、
「バッザリン」
田波を、引き連れてである。
「田波ァ」
姫萩が気がついた時には、田波は、もうバモスの荷台の上を越えて、バモスのはるか前にまで飛ばされていた。
このままいけば、確実に田波は轢き殺されてしまう。
「くっそぅ」
梅崎は、何を思ったのか、クロスボウの狙いを田波につけた。
「カッサッ」
矢は、田波の首筋元めがけて、飛び始めた。
弓のもっとも進化した形と言われている、コンパウンドボウの精度は、四十メーター離れた五百円玉に、二、三本の矢を続けて命中させれるほどものである。
このコンパウンドボウの特徴として、弦が、弓の両端に付けられている車輪にかけられて、張られていることが挙げられる。こうすることの利点は、弓を引く力が、単純に半分になり、力のいれすぎで、狙いがぶれるのを抑えられることにある。
また、コンパウンドボウでは、矢を持つのに専用の器具を使い、さらに狙いがぶれるのを防止している。
そして、ここまで精度を高めた弓を備えているのが、今、梅崎が持っているクロスボウである。
つまり、梅崎が、狙ったのは、そこまでの精度が……。
「びびゃゃぁぁぁ〜」
矢は、怪鳥音を発する田波の首筋元をかすめて、
「ガッシツ」
建築物に突き刺さった。
矢に取り付けられていたケーブルは、田波の右肩に押されて、小さくたわむ。
「ハァッッツ」
息を吸い込む田波の喉から、ぜんそくの時のような音が出た。
だが、これで、田波の危機が去ったわけではない。この高さから落ちれば、致命傷とまではいかないが、骨の一、二本は折れて身動きがつかなくなり、そして次は、轢死が確実に待っている。
それから逃れるには、矢についているケーブルを掴むしかない。
そのことは、田波も、本能的にわかっていたが、いかんせん恐怖で体がすくんでいたため、頬がケーブルを通過した時点で、やっと両腕を始動させることが出来た。
次ぎは、ケーブルとの距離の把握だが、しかし、その必要はなかった。
右目のすぐ横を、ケーブルが通過していた。
田波の目には、焦点が合わずにボケているケーブルだけが入っている。
自身の両腕、両手は、まだ視界の外だ。
この時点で、時間との勝負には、既に負けていた。
首が締め付けられる感覚が、田波に向かって強襲する。目は、大きく見開かれ、体の全関節は固まり、こめかみあたりに、血が溜まっていることを、田波は感じる。
しかし、その感覚は、絶望と同時に、田波に疑問を生じさせた。
右耳が、何かに擦り上げられ、腹部のベルトが位置する場所が、シャツと擦りあう。
疑問は、その摩擦熱で急速に解凍され、ほどなく、
「あっ」
解凍が完了した瞬間、
「っぶっ」
着ていたシャツが、喉仏に食い込んだ。
そう、首が締め付けられるような感じがするだけならば、こめかみあたりに、血が溜まってる感覚は、しないはずなのである。
つまり、田波は、本当に首を締め付けられていたのだ。
では、どうやって?
それは、梅崎の狙ったのが、田波の衣服に唯一あった余裕、シャツの右襟と、右襟をとめるボタンとで作られた輪の中に、矢を、つまりケーブルを通すことにあったからだ。
であるから、今の田波の命は、首の皮一枚、いや、ボタンを留めている糸一本でかろうじて繋がっていると言える。
ならば、今の内に、ケーブルを掴めばいいのだが、田波の重みと、バモスが近づいていることで、ケーブルが大きくたわんで、止まっていた腕が揺れてしまい、すぐに掴むことが出来ない。
それでも、なんとか両腕を上体にまでもってきたが、ケーブルの上にはいかず、
「パッン」
胸の前で悲しい柏手をうつ。
「ハァ」
田波は、自身のあまり運の無さに、嘆きの息を吐く。
息を吐く。
息を吐く。
息を吐けた。
「うわっっっっ」
右襟のボタンが取れて、田波は落下していた。
「夕、いそげ!!」
「やってるわよ」
田波の予測落下地点に、バモスが急行する。
しかし、いくら間に合っても、金属の固まりである車に落ちては、田波が怪我することだけは免れない。
研究所にいる全員も、当然そう思った。
皆が固唾を飲んで見守る中、田波の体は、なんとか間に合ったバモスの荷台に落下する。
しかし、研究所のモニターでは、バモスの運転席が死角になって、田波の安否を確かめられない。
菊島が、カメラを切り替えようと、コンソールに手をのばそうとする。
だが、
「ガッチャチャシャン」
その必要は、一瞬で無くなった。
田波の体が、浮いていたのだ。
「おっかえり」
姫萩が後ろの窓を覗く。
そこには、バモスの荷台に積まれていた道路工事用フェンスに、仰向けになってしがみつく田波の姿があった。
「これで、動労環境の改善要求が出来るな」
梅崎は、幌でついた服のホコリをはらいながら、そう言った。
「お〜〜〜ぉ」
研究所の全員が安堵のため息をもらした。
「あっ、そっだ」
桜木が床に倒れて現実逃避中なのを思い出した菊島が、桜木に近寄った。
「高見ちゃん、高見ちゃん、田波君が助かったよ」
菊島は、桜木の両肩を持ち、一生懸命、体を揺らす。
「えっ、はっ、へっ、たっ、たば、たば、田波さん!!」
急に復活して上体を起こした桜木の左肩に、
「痛っ」
菊島の鼻がぶつかった。
「社長、田波さんが助かったって…」
「ホントよ」
菊島は、右手で鼻を押さえながら、左手で、桜木の右頬を、少し怒りながら、おもいっきり押して、目を天井から吊り下がるモニターに向けさせた。
桜木は、眼鏡の右のツルの接合部を顔に向けて押し、ずれを直してから、あらためてモニターを見た。
「たっ、田波さ〜〜ん」
歓喜の声をあげて立ち上がる桜木の右肘が、
「ドッン」
今度は鼻を押さえている菊島の右腕の肘にあたり、倒された菊島は、後ろにある机に頭をぶつけた。
「たぁ〜〜っ」
左手で後頭部も押さえることとなった菊島に、更に、追い討ちをかけるように、
「高見ちゃん、もう大丈夫なの?」
走ってきた蘭東の右膝が、後頭部を押さえる菊島の左腕の肘に当たって、たてていた自身の膝に、額をぶつけた。
「わったぁ〜」
しかし、桜木と蘭東の二人は、
「すみません、蘭東さん。ご迷惑おかけしました」
「ふぅ、もういいわ。いつものことだし。それより、頼んどいたことは、しておいてくれたの」
「あっ、はい。それは、……」
そんな菊島をほっとくように、話しこむ。
それを見て腹を立てた菊島は、少しでも速く立ちたいのか、机ではなく、その上にあるスクリーンセイバーに切り替わったモニターに手をついた。
そして、立ち上がるなり、
「ちょっと、二人とも」
泡を飛ばした。
それで、最初に振り向いたのは、蘭東だったが、
「社長、あとにしてくれる」
「ちょっと待て、コラ」
こんな調子で、無視を決め込んだ。
次に、桜木が振り向いたが、
「あっ、社長。それ、何時からですか?」
「あんた達が、やったんでしょ」
「蘭東さん、社長に話したんですか?」
「いえ、まだ話してないわ」
まったく話がかみ合わない。
「コラ、二人だけで話を勝手に……」
そんなイラつく菊島に、
「いや、よくやってくれた」
先程とはうってかわった満面の笑顔の山崎が、両手で、菊島の右手を、無理矢理掴んだ。
菊島は、あからさまに不愉快、不機嫌、不謹慎な態度で、両手を振りほどくと、
「なにが?」
と、先程にも負けないくらいの泡を飛ばした。
「もちろん、あれに決まってるじゃないですか」
山崎の指差した、天井から吊り下がるモニターには、車内から煙を出して、止まっている、化け猫が乗っ取った実験車両が映し出されていた。
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