高速の死角
その九
化け猫の居場所が、豊川自動車が所有する豊川カントリー倶楽部であることが判明してから、一時間半後、
「よいしょっと」
5番ホールのフェアウエイで、田波はカートを押していた。
力をこめる時に、どうしても出てしまう声は、上の歯と下の歯の隙間を、わずかにしか開けないようにして、殺していた。
田波の押しているカートは、ゴルフ場で使われている電動のもので、さほど力は必要とせずに押して移動させることが出来るのだが、もう十二台も押していては、流石に息が上がってしまう。
「ふう、これ以上、いくと見つかるか」
田波は、緩やかな丘の中腹に、カートを止めると、そこから芝生の上を匍匐前進して、丘を上り、頭だけを頂上から出して、約百二十メーター向こうの林の中を覗った。普通に見るだけではわからないが、田波がそうやって見るということは、当然、化け猫は、実験車両と共に、そこにいるのである。
普通に見て分からないというのは、多くの木々が視界を邪魔していることもあるが、化け猫が、あらかじめ掘ってあったと思われる林の中の穴に、車を入れ、上からシートを被せてカモフラージュしていたからである。
携帯の電波を捉えていなければ、間違いなく位置の特定は、不可能であったろう。
「気がついてないな」
田波は、林の中に、何の動きも無いことを確かめると、腕時計を月明かりに照らした。
「あと、すこしか」
田波は、そう呟くと、仰向けになり、丘の斜面を滑り降りた。
丘のふもとには、梅崎と姫萩が待っていた。
「はぁぁぁあ、おわったよ〜」
姫萩は、口に手を当てながら、疲れて眠そうな声を出す。
「三台、押しただけだろ」
梅崎は、そう言って、埃にまみれた帽子を、姫萩の後頭部で軽くはたく。
「で、はじめますか」
田波は、ちょっしたコントをしている二人に、腕時計を向けて、こう言った。
「もうそんな時間なのぉ」
そう言いながら、姫萩は、梅崎に落とされた自分の帽子を拾い上げた。
「まだ、早いんじゃないのか」
梅崎は、姫萩の頭と、自分の手で、念入りに、はたいてホコリを落した帽子をかぶり直した。
「ヘリの爆音が、むこうに聞こえてからじゃ、まずいでしょうが」
先輩二人に比べて、押し殺した声で喋る田波は、腕時計を、自分に向けると、文字盤のガラスのカバーの上から、長針を指で押さえた。
梅崎は、今まで、田波の腕時計を照らしていた月を仰ぎ見た。
月は、天頂から、わずかに東に傾いていた。
「林の中にいて、ミサイル射てないんでしょ。もう一箱、用意する必要があるの?」
菊島は、御札のシールの台紙を剥し、シールの貼ってある方を裏側にして、二つに折っては箱に入れる作業を、一時中断すると、肩を叩きながら、愚痴をこぼすような口調で、蘭東にむかって口を開いた。
「念には念を入れてよ」
蘭東も、菊島と同じ作業をしているのだが、事務仕事になれてるせいなのか、菊島と比べると、スピードも、正確さも、段違いに上である。
「社長、あと五分で到着です」
桜木が、ビニール袋をテープで貼りあわせて、たたんだものを胸に抱き、低い口調で話した。
「えっ、もう」
「手を止めないで、はやくなさい」
箱の中の御札の量は、満杯に、あと少したりなかった。
「じゃぁ、はじめますよ」
田波が、左手に握ったスイッチを、喉仏の高さまで持ち上げると、それと共に梅崎と姫萩が、うなずいた。
左手に握られているスイッチは、約三十メーター間隔に並べられた全二十五台のカートのイグニッションに繋がれており、そのスイッチを一旦入れることで、カートは、林に突っ込むまで、走り続けることとなる。
田波は、スイッチに繋がっている、コードの束が重いのか、持ち上げてすぐに、左手を、下から包み込むように右手で支えた。
スイッチは、左手首の腕時計を見るために、鼻の高さまで持ち上げられた。
田波の小さな声で、カウントダウンが、開始される。
「3、2、1、ゴー」
25台、全てのカートが、のっそりと丘を上り始める。
ヘッドライトを点灯させてない電動のカートは、タイヤが土を捲きあげる音の方が五月蝿いのではないかと思われるぐらいの、本当に小さなモーター音しかあげていないが、それでも化け猫に発見されるのは、時間の問題であった。
しかし、神楽の側にも、それなりの勝算はあった。
まず、実験車両は、林の穴の中に入れられたうえで、カモフラージュのためのシートが被されているため、林から出すには、それなりの時間がかかる。
それまでに、カートが林に達すれば、カートに取り付けた御札を爆発させて、林の木々を倒し、実験車両を身動きできなくすることが出来る。
もしも、化け猫自身が、向かってくることになったとしても、それは通常の作戦と同じになるのであるから、この御札の輪の中では、むしろそちらの方が、好都合といえた。
ただ一つ、危ない点があるとすれば、カートの速度があまりに遅く、林に達するまで、時間が掛かりすぎることであった。
「まだ、動いてないな」
「成功かしらね」
「わからないぞ、夕」
三人とも、丘の上に顔だけを出し、林の中を見つめる。
照明は落され、カートのヘッドライトは、点灯させていなくとも、月明りがあっては、カートを闇に紛れ込ませることは出来ない。
実験車両は、穴に入れられて、シートが掛けられているとはいえ、間違いなく、化け猫は、迫り来るカートの輪に、いつかは気がつくはずである。
「あと、5メーター」
田波の声は、その小ささに見合わない、多量の息が吐かれた後に、明らかに緊張を含んで喉から出ていた。
カートは、たとえ、あと5メーター進んでも、林には届かな位置にあったが、しかし、田波は、そう言った。
「2」
姫萩が、続けてそう言った。
「1」
梅崎が、続けてそう言った。
「ゼロ!!」
三人が、叫ぶとともに、丘の上に立ちあがった。
「よっし、これで、成功だ」
梅崎が、胸の前で、かるくこぶしを握る。
「あっ、でも、なんか動き出したみたいよ」
「大丈夫、今からじゃ、間に合わない」
緊張から解き放たれた、田波が、目に笑みを浮かべ、自信を持った顔をして言った。
実験車両を覆うシートは、端から三分の一のところで、捲れあがっていたが、実験車両が穴から出てくる様子はなく、また、化け猫自身が、こちらに向かってくる気配もない。
カートの輪は、ゆっくりと、だが確実に、林と化け猫の首を締めつけだそうとしていた。
「うん?」
何かに気がついたのか、突如、梅崎の目が、少ない光を出来るだけ多く集めようと、大きく開かれた。
「もしかして、ミサイル射とうとしてるんじゃないのか」
「えっ?いくら高精度の誘導が出来るからって、あの林じゃ、それを可能にする光ケーブルが、木に引っかかりますよ」
田波は、散々恐怖を味わったミサイルの威力を思い出したのか、頬を少しこわばらせたが、目には、圧倒的優位な立場を信じている余裕の笑みが浮かんでいた。
「あっ、そうか」
梅崎も、すぐに、それが杞憂だということに、気がつく。
田波と梅崎が、目を合わして、双方が取り越し苦労をしてしまったことに、苦笑いをした。だが、本当は、それは、取り越し苦労では、なかった。
「ねぇ」
ふと、小型の双眼鏡を覗いていた、姫萩が、口を開いた。
「真上に向かって、射とうとしてるんじゃないの」
向き合って苦笑いしていた、梅崎と田波の口が、笑った時のものより、大きく開けられた。
「えっ」
「夕、それほんとか」
「ホントよ」
姫萩は、真横に並んで、双眼鏡を覗いてもらおうと、顔の左横に、双眼鏡を、ずらしたが、梅崎は、そんなことはお構い無しに、強引に双眼鏡をひったくった。
「あた」
そのせいで、姫萩の首に、ネックストラップが、食い込む。
「ああっ!!」
双眼鏡を覗き込んだ途端、梅崎は、声を上げた。
捲れたシートからのぞく、実験車両のボンネットが、なんと垂直に立っていたのだ。
「逃げろ!!」
一目散に、三人とも、丘を駆け下りる。
「痛たたたた」
ちなみに、姫萩の首には、ネックストラップが、食い込んだままであった。
「バッスススシュ〜〜〜〜」
垂直に立てられたボンネットの裏から、ポツンと小さく見える夜空目掛けて、ミサイルが発射された。
林の木々は、葉や小枝だけが、ミサイルの行く手を阻もうとし、そして、みなことごとく、打ち破られた。ミサイルは、林を抜けても、上昇を続け、まず、二本の光ケーブルを、目いっぱい引き出した。そして、そこから、林の外を目掛けて、急降下する。
「はやく、はやく。何やってるんだ」
いち早く、丘を駆け下りた田波は、まだ、丘の中腹にいる、梅崎と姫萩の二人に向かって、怒鳴った。
「ちょっと、なに、するのよ」
「そんなこと言ってる場合じゃ、ないだろ」
姫萩が、双眼鏡のネックストラップが食い込んだ、首のあたりを手で押さえて、梅崎と言いあっていた。
「はやく!!」
田波が、また、きつく怒鳴る。
「分かってるって。それより、カートを爆発させろ」
そう、梅崎に言われて、ハッと気がついた田波は、腕時計で、時間を確かめた。
「よし、時間は過ぎてる」
田波は、ノートパソコンを持っている右手の人差し指だけを伸ばして、キーを押す。
「デリート!!」
爆発の様子は三人には見えなかったが、
「バッバッバッバッバッバァァ〜〜〜ン」
数珠つなぎに聞こえる爆発音が、御札が正常に作動したことを教えた。
「よっし」
とりあえず、作戦は成功したのだ。林の木々を御札の爆発で、なぎ倒し、中にいる実験車両を、動けなくした。あとは、むこうが発射したミサイルから、なんとかして逃れれば、いい。倒れた木々が、実験車両の上方を塞いだであろうから、もう射ってはこないはずだ。
そう考えながら走って逃げる、田波は、左手で、右手に持っているノートパソコンから御札のコネクターを抜くついでに、後ろを振り返った。
「たっ、倒れてない!!」
丘の上に見える林の木々は、一本も、その位置を変えていなかった。
田波は、逃げることも忘れて、しばし、その場に立ち尽くす。
失敗した理由が、よく分からなかったからだ。
化け猫が射ったミサイルが、何かをしたと考えるのが、普通であるが、たった一発で、全二十五台のカートを止めることが出来るものなのかどうか、それは、桜木から送られた、実験車両に搭載されている対テロ用ミサイルのスペックから考えて、到底無理なはずである。
しかし、田波は、すぐに、思い出したかのように、また逃げ出した。
作戦の失敗は、つまり、ミサイルは、まだ射てることを示している。
残弾数からして、二発目、三発目、四発目から、逃げなくてはならない。
ただ、何故か、一発目は、まだきていなかった。
そのことは、田波達にとって、もちろん好都合なことだが、パニックと、息が上がって、徐々に酸素が欠乏し出したことで、低下しつつある田波達の思考力でも、ただ単に、好都合と片づけていいものではないことは、分かっていた。
………………あの、たった一発で、全二十五台のカートを止めた。どうやったか分からないが、現に、一発目がこないのは、つまり、それしかない。化け猫は、到底無理と、こちらが考えたことを、やってのけた………………
フェアウエイを走る、田波達の心の中は、まだ逃げる時間があることの安堵感より、考えてた以上の強敵を相手にしたことを悟った恐怖感の方が、大きかった。
狭まりつつあるカートの輪の中心にいる、化け猫は、まず周りの状況の把握を、第一としていた。
ただ、実験車両に搭載されている各種センサーでは、遠方、および物陰にいる物体を、正確に捕捉することが出来ないため、ギリギリまで、相手を引き付ける必要があった。しかし、ここでいう相手とは、輪になっているカートのことではない。それならば、実体となって、カートに襲いかかればいい。ダメージは負うかもしれないが、この輪の大きさでは、近距離の四方に御札がないため、デリートされることはないし、なにより、実験車両に、傷がつかない。
相手とは、神楽、そのもののことだ。神楽が、どこにいるのか、わからなければ、実体化してカートを処理しても、その後が、危険である。また、神楽が、この隠し場所を、あっさりと見つけたことは、化け猫にとって、もっとも不可解なことであった。当然、その事実は、化け猫の神楽に対する認識を改めさせた。−−−かなり、てこずる相手だ。下手すると、ミサイルを、サンプルとして持ち帰れなくなってしまう−−−そう考えた化け猫は、カートの罠に、自らはまって、相手を、つまり神楽を、油断させて、引き付ける作戦に出た。
化け猫は、ひっそりと、さもカートの輪に気がついていないような振りをする。今のカートとの距離は、化け猫にとって、まだ安全な距離であるが、もうすぐ、神楽が、危険と思う距離になる。そして、その距離になった瞬間から、神楽の気が緩み、デリートが、確実に行われるかどうか確かめるために、姿を見せるであろうと、化け猫は計算していた。
実際、神楽の社員達は、その距離になった瞬間、丘の上に姿を現し、作戦がほぼ成功したと思い、はしゃいだ。
と、ここまでは、計算通りだったわけだが、しかし、化け猫は、一つ重大な思い込み違いをしていた。
この場には、神楽全員がいると、化け猫は思っていたのだ。
だが、丘の上に姿を現したのは、たったの三人。
これでは、たった一発で、神楽全員を倒すことが出来ない。
と、すれば、一発で、眼前の三人を、そして、もう一発で、どこかにいる残りの三人を倒す必要が出てきたのである。
それも、確実にだ。
しかし、化け猫は、それにもかかわらず、ゆっくりとしか、カートのネックレスをはずすための準備をしなかった。
「見えた!!ゴルフ場よ」
同じ頃、菊島達の乗るヘリは、やっとゴルフ場が視認出来るところまできていた。
「田波君達は?」
「肉眼じゃ、わかんないわ。双眼鏡、お願い」
「はい、社長」
桜木が、頭だけを機体の外に出している菊島に、軍用の双眼鏡を手渡す。
「ありがとう、高見ちゃん」
双眼鏡を受け取った菊島は、機体を掴む左手を、もう一度掴み直すように、力を入れると、こんどは腰の上あたりまでを、機体の外に乗り出した。
「いない、いない、いない。いったい、どこにいるのよ」
コース毎に、探しているのだが、なかなか田波達を見つけることが出来ない。
と、その時、苛立つ菊島の背中にいた蘭東が、
「社長、あれぇ〜!!」
いきなり叫んだ。
蘭東が指差す方向には、真っ直ぐ上に上昇する輝点が、あった。
「まさか!?」
菊島は、バックが夜空のため、ほんの少し白みがかった黒に見える輝点が引きずる煙の軌跡を、下にたどり、田波達を探そうとしたが、その前に、輪になって林を囲むカートに目を奪われた。
「あれで、化け猫を囲む気なの!?」
「社長、なにがどうなってるのよ」
「いける、いけるわ」
「だから、何がいけるのよ」
「蘭東さん、そんなことより、対ミサイルの準備しなくていいんですか」
桜木が、興奮する二人を諌めるよう目で見ながら、片手でダンボールの箱を引き寄せた。
「そうね。そうだったわ」
蘭東は、桜木が引き寄せたダンボールの箱を、自分の方に引き寄せた。
「ノートパソコンの用意は?」
そう言いかけて、桜木の方に振り向こうとした蘭東は、輝点が、こちら側ではなく、下に向かって進むのを目にした。
「えっ?」
引き寄せたダンボールの箱から、蘭東の手が離れる。
「社長、どこに向かってるか見せて」
蘭東は、ダンボールの箱から離した手で、菊島が覗いている双眼鏡を掴み引っ張る。
「ちょっと」
菊島は、双眼鏡を取られまいと、引っ張る蘭東の手首を掴んだ、その時、
「ああっ!!」
菊島の口から、驚愕の叫び声が出た。
「何、どうしたの」
「どうなったんですか、社長」
垂直に発射されたミサイルは、十分な長さのケーブルを引っ張り出すと、下のカートに向かって急降下した。カートにまで達したミサイルは、そこで、爆発はせずに、カートの中に入り、運転席の上を素通りする。そのカートを抜けると、隣のカートも、そのまた隣のカートにもと、ビーズに糸でも通すかのごとく、ミサイルは、カートにケーブルを通していく。カートの輪は、真円ではなかったが、かといって、角張ってるわけでも、林の中を縫って進むわけでもなく、緩やかな曲線の組み合わせで出来た形であったため、ミサイルの能力からみれば、カートにケーブルを通すのは、さほど難しいことではなかった。
やがて最初のカートに戻ってきたミサイルは、また上昇を始めた。
すると、ゆっくりと小さくなるカートの輪に比べて、急激に小さくなるケーブルの輪は、その差ゆえに、カートを内側に引っ張ることになり、またケーブルの位置がミサイルの上昇により、運転席の上部になったため、化け猫の首を絞めていたカートは、バランスを崩して次々と前転した。
当然これでは、ノートパソコンのキーを叩いても、御札は地面を掘るだけで、林の木々は倒れない。
「来るの!?」
しかし、菊島が驚いたのは、それだけではない。カートの御札が爆発して、てっきり切れたものだと思っていたミサイルのケーブルが、まだ繋がっていたのだ。つまり、ミサイルは、いまだ、化け猫の制御下にあり、まだ、こちらに向かってくることもあるかもしれない、ということである。ただ、その心配は、倒れたカートが重しとなって押さえられたケーブルが、ミサイルの推進力に負けて外れたことで、直に終わった。
それを見た菊島は、双眼鏡を蘭東に押し付ける様にして渡すと、
「運ちゃん、スピード上げて」
コックピットに向かって、声を張り上げた。
「運ちゃんって、言うなぁ」
航空に関する法律(例えば、「航空法」とか、「航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律 」とか、「航空機内で行なわれた犯罪その他ある種の行為に関する条約第13条の規定の実施に関する法律」とか )を、散々無視しまくったフライトを、半ば脅しに近いかたちで強制されたパイロットが、たまりかねて、ついに口を開いた。
が、
「いいから、はやくしろ」
頭にクロスボウを突きつけられて、半ば脅しから、半ばハイジャックに移行されてしまった。
実験車両が、ゆっくりと穴の中から出てきた。被せていた迷彩をほどこしたシートは、屋根に引っ掛かって、少し引きずられた後、穴の奥に落ち、垂直に立てていたボンネットは、角度を三十度くらいにまで戻されていた。
実験車両は、穴から出ても、速度を上げず、ゆっくりとしたままで、とても神楽を追いかけようとするふうには、見えなかった。林の木々を縫う様にして進むには、速度をあまり上げれないのは、当然なのだが、それにしても、ゆっくしすぎていた。
林の中には、モーター音よりか、ヘリの音の方が、大きく鳴っていた。
ほどなくして、実験車両は、林を抜け、そのまま速度を変えることなく、いくらか進み、林からあまり離れていない場所で、停止した。
「そろそろ、なにか、始めるぞ」
暗がりの中、双眼鏡を覗く梅崎が、小声で言った。
「ヘリの音が大きくなったけど、結構近づいてるのぉ」
「ああ、もう射程圏内に入っている」
そう言いながら、梅崎は、ループタイをゆるめた。首筋の汗が、シャツの襟の色を濃くしている。
「なぁ、やっぱり、まずいんじゃないのか。こんなとこに、隠れてちゃぁ」
横にいた田波が、責任の所在を確かにするように、梅崎に、目を向けた。
三人は、今、林の中の、さっきまで実験車両がいた穴の中にいた。
化け猫が使っていたカモフラージュ用のカバーは、今は、三人の頭にかぶられ、申し訳程度の、本来の役目を果たしている。この状態に、直前まで、全速力で走ってきた体温と、かいた汗の湿気がこもっては、たとえ熱帯夜でなくとも、7〜8分は、汗の止まることはない。
ループタイをゆるめた梅崎を見て、田波も、ネクタイをゆるめた。姫萩は、三人の中で一番薄着なのだが、それでも襟に左手中指をかけて引っ張り、胸元を広げ、右手で、発汗をおさえるには効果の薄い風を送っている。
ところで何故、梅崎が、そんな提案をしたかといえば、
「御札数枚と、モーゼルで、何が出来るぅ」
こういうことであり、姫萩と田波が、何故、この提案を、受け入れたのかは、
「そりゃぁ」
「そうね」
と、こういうことであった。
あと、どうして、この穴に、隠れることが出来たかは、
「しかし、助かったよ。むこうがチンタラしてくれなきゃ、こんな灯台下暗しな所に、隠れるなんてことは出来ないからなぁ」
と、こういうことである。
「なぁ、そのことなんだけど」
田波が、手の甲でシートを上げ、周りの様子に、少し目をやったあと、こう梅崎に切り出した。
「むこうが気がついているってことは、考えられないのか」
「大丈夫。むこうのセンサーの能力じゃ、無理だ」
田波は、梅崎のその言葉に、うなずくでも、反論するでもなく、ただ唇に力をこめた。いずれにせよ、穴の中に入ってしまったのである。事ここに至っては、そうあることを祈るしかない。
「あっ、ところで、携帯は切ったか」
田波は、いきなり口を開くと、思い出したかのように、二人に訊いた。口調には、軽さが感じられるが、二人に向けた表情には、どこか重く沈んだものがある。過去の失敗が、そういった顔をさせていた。
「たく、真紀や、夕は、何してるの」
相手先が携帯の電源を切ってるか、それとも通話エリア外にいることを丁寧に伝える女性の言葉を最後まで聞くこと無く、蘭東は、苛立った顔をして、携帯の蓋を閉めた。
「蘭東さん、敵の射程圏内に入りました」
「そう、わかったわ」
報告を受けて、蘭東は、苛立った顔から、一転して、真剣な面持ちとなる。
「ねぇ、どうするの?コッチが上手くいっても、アッチがやってくれなきゃ、何にもなんないわよ」
菊島は、双眼鏡を目からはずすと、双眼鏡を持った手で、ダンボール箱を叩いた。
「最悪、二つから、三つの箱に御札を分けて、長いケーブルを使うしかないわね。それと、高見ちゃん」
「はい」
「アレの準備は、整った?」
「はい。条件さえ揃えば、いつでも、O.Kです」
桜木は、モニターの上に手を乗せ、蘭東に振り向く。
二人のやり取りを聞いていた菊島は、
「運ちゃん、少し高度を落す」
クロスボウを、パイロットに向けた。
「はっ、はい。えっ、うわ〜〜〜〜〜!!」
突如として、パイロットが、叫び声をあげた。それは、なにも菊島に振り向いたときに、クロスボウを目にしたからでなく、目尻を照らした小さな点光源の色が、ついさっき見たものと同じだったからである。
「発射したぞ!」
双眼鏡を覗く梅崎が、小さな声ながらも、語尾を低くすることで、その重大性と、緊張感を持たした言葉で、同じ穴にいる二人に、ついに攻撃が始まったことを知らせた。
「ねぇ、田波くん」
姫萩が、田波の着ているシャツの襟を、後ろから掴んで、引っ張った。襟を止めるボタンは、救出の際に取れていたため、捲れあがって襟の先が、田波の頬を、突いた。
「大丈夫。何の考えも無しに、蘭東さんは、近づいたりしない」
田波は、頬に当たっている襟を、手で首に押し付けた。首筋の汗が、襟のところで堰き止められ、横に広がったあとで、ゆっくりと吸収される。
「ねぇ、田波くん」
姫萩は、さっきよりか、少し高いトーンで、同じ言葉を田波に言った。捲れあがった襟の先が、頬を突いたことを気にしてか、今度は、肩の後ろの首に近いところを掴んで引っ張っていた。
今度は、シャツの第二ボタンが、田波の喉仏を軽く押していた。
「来た、来た、来た。来たよ、栄子ちゃん」
パイロットが、冷静さを失っている中、菊島の口調には、興奮と共に、抑えれぬ闘争本能が顕われていた。
「社長、慌てない。高見ちゃん、予想飛来方向は?」
「本機1時の方向」
つとめて冷静でいようとする蘭東の低い口調とは反対に、桜木の声は、高音部で割れる寸前のものだった。
「三つに分ける時間が無いわ。それに最初ってこともあるし、一箱丸ごといくわね。じゃぁ、高見ちゃん、タイミング、お願い」
菊島は、ダンボール箱を開けると、先端に御札のついた矢を、クロスボウにセットした。
「運ちゃんも、タイミングに合わせて、操縦悍を引いて」
蘭東は、ヘルメットを掴んで、落ち着かぬパイロットの頭を、シートに押し付けた。もとより、パイロットが落ち着くことは期待しておらず、ただ指示を、本能に訴えかけることだけを必要としていた。
「社長、うまくしてよ」
「わかってる」
機外に出され、機体のほぼ進行方向に向けられたダンボール箱の開け口は、クロスボウを持つ反対の手で塞がれ、いつでも開けれるようにしてあった。
「来まっすっっ!!」
高音部にシャウトのノイズがのった桜木の叫び声で、機内の全員が体を硬直させた。
「3、2」
続けて、同じ声で、カウントダウンが始まった。
菊島が声に合わせて、ダンボールの箱の上に、クロスボウを置く。
「1」
蘭東が、もしもパイロットが、恐怖のあまり操縦悍を引くことを忘れた場合を考え、操縦悍を持つパイロットの手を、自分の手で包んだ。
菊島は、片目を閉じ、息を止める。
桜木は、コンマ数秒のずれもなくそうと、残された数字を言う前に、もう一度、モニターを見つめた。見つめた先には、赤と緑の二色で引かれる滑らかな曲線が、モニター中央にむかって描かれている、はずであった。しかし、二本の線は、終点となる画面中央で、予想経路を示す緑の線一本になっていた
「待って下さい!!」
いきなり、桜木は、そう叫んで、作戦の停止を求めた。だが、緊張で神経が張り詰めていたパイロットは、おもわず操縦悍を手前に引いた。
「わぁっ!!」
桜木の言葉に気を取られた蘭東は、パイロットが操縦悍を引くのを防げず、急に傾いた床に足を滑らして、両膝が床につき、シートの後ろで、顔が擦られた。
「わっ、わっ、わっ」
一方、菊島は、ミサイルを注視していたこともあり、桜木が叫ぶ寸前に、ミサイルの状況の変化に気がついたが、ダンボール箱を機内に取り込むことに精一杯で、クロスボウを放した手で、機内のどこかに掴まることまで出来なかった。ただ幸い、体重が軽かったため、ダンボール箱を取り込む際の反動だけで、機内に体全てを戻すことが出来た。
しかし、狭い機内である。仰向けに倒れ、ダンボール箱を顔の上にのせ、背中を床に滑らした菊島は、機内に持ち込んだ機材に頭をぶつけていた桜木の背中を押してしまい、結果、気絶におちいらせた。
「高見ちゃん、どうしたの」
擦った頬を手で押さえる蘭東は、
「きゅう〜」
すでに気絶した桜木を目にすることとなった。
「ねぇ、高見ちゃん。ミサイルは?」
「あっ、気絶してる」
「気絶してる、じゃないでしょ。何してるの、あんた」
「仕方ないでしょ、不可抗力よ」
と、思いがけない事態と事故が起こって混乱する機内の中で、意外にも一番事態を把握していたのは、緊張から解放されたパイロットだった。
「ふぅ、林に行ってくれたか」
開いた左手の親指と人差し指で、眉毛から上唇までを、軽く押さえつけながらぬぐったパイロットが、息を切らせながら、そう言った言葉を、責められて、話を他に持っていきたい菊島は、当然、聞き逃さなかった。
「林って」
菊島は、蘭東の意識を自分からそらすため、よそ見をするかのように、開いたままのドアから、林を見た。
「何もないわよ」
急に話をそらされて、気がそがれた蘭東は、自分の興奮をなんとか抑え込もうと、まず、語気から変えようとしてみたが、実際には、それほど変っていなかった。だが、蘭東が、落ち着こうとしたことで、それを感じ取った菊島に、この事態のことを少し考える余裕を生まれさせた。
「何もなかったら、あっちにミサイルがいくわけないじゃない」
そう言った菊島の目線は、蘭東の顔の左横を通り過ぎ、焦点は無限遠にあわさっていた。
「何ですか、姫萩さん」
姫萩に後ろからシャツを引っ張られ、シャツの第二ボタンが、喉にあたった田波は、緊張に水をさされた不快感が大きいことを、小さな声しか出せない今の状況で、何とかあらわそうと、口だけを大きく開いて、喋った。
「あっ、ねぇ、これのことなんだけど……」
だが、姫萩は、そんなことは、気にも留めないのか、それとも気がついていないのか、自分が座っているところを手で叩きながら、いつもの調子で喋り出す。
田波は、嫌々ながらも姫萩の方に振り向いてしまった以上は、何か言ってから、ミサイルの行方と、ヘリにいる仲間の対応を見届けよう思ったが、
「ミサイルが、ターンした」
双眼鏡を覗いていた梅崎が、日常レベルの大きさの声で発したこの一言で、そうする間もなく、向き直した。
「本当か!!」
田波が、まず確認したのは、動きが速くて捕捉しにくいミサイルの位置ではなく、ヘリが今どうなっているかであった。
「大丈夫ということは」
少し不安定な飛行をしてはいるが、ヘリの機体からは、煙や炎があがっていないことを確かめた田波の肩が、無意識にもち上がる。
「こっちに、くるぞ!!」
まず、逃げ出したのは、梅崎だった。
頭の上に被さっているカバーを跳ね上げると、穴の付近に生えている下草を掴み、腹ばいになって、穴から出ようとした。腹部と大腿部の前面に泥がつき、胸部には、草の露が染みて、くわえて、カバーを被って、穴に隠れていたために、肩につもったホコリと、膝についた泥で、白いスーツは、見る影も無かった。
明らかに、梅崎は、焦っていた。
だが、焦ってはいたが、首を左右に回して、仲間も逃げてるかどうか見ることは出来た。そして、そうした。
いない。来てない。何故?
と、そう思った瞬間、梅崎は、田波に腰を掴まれ、穴の中に引き摺り込まれた。
「梅崎さん、まだ早い」
急に引きずり込まれて、目を丸くした梅崎の顔にむかって、田波は、抑え込むような目つきをしていた。そして、田波は、梅崎が何か言う前に、次のようにまくしたてた。
「ミサイルの成型炸薬は、指方性が高いだけで、爆発の大きさ自体は、小さいんだ。だから、逃げ回って、狙われるより、引き付けてから、逃げた方が、いい」
そう言って、田波は、今まで頭の上にあったカバーを掴んで、穴の横に投げつけると、さらに、次のように付け加えた。
「それに林の中だったら、追って来れない」
希に見る田波の迫力は、梅崎を、ただ頷くだけに押さえつけた。
「ねぇ、田波く〜ん」
ただ、やはり、後ろにいる姫萩までは、その迫力は伝わらないでいた。
「だから、何ですか、姫萩さん」
田波は、引っ張られた肩に掛けられた姫萩の手を払いながら、梅崎に向けていた目を、さらに開いて、振り向いた。
「あっ、いやね、あたしの座ってるところ、なんだと思う?」
だが、梅崎を圧倒した田波の目は、姫萩には何の効果もなく、ただ、さっきと同じように座っているところを、片手でたたく姿を映すだけであった。
「そんなこと、知りませんよ」
「いや、ほら、なんか微かに嗅ぎ慣れた匂いがしない」
「臭いって」
「ほら、ちょっと臭うでしょ」
姫萩は、鼻の穴を見せるように顎をちょっと持ち上げ、鼻先を左右に小刻みに動かした。
「うん」
田波も、つられて姫萩と同じように周りの臭いを嗅ぐ。
それを見て、姫萩は、鼻先を左右に動かすのを止めずに、
「ねぇ」
と、語尾を下げて、何かに気がついた風な声を発したが、田波は、依然としてミサイルの方に気を取られていたため、かすかな臭いと、わずかな姫萩の声と表情の違いを捉えていなかった。
鼻先を二三度横に振った後、すぐに田波はミサイルの方に向き直った。
「今、どこにいますか」
「あと、数秒で真上に達する」
梅崎は、片足を穴の縁に掛けて、紙一重でミサイルを避ける準備をしていた。
「姫萩さん、座ってないで、逃げる用意」
田波は、いまだ座ったまま考え込んでる姫萩の左の二の腕を、片手で掴んで立たせようとする。
「あっ、わかった」
田波に持ち上げられ中腰になった時に、姫萩は、座っていたところを振り向き見て、そう言った。田波の腕が、姫萩が下に振り向いたせいで、体重が下にかかり、少し引っ張られる。
「あとで聞きますから」
せっかく立たせてあげてるのに、ちっとも協力しない姫萩に対する不快感が、田波の声に如実に表れていた。
だが、姫萩は、そんな事には気にも留めず、喋り続ける。
「ガソリンだ、これ」
姫萩のこの一言に、今まで上を見ていた梅崎と田波が、顔面蒼白になって姫萩の方を振り向いた。
「なに〜!!」
「えっ〜!!」
喉の奥を乾かす二人の叫び声は、前に立つ姫萩の髪が揺れんばかりのものであったが、
「シュ〜〜〜ドゥ〜〜〜」
ついに頭上に達し、月光を半分さえぎりながら落ちてくるミサイルの音が、それをかき消した。
「うわぁぁぁ〜〜〜!!」
「だぁぁぁぁ〜〜〜!!」
今度の、二人の叫び声は、完全に理性の消えたものに変化し、
「おおぉぉぉ〜〜〜!!」
あとに姫萩の驚愕の声が続いていた。
ヘリに乗る菊島達は、林が黒から緑、緑から赤へと、一瞬にして色が変るのを目にした後、一呼吸置いてから、
「バッドゥ〜〜〜ン」
という湿った爆発音を、耳にした。
林の中心部の木々は、根本から、てっぺんの木の葉一枚にいたるまで全て真っ赤に燃え、外周部の木々も、根本の部分を除いては、中心部と同様に燃えていた。
やがて中心部の燃え盛る木々が倒れると、それに押される様にして、ゆっくりとドミノ倒しのように林の木々が放射線状に倒れていった。
「何、あの爆発の大きさは!!」
「ちょっと、聞いてないわよ!!」
桜木から聞いていたミサイルのスペックからは、想像できない爆発の規模を目にして、二人ともうろたえていた。
「栄子ちゃん、あんなのだったら命中しなくたって、一緒じゃない」
「こんなことって、ありえないわ」
「ありえないって、でも、実際、メラメラ、ドガァ〜って木が燃えて倒れてるのよ」
「あんな風に燃えるには、火薬以外に、油か、何か燃える液体が必要なのよ。あんな爆発、考えられないわ」
「じゃぁ、燃料電池の水素を置いてたとか」
「自分から、燃料を棄てると思う」
「それじゃ、オイル」
「動かなくして、どうするの」
菊島の言った可能性を、そう言下に否定した蘭東の頭に、ふと、あることが浮かんだ。
「動かなくってって……、あったわ、動かない車が」
そう言った蘭東は、炎の色を確かめるように見る。
「フェンスにぶつかってた車よ。爆発しない様に、あらかじめガソリンをほとんど抜いてから、化け猫が、ぶつけたんだわ」
それを聞いた菊島は、続けて二度、鼻から息を吸い込み、臭いを確かめると、突然、あわてるように、蘭東に顔を向けた。
「じゃぁ、化け猫は、わざと」
「あの中に、田波君達がいた可能性が高いわね」
そう言ってから蘭東は、気絶してる桜木の方を見て、
「結局、一緒ね」
と、ため息をついた。
「あと、二発」
「社長、高見ちゃんの代わりは、あたしがやるわ。ミサイルの相手と、パイロットの方を、お願い」
「わかったわ」
互いに目を合わせぬまま、うなずいた二人の顔からは、驚きが消え、変って緊張感漂うものになっていた。
菊島は、床に落ちていたケーブルを手に持つと、立ち上がり、膝の汚れを手で一回払って、パイロットに向かって歩き出した。
蘭東は、機内に持ち込んだ機材をどけて、機内の端にスペースを作ると、機体の揺れで、体がアチコチに行かない様、そのスペースに桜木をどけた。そのあとですぐ、桜木が今まで見ていたモニター上に幾つも並ぶ数字を、すばやく確認した。
「トランクのミサイルは、この番号と、この番号ね」
「どっちが最後になっても、対応できる?」
パイロットの後ろについた菊島が、手に持ったケーブルで輪っかを作りながら、そう訊いた。
「大丈夫よ。高見ちゃんが、いいプログラム、組んでくれたから」
モニターを見つめたまま、蘭東は、そう答えた。
菊島は、それに軽くうなずくと、パイロットの額に手を当てて、頭をシートに押し付け、
「いい。今度は、栄子ちゃんの、声に合わせるのよ」
と、耳元でささやいた。
パイロットのかぶるヘルメットにも、菊島と蘭東の声は入ってっており、なにもそうする必要はないのだが、命令を心の芯にまで染み込ませるため、あえて、そうした。
耳元から口を離した菊島は、パイロットの頭を押さえつけたまま、今し方作ったケーブルの輪を、シートと共にパイロットに首に巻きつけると、去り際に、もう一度耳元で、
「ちゃんとしないと、首に巻いたこのケーブル、メインローターにからませるからね」
と、ささやいた。
それを受けて、即座に、パイロットから、
「はっ、はっ、はい」
と、腹を凹ませながらの返事が帰ってきた。ミサイルが林に行って安堵した時は、パイロットは大きく肩を持ち上げ、深呼吸していたが、予期せぬ爆発の大きさに、驚いてからは、激しい心臓の鼓動に合わせた腹式呼吸になっていた。ただ、先の神楽の会話から、考えてた以上の爆発が起こった原因が分かって、落ち着き始めていたのだが、その矢先に、また同じ事をやらされることを告げられて、逆戻りとなっていた。
だからこそ、菊島は、パイロットが逃げ出さぬよう、あの様にして、命令を伝えたのである。
「社長、こっちは、いいわ」
背中の後ろを通ってドアに戻る菊島に向けた蘭東の表情は、いつにも増して締まっていたが、とりあえず桜木の代わりが出来るとわかって、幾ばくか安心したのか、言葉の後ろに、短い息が吐かれていた。
「栄子ちゃん、双眼鏡、その辺になかった?」
菊島は、桜木の頭にぶつかって散乱したダンボール箱の中の御札を、集めて元に戻しながら、そう言った。
「はい、社長」
「ありがと」
「ふぅ、それにしても、……」
「何、栄子ちゃん」
菊島は、パイロットの首に巻きつけたケーブルを左足首に巻きつけながら、蘭東に続きを言うように促した。
「うぅん。むこうが、トランクを開く分、時間があって助かったって」
それを聞いた菊島は、少しうつむいた後、蘭東に何かを言いかけようとしたが、言葉を飲み込んで、双眼鏡を覗き込んだ。
「完全に開いてるわね」
菊島は、相手の状況を確認しながら、ダンボール箱とクロスボウを、先程と同じように構えだした。
「栄子ちゃん、そろそろ撃ってくるよ」
「気をつけて。さっきより近づいてるから、早いわよ」
「わかった」
と、うなずいた菊島は、ケーブルを巻き付けた左足を後ろに引いて、パイロットの首を少し絞めた。
「そっちも、わかった?」
「ううぐっ」
パイロットは、頬を引きつらせた顔で、二三度うなずく。
「よっし」
後ろからパイロットのヘルメットが、二三度上下に揺れるのを確認して、菊島は、また双眼鏡を覗いた。
「うん、あれ?」
「どうしたの、社長」
蘭東は、実験車両に何か予期せぬ変化が起こったのかと思い、心配そうな口調で、菊島の顔を見た。
双眼鏡を覗いてるため、菊島の表情は完全には、分からなかったが、蘭東は、目以外の隠れていない部分−−−眉毛が急激に上がり、口がゆっくりと開き出したこと−−−からだけで、十分表情を読み取れた。
歓喜と驚き、だった。
「あっ、あっ、田波君が、田波君が、いる、いる!!」
双眼鏡を目から外した菊島が、燃え盛る林に向けていたクロスボウは、小刻みに震えていた。
田波が助かった理由は、二つあった。
一つは、ガソリンが入っていたポリタンクが、穴の中にあったため、地面と平行な方向に向かう爆発の衝撃が、抑えられたこと。
そしてもう一つは、……。
「ふぅ、うう。助かった」
林の外にまで倒れた木々の間から、田波が、また木が倒れてこないかと心配しながら、作戦失敗で御札が地面に開けた穴に落ちたカートを伝って、おそるおそる顔を出していた。
着ているシャツの背中の部分は飛んできた火の粉で少し点々とこげており、またその周りは、ついた火の粉を地面こすり付けて払おうとしたのか、泥で汚れていた。
「しかし、クソ、熱い」
田波の近くにあるのは、林に外周部の木のまだ燃えていない根本部分であったが、とはいえ、周りは、小さな山火事が起こっているのと大差無い状況なのである。
カートを掴んだ手に伝わった熱さで、地上が、かなり熱いことは、承知していた田波だが、予想以上の炎に、容赦なく顔を熱せられ、目を開けるのも、辛くなる。田波は、周りの状況を確かめるのを後回しにし、顔を爆音のする方向に向けた。上空に、まだヘリがいるのを確認して、田波は、とりあえず、この場を離れる事にした。
「そうだ、パソコンと、御札」
二三歩踏み出したところで、両肩が、逃げ出す時に比べて、軽い事に気がつき、戻ろうとする。
心身ともに疲労がかなり溜まっているせいで、足よりも、かなり先に頭の方が後ろに回る。当然、顎は、最初、上を向いたままの高さで回り、鎖骨の上に来たあたりで、急に肩に引き寄せられる。
炎は、また容赦なく顔を熱する。
炎を避けて空に向けていた目が、また地面の炎に向けられる。
炎に揺られるゴルフ場を、また目にする。
それは、つまり、炎に揺られる実験車両を、目にするということである。
田波を見つけたことで、ヘリの中は、さらに騒がしくなっていた。
「ねぇ、最後の仕上げの前に、田波君に連絡が取れるようにして」
双眼鏡から目を外した菊島は、機外に注意するのを一旦止め、機内の蘭東に目を移していた。
「それは、いいけど、どうやって」
「あいつの中には、まだアレが残っているでしょ」
そう菊島に言われた蘭東であったが、すぐにはアレの意味するものが分からず、目を左上に向けて、考え込んだ。
「ほら、コレ、コレ」
菊島は、そんな蘭東の様子に、もどかしげに、インカムを、指先でトントンと、こつく。
「あっ、そうか、わかったわ」
菊島の意味したコトに気がついた蘭東は、端末に向かって、急いで入力を始めた。
「コレと、コレを、連動させて。さすが、高見ちゃん。いい仕事してるわぁ」
あらためて、桜木の仕事ぶりに感心した、その時であった。
「ピーーーッ」
モニターの一番大きいウィンドウの中で、今、描かれた緑の線をなぞるように、赤の線が進み始めた。
「来る!!今度は、真下からよ!!」
「分かった。しかし、ありがたいわね」
そう言った菊島の顔は、少し微笑んでいた。
「梅崎さん、梅崎さん」
田波は、自分の入っていた隣の穴を四つん這いになって覗くと、中にいる梅崎に、手を差し伸べながら、化け猫に気がつかれないよう、小声で話しかけた。
「おおっ、田波」
おしりから、すっぽりと、穴にはまってしまい抜けれないでいた梅崎は、手を差し伸べられて、こりゃ、ありがたいとばかりに大声を出した。あわてて田波は、すぐに自分の口元に人差し指を当てる。
「シッ〜。近くに、あの車がいるんだ」
「えっ、なに!?ホントか!!」
「だから、静かに」
「あっ、ああ」
梅崎は、すまないといった顔をして、手に掴まった。田波は、化け猫に見つかりにくいように、梅崎を引き上げるのではなく、穴に落ちてるカートに足の裏を当てて、足と上体の力で地面に平行に引っ張った。穴の中に落ちているカートに手足をかければ、一人で楽に上がれるのだが、目立たない様に体を低くして穴から出るには、最後、這って出なくてはならないので、田波の助けがあった方がいい。
「しょっと」
「ふぅ〜、ところで、夕は?」
梅崎を引き上げて仰向けになった田波に、うつ伏せになった梅崎が訊いた。
「多分、あっちの隣」
と、言って、田波は、自分の入っていた穴のもう一方の隣に目向けた。二人の顔が、炎に、そして姫萩のいる穴は、炎と、それと一瞬、別の光に照らされた。
と、同時に、
「バッシュゥゥゥゥ〜〜」
発射音が、メラパチメラパチと木の燃える音を押しのけて、梅崎と田波の耳に到達した。
田波と梅崎は、声を上げるよりも先に、音のする方向に、顔と体を向け、文字通り、天を仰いだ。
「イッ」
「アッ」
二人は、菊島達の乗るヘリが、車に対して、あまりに近い事に気がつき、思わず声を上げた。
「上昇、上昇して、出来る限り」
菊島は、膝下を機外に出して、出入口に腰掛けると、クロスボウを真下に向けた。
「い、い、今、やってます」
菊島が、ケーブルを巻き付けた左足も機外に出してしまったので、パイロットの首が、意図せず、かなり締め付けられていた。
「社長、タイミングは、さっきよりとりやすいけど、爆風は、かなりのものになるはずよ。もうちょっと、寄って、衝撃に耐えれる様にして」
蘭東は、そう言うと、左足に巻き付けられたケーブルを引っ張って、菊島をドアのコックピット側の端に寄せた。
「あっ、わかったわ」
菊島がコックピット側に寄って、やっとパイロットは、首締めから解放されたが、
「社長!社長、用意して。来るわ!!」
すぐに、胸が締めつけられた。
「準備万端。3、2、1、0で、お願い」
菊島が、ダンボール箱を、ポンッと叩く。
「諒解!!」
モニターに表示されているミサイルを示す赤の線の加速がさらに増し、予測を示す緑の線を、猛烈な勢いで、全て塗りつぶそうとしていた。
「ピッー」
モニターに表示されているタイマーが、カウントダウンを始める。
「いくわよ!」
「オッケー」
蘭東は、ちょっとでも遅れまいと、十分の一秒の表示に目をやる。
「3」
コンマ7、コンマ5、コンマ3、と進む度に、蘭東の顔は、モニターに近づいていく。
「2」
菊島は、ダンボール箱の開口部を掴み、横に倒した。
「1」
赤の線が、緑の線を、完全に塗りつぶす。
「0」
菊島は、その声と同時に、ダンボール箱を、機外に放り投げた。
中に入っている多量の御札が、ヘリの起こす風で、一瞬にして空中に広がり、左手でドアを掴む菊島の視界から、ミサイルを消した。
「シャットゥ〜〜ン」
クロスボウから、矢が真下に放たれ、そして、この矢も、空中に舞う御札の中に消えていく。
「いくわよ!!」
それを見て小さく頷いた菊島は、さらにパイロット側に寄ると、左手でドアの端を掴むだけでなく、左上腕部を端に引っかけて、体を固定した。
そして、背中の後ろに右手を回し、後ろに置いてあるノートパソコンのキーに、人差し指を延ばした。
「梅崎さん、姫萩さんのとこ行って」
ミサイルを仰向けになっていた見ていた田波は、両肘で地面を押して上半身を少し持ち上げると、顎を引いて、梅崎の方を向き、そう頼んだ。
「あっ、あっ、ああ〜」
事態が急変したことに、梅崎は、今だ驚いているのか、生返事しか返さない。
「梅崎さん!」
切羽詰まった表情をして、田波が、梅崎の顔に、自分の顔を突き出した。
「わっ、わかった。でっ、行ってどうするつもりなんだ」
「みんなバラバラに、逃げるんです。残り一発、射たない可能性が大きい」
田波は、そう言い終わると、ノートパソコンと、御札を取りに、自分が入っていた穴に這って戻っていった。
田波の入っていた穴は、梅崎の入っていた穴からは、ほとんど離れていないと言ってもいいくらい近いのだが、状況が状況だけに、そうやって移動することが賢明と言えた。
なのに、梅崎は、そんな神経質になってる田波の横を、こともあろうに、立って歩いていた。
「コラ!」
あせった田波は、梅崎の腕を掴んで、引き倒す。
「あたっ」
尻餅をついて、手を後ろについた梅崎は、
「いるって、言ったでしょう」
と、田波に怒鳴られたが、何故か、その間中、じっと上を見ていた。
梅崎の目は、別に田波を無視している風ではなく、何かに釘付けになっているといったものであり、その梅崎の目にひかれて、田波も上を見た。
夜空には、闇を精一杯照らす満月の代わりに、燃え盛る林の炎に照らされる白くいびつな満月が、ヘリとミサイルと、そして月とを隠していた。
白い満月は、少しいびつな形をしたまま膨張をしており、それを見た田波は、白い満月が何で作られているかに気づき、息をのんだ。
やがて目一杯膨らんだ風船が破裂するかのように、白い満月は爆発した。
御札がドアから撒かれたことで、御札の広がりは、ヘリから見て、少しドア側によっていた。そのため、多量の御札の爆風に襲われたヘリは御札が撒かれたドア側が、もち上げられた。
「うわっっっ」
ミサイルが、どうなったか最後まで肉眼で確認しようと、ドアに腰掛けて機外に足を投げ出していた菊島は、ドア側が持ち上がったことで、ドアの端を持っていた左腕を中心として、クルッと回って機内に戻された。
しかし、この規模の爆発が、たったそれだけで済むはずがない。
ゆり戻しで、今度はドア側が下がり、機内に持ち込んだ機材が一斉に落ちだした。
「社長、社長、そっち押さえて」
蘭東が、両手を広げてなんとか、機材の落下を食い止めようとするが、揺れがひどく立つことが出来ないため、結局、上の方の機材は、どんどん落下してしまう。
「無理よ」
助けを求められた菊島も、うつ伏せになってドアの端に掴まってのが精一杯で、せめて出来ることといったら、右足を伸ばして、床に落ちた機材が、すべってドアから落ちないように、止めることだけであった。
「そんなこと言わないで」
と、泣きつく蘭東だが、すぐに助けが入った。
「わぁたっ」
ゆり戻しで、またドア側がもち上がり、機材の落下がおさまったのだ。蘭東は、今の内とばかりに、膝を立て、腕をいっぱいに広げて、上にある機材を押さえる。
「栄子ちゃん、ミサイルは?」
そう菊島が聞いた時、またドア側が下がったが、今度は、そんなに傾きがきつくなく、機材の落下を、比較的楽に防げたおかげで、蘭東に、モニターを見る余裕が出来た。
結果は、一目でわかった。
赤の線が消えていた。
「消滅!!」
「よし、やった!!」
ヘリの揺れが、何とか立って歩けるくらいに、やっと収まると、菊島は、左足に結び付けていたケーブルの結び目を、ほどいた。
「あとは、こちらの思う通り動いてくれるかね」
「動くわよ。間違いなく」
菊島は、確信を持った顔をして、そう言うと、肩で息をしてるパイロットに向かって歩き出した。
蘭東は、今か今かとモニターに顔を向けながら、床に落ちた機材を一つ一つ拾い上げる。
「ピッ!」
モニターに、今まで大部分を占めていたミサイルに関するウインドウを押しのけ、別のウインドウが自動的に表示された。
「やっ、やった」
「すっ、すごい」
ヘリ側の仲間達が行なったミサイル対策に、田波と梅崎は、しばし呆気に取られていた。
「そっ、そうだ。御札にパソコン」
「あっ、夕だ」
田波、梅崎とも、各々目的の穴に向かって進み出す。ただ、田波は、這って進んだものの、梅崎は、また匍匐せずに立って歩こうとした。
田波は、急いで梅崎の足を掴んで、注意する。
「這って」
「わっ、わかった」
梅崎が匍匐前進するのを見送ってから、田波は、自分が入っていた穴の中に手を伸ばした。ノートパソコンは、すぐに引き上げれたが、散乱している御札は、カートが邪魔になって、なかなか拾えない。
「3枚、4枚と。とりあえず、これだけあれば」
なんとか封印に必要な枚数を拾って一息ついた田波は、ふと梅崎の方に目を向けた。時間的には、すでに姫萩を引き上げていて、いいはずなのだが、田波の目に映ったのは、ただ穴の中を、ボ〜と見つめている梅崎の姿であった。
こんな切迫した状況の中、なに惚けてるのかと、田波は、匍匐前進して、梅崎の隣に行く。
「ちょっと、梅崎さん」
耳元で、何か言えば、こちらを振り向くだろうと思ったが、梅崎は、穴から目線をそらさず、代わりに呆れた顔をして、穴の中を指差した。
田波は怪訝な顔をして、梅崎の指を辿るように穴の中を覗いた。
「寝とる」
穴の中では、体を器用に折り曲げて中に落ちているカートに寄りかかるようにして、姫萩が寝ていた。
「ああ、夜も遅いからねぇ」
「って、起こさなきゃ駄目でしょ。梅崎さん」
「そうだ、そうだ」
姫萩の目を覚ますべく、田波は、姫萩の腕を掴んで引き上げ、一方、梅崎は、田波の反対側に移り、背中から姫萩の両頬を交互に平手打する。
「う〜〜〜ん。眠〜〜い」
「寝とる場合か、あんた」
梅崎の時とは違い、体に力をこめてない姫萩を引き上げるのには、かなり力が要る。だからと言って、おもいっきり引っ張っては、カートに頭をぶつけることになったりしかねない。結局、田波は、腕一本を掴んで、手繰り寄せるようにして引き上げていた。
「夕、起きろ。逃げるぞ」
「え〜、逃げる?ふわぁ〜あ。逃げたじゃない、あたし達」
「ええぃ、もう」
なかなか目を覚まさないことに業を煮やした梅崎が、姫萩の口の両端に、人差し指を引っかけると、真横に引っ張ろうとした。
ただ、そうするには、姫萩の体が引き上げられている途中で、田波側の穴の端に顔があるため、腰を浮かして、身を乗り出す必要がある。
梅崎は、顔を上げ、姫萩の口の指を引っかけまま、引き上げられる姫萩についていく。
「ああっ、田波ぁ〜!!」
突然、梅崎が、叫び声を挙げながら後ろに倒れこんだ。
「いがぁ〜〜〜!!」
姫萩は、口を真横に引っ張られるのでなく、真後ろにおもいっきり引っ張られたため、唇の鼻の下の部分に力が集中し、激痛が走ったその部分を、手で押さえた。
「えっ?」
何事かと、後ろを向いた田波の視界を、
「わぁぁぁぁぁ!!」
実験車両が覆う。
あせった田波は、姫萩の腕を掴んだまま、抱きつく様にして自ら穴の中に落ちた。
しかし、カートが中にあって、一人でも狭い穴である。先に落ちた姫萩は、カートのシートの背もたれと穴の底の間に、仰向けになった上半身と臀部と引きつけた大腿部を押し込め、後に落ちた田波は、背もたれの裏に顎と胸とつけて、海老ぞりなることで、なんとか二人とも穴の中に収まることが出来た。
だが一息つく間もなく、月明りと、周りの炎の光が、遮られ、穴の中は、真っ暗になるであろうと、田波は思った。
梅崎は、どうなっているのか?
御札は、ポケットに入っているが、ノートパソコンを、自分が入っていた穴の側に置いてきてしまって、一体何が出来るのか?
間もなく穴には蓋がされ、そして襲ってくる化け猫の爪を、無手で対処できるのか?
と、ごく一瞬に、そこまで考えが及んだ時、田波は、ハッとした。
穴に落ちてから、ほんのわずかな時間しか経っていないが、それでも車が、穴に届く光を遮るには、十分なはずなのである。
それなのに、姫萩の顔が見えている。
不思議に思った田波は、音に全神経を集中させた。
「ギッサジャサジャサジャサジャ〜」
すると、草と何かが擦れる音が聞こえてきたが、すぐに、聞こえなくなった。
一体何が、草と擦れていたのか?
だが、それを思案する間もなく、
「カコッンカコッン」
何かが、カートに当たる音がした。
それはカートに当たった後、田波の背中を滑り、後頭部に当たって首を滑ると、まだ口を手で押さえている姫萩の額に当たり、そして穴の底に落ちた。
「痛っ」
別に高い場所から自由落下したものが当たったわけでないので、あまり痛くないはずなのだが、口の痛さに気を取られ、不意をつかれた姫萩にとっては、何倍もの痛みに感じた。
「姫萩さん、大丈夫ですか?」
手で口を押さえているせいで、くぐもった声になってる姫萩のことを、まず最初に心配すべきだったと、田波は反省した。
しかし、反省は、一瞬にして終わった。
何故なら、姫萩の耳が照らされていたからである。
何故なら、照らしているのが、落ちてきたものだからである。
何故なら、落ちてきたものが、自分がいつも持ってるものだったからである。
「あっ、こちら田波」
着信音は鳴ってないが、着信を示すLEDが、点滅している。急いでとった携帯から最初に聞こえてきたのは、
「あんた、二人で何いちゃついてるの!!」
菊島のヒステリーな声であった。
「仕方なかったし、何とも無い!!」
田波は、反射的に怒鳴ったが、菊島にそう言われて、はじめて、姫萩の顔も、そして大きい胸も、目の前にあることに、気がついて、頬を赤くしたのも、また事実だった。
「で、一体、何だ!こっちは、化け猫が近にいて、大変なんだ」
恥ずかしさをごまかすように、声を張り上げる。
「バカ!!なんで携帯がそこにあるか考えなさい」
「ええっ〜?」
「乗っ取ったのよ。車を!!」
「えっ!」
驚いた田波の上から、スッと帽子をかぶる頭の影が落ちた。
「田波ぁ、何にもしてこないぞ」
田波は、梅崎のこの言葉を聞いて、やっと菊島の言っていることが、本当だと分かった。
「それより何で、真紀も夕も、携帯の電源切ってるの」
「あっ、まぁ」
痛いところを突かれて、くちごもった田波の口に、姫萩が、手を当てた。
「田波君、唾」
「あっ、すみません」
姫萩は、口の痛みがひいたのか、田波の口に当てたのとは別の手で、頬をぬぐっている。
「すみません、じゃないでしょ」
菊島は勘違いして、怒る。
「そっちじゃ、ない」
「どっちが、あるのよ!」
「社長、どっちでも、そっちでも、あっちでもいいから、いいかげん田波君に、用件を伝えて」
いきなり蘭東の声が強引に割り込んできた。
「あっ、じゃぁ、田波君、今から言うことを、よく聞いて」
ぶすっとした菊島の声に、田波はため息をつく。
「はい、はい」
「まず、その穴から出て」
「はい」
田波は、顔を出来るだけ、後ろに向けようと首をひねるが、せいぜい肩の裏を見れるくらいにしか回らない。カートの背もたれに押し付けた頬が、ひんやりとした。
「梅崎さん、脚を引っ張って」
「わかった」
車を乗っ取ってしまえば、何も気にすることはない。梅崎は、田波の両方の足を両手で掴むと、腰を落し、そして一気に引っ張り上げる。
「あった、痛っ」
田波の姿勢を考えてなかったせいで、頭が、軽くカートの屋根に当たった。
「梅崎さん、もうちょっと、ゆっくり」
「すまん、すまん」
梅崎は、顔の前で、片手をピンと立て、口だけで謝ると、すぐに姫萩を、引き上げに行った。
「もう」
田波は、後頭部を押さえながら立ち上がると、再び携帯を耳に当てた。
目の前には、助手席側をこちらに向ける実験車両がある。
「ちょっとぉ、ゆっくりしてる場合じゃないのよ」
「わかってる。で、続きはなんだ」
「御札は、ある?」
「ああっ、手元にちょうど四枚」
「ノートパソコンは?」
「隣の穴のそばに置いてある」
田波は、何かあっても、すぐに取りに行ける距離だということを再確認するため、ちらっと自分が入っていた穴を見た。
「いい、こっからよ。まず、御札を、フロントガラスと、リアバンパー、そしてドアの内側に一枚づつ貼って」
ポケットにねじ込んだ御札を取り出そうとした田波の手が、ピタッと止まる。
「ちょっと待て。じゃぁ、まだ化け猫は、この中にいるのか?」
「そうよ」
「って、乗っ取ったんじゃ、ないのか!!」
田波は、後ずさりすると、携帯に向かって怒鳴った。
「乗っ取ったのは、今のところ車だけ」
「今のところって?」
「これから、ミサイルと制御装置を乗っ取るところ」
「じゃぁ、今のうちに封印した方がいいだろうが」
田波の目は、トランクの中からせり上がって出たミサイルだけに、向けられていた。
「おバカ。実体化してないのに、封印出来るわけないでしょ。いい、これからトランクを閉めて、ミサイルを自爆させるから。それで、実体化したら、すぐにデリートよ」
「自爆って、燃料電池の水素はどうするんだ。デリートする前に、車が粉々になるぞ」
「大丈夫、ミサイルを乗っ取るって言ったでしょ。成型炸薬の向きを上に変えるわ。ところで、いい。ドアに貼る二枚は内側にすること。前の一枚で、結構、壊れてるはずだから、その二枚で、床にある燃料電池を破壊できるはずよ。それに、その貼り方じゃないと、実体化しても車の外に逃げれちゃうから」
「わっ、わかった」
田波は、携帯を胸ポケットに入れると、目の前のドアの内側、フロントガラス、向こう側のドアの内側、リアバンパーの順に、御札を貼っていった。ただ最後にミサイルを間近で見ながらの作業というのは、やはり恐く、腕を伸ばせるだけ伸ばし、出来るだけ遠ざけて、御札を貼った。そして、急いで、ノートパソコンを取りに行き、フロントガラスに貼った御札と接続した。
それから、自分が入っていた穴の近くまで後ろに下がり、今し方、引き上げられた姫萩と梅崎に向かって、
「姫萩さん、梅崎さん、穴に入って」
と言った。
「えっ?」
「はぁ?」
二人は怪訝そうな顔をする。
「デリートするんですよ。爆発、爆発」
「わかった」
田波の言葉を理解した梅崎は、まだ少し寝ぼけている姫萩の首に、後ろから腕を回して、一緒に穴に入った。
「え〜、また入るのぉ〜」
「死にたけりゃ、いいぞ」
「ふぁ〜い」
二人が穴に入るのを確認して、田波も、穴に入り、トランクが閉まるのを、今か、今かと待った。
十秒、二十秒、三十秒、四十秒、……、だが、いっこうにトランクは閉まらない。
「なぁ、まだか」
頭半分を穴から出しているため、後頭部が、周りの炎で熱せられ熱い。
「ちょっと、待って、栄子ちゃんに訊いてみる」
菊島も何かおかしいと思い、パイロットの首から外したケーブルを手に巻くのを止め、振り向いて蘭東に訊ねようとした。
と、その時である。
「うぁぁぁ〜〜!!」
携帯から、耳をつんざく田波の悲鳴が聞こえてきた。
「ねぇ、田波君、どうしたの」
田波が、悲鳴を上げる理由は一つしかない。それは、菊島も分かっていたが、急なことで、おもわず訊いてしまった。
「ミサイルが、頭の上かすめて飛んでったんだぞ!!どうなってんだ!!」
怒りをぶつける声が、ヘリを震わす。
「ねぇ、乗っ取れるんじゃなかったの」
ドアから外をチラッと見て、ミサイルが、どのあたりにいるかを、確認してから、蘭東に、そう訊いた。
「ちょっと待って、ちょっと待って、ちょっと待って、ちょっと待ってよ」
目を大きく開き、首を左右に振って、モニターを見る蘭東の姿からは、あせりだけしか感じられない。
「これが、ここに、そして、こっから、これに……」
モニターが、ウィンドウで、瞬く間に溢れ出す。
「ねぇ、まだ」
「プログラム組んだの高見ちゃんなのよ」
ヒステリー気味になっている蘭東の指が、ピタッと止まる。
「で、どうなの?」
蘭東は、それには答えず、床に落ちている機材を一つ一つ見ていく。
「あっ!!」
ある機材を目にした蘭東は、額に手を当てた。
「どうしたの?」
蘭東は、菊島の問に答えるように、今し方、目にした機材を指差した。
「壊れてるのよ」
「へっ?」
蘭東の言葉の意味を理解しかかっているにもかかわらず、聞きなおした菊島の顔は、笑っているのか、呆れているのか、そのどちらとも言えないものだった。
「だから、これが壊れて、プログラムが、動いてないのよ」
「じゃぁ、ミサイルの中に化け猫がいるわけ!!」
覚悟していたこととは言え、最悪の事態に直面してしまった神楽の面々が、一斉に騒ぎ出した。
まず、口火を切ったのは、
「どうするんだよ」
穴から出たばかりの田波だった。
これに言い返したのは、今まで携帯を持っていた菊島ではなく、
「どうしようも、ないわよ。大体、もとはといえば、実験場で、あんた達が、見失ったりするから」
蘭東だった。
一方、菊島は、苛つきながらも、俯いて、何かを考え始めていた。
「こっちが悪いのかよ」
この田波の言葉に続いて、
「コラ、今のは栄子の方だろうが」
「そうだ、そうだ」
何時の間にか、穴から出て、田波の側にいた梅崎と姫萩が、反論した。
「何言ってるの。こっちは、命かけたのよ」
「それは、こっちもだぞ。栄子」
「そうだ、そうだ」
「携帯切っていたくせに」
「……」
いきなり痛いとこを突かれて、梅崎は口ごもった。もちろん、そうしろと言ったのは、田波であるが、その意図は、不意の呼び出し音が鳴って、化け猫に見つかる事を無くすためであった。それに対して、梅崎は、ただ面倒事を、これ以上、引き受けたくなかったので、それに賛同したまでのことである。
「そうだ、そうだ」
「夕!!」
梅崎に怒鳴られて、姫萩は肩をすぼめた。
「で、社長は、なんて言ってるんだ」
田波は、発射装置を見ながらそう言った。
「そうだ。社長、社長」
「あっもう、五月蝿い、五月蝿い!!」
蘭東の呼びかけを払うかのように、菊島は首を左右に振った後、また俯き、苛つきながら、何かを考え、そして悩み出した。
「社長!!」
正直、何かにすがりたい蘭東は、お願いするような声で、もう一度そう言った。
数秒間、ヘリの爆音以外に音がしない時間が過ぎた後、
「わかったわ」
一息ついて、そう言ってから、菊島は顔を上げた。その表情は、何かしらの覚悟を決めたものであった。
「じゃぁ、あの池の上に移動してくれる」
菊島は、ケーブルをほどき終えたところで、開いたドアから見える少し離れた池を指差した。
「えっ?」
「移動して。早く!!」
「わっ、わかったわ。あっ、運ちゃん、そばの池の上に行って」
何をどうしたいのか、分からないまま、蘭東は、とりあえず菊島の指示に従った。
パイロットは、ミサイルが、どっかに飛んでいったことで、落ち着いたのか、ヘリは、すぐに池の上空に移動し出した。
「栄子ちゃん、ミサイルの追跡は出来るわよね」
「出来るわ。でも、……」
『やっても無駄』と、蘭東が続けるのを、
「いいから、やって」
と、菊島が遮った。
蘭東は、言葉を飲みこんで、言われるまま、座ってキーを叩きだした。
「田波君、光ケーブルは、どうなってる」
菊島に、そう言われて、田波は、トランクの発射装置から出ている、光ケーブルを目で辿った。見える限りでは、ずっと光ケーブルは地面に落ちている。
「多分、途中で切れてる」
「わかった。じゃぁ、それに三人とも乗って。手動でも動くようになってるから」
「姫萩さん、仕事」
「ほい来た」
梅崎に怒鳴られたせいか、姫萩の眠気は完全に覚めていた。
「で、どうするんだ。まさか、これに乗って、ミサイルを追いかけろって言うんじゃないだろうな」
「その前に、御札は、貼ったままにしてる?」
田波は、目だけを動かし、運転席側のドアとフロントガラス、そしてリアバンパーを、チラッと見た。
「してるけど」
「O.K。今から、ヘリの下に化け猫を落すから、それに閉じ込めちゃって」
「ちょっと、落すって、どうやって」
「説明は、あと。そろそろ来るから、こっちに来て」
田波は、何かとんでもない事を、菊島がしようとしてるのでは、という予感がしたが、
「あと、田波君だけだよ」
「ホラ、はやく」
二人に急かされて、それ以上、聞けなかった。
ヘリは、既に池の上に到着していた。
「社長、ミサイルの誘導は出来ないのよ」
田波の聞きたかったことを、代わりに、蘭東が、菊島に訊ねる。
「そんな必要は、無いわよ」
「無いって」
「だって、むこうから、来るもん」
菊島は、何か諦めたようにそう言うと、桜木が作っていたビニール袋製の小さなパラシュートの中に、御札を詰め出した。
「えっ?……」
蘭東は、その確信の理由を聞き出す前に、一応、モニターに目をやった。
「社長!!」
驚くべき事に、ヘリに向かって進む赤い線が、モニターに描写されていた。
「どっかで、一旦、止まってたのね。で、6時の方向から?」
「あっ、あ、真後ろから来てるわ」
菊島の言ったことが、また当たって、蘭東は驚いた。
「よしっと」
菊島は、御札を詰めたパラシュートの紐を縛って口を塞ぎ、矢の先端に、結び付けると、ドアから身を乗り出して、テールローターに向かって、クロスボウを構えた。
「ちょっと、からみますよ」
パイロットが、あわてて注意する。
「大丈夫、今は、からまないようにするから」
と言って、菊島は、矢を放った。
矢は、テールローター近くを過ぎたところで、すぐさま引っ張られ、機体から1メーターぐらい下に垂れ下がった。
「これぐらいね」
菊島は、小さく頷くと、
「栄子ちゃん、残り50メーターまできたら、合図して」
と、指示しながら、自分の体と、パイロット側のドアの取っ手とを、さっきまで、自分の足とパイロットの首に巻きつけていたケーブルで、縛りつけだした。
「ねぇ、どうして来るって、わかったの」
体にケーブルを回す度に、緊張の色が濃くなる菊島の顔を見ながら、あらためて蘭東は、聞き直した。
「死角よ」
「えっ?」
「あいつはね、あたしたちの死角を突いてるのよ、今の今まで。実験場では、停車して、挑発してると見せ掛け、データーを奪い、高速では、こちらが通信網を封鎖することを見越した上で、ミサイルを使って、思いもしなかったところに出口を作り、……」
蘭東は、黙って続きを聞く。
「でも、さっき、こちらの読みが当たったでしょ。だから、来るわよ。やり返しね」
菊島は、お腹の前で、ケーブルをギュッと強く結んだ。
「じゃぁ、方向は?」
「言ったでしょ、死角だって」
菊島は、顔を上げ、テールローターの向こうにいるであろうミサイルを、にらみつけると、もう一箱用意していた、御札を詰めた箱を、裏返しにし、床に置いて上から右足で踏みつけた。
「で、あと、何メーター」
「あっ、あっ、近い、300メーター」
菊島の作戦が、どういったものなのか、結局つかめなかった蘭東だが、何か得も言えぬ不安を持ちつつも、とりあえず任せてみようという気になった。
だが、
「低空で、ばら撒くためのパラシュートを、こんな事に使うとはね」
と、菊島が、うな垂れて云ったのを聞いて、蘭東の中の灰色の不安が、どす黒く色を変えた。
こんな事に……。
「社長、何に使うの!!」
「何メーター」
「社長!!」
「何メーター!!」
「100よ!!」
もう、やめてとは、言えない……、この状況において、蘭東は、ただ指示された事を叫ぶしかない。
「よっし。どっかに掴まっといて」
「何するのよ」
「言ったでしょ。死角よ、死角。ヘリの死角よ。それより合図!!」
「50!!」
菊島がクロスボウをもった左手で、御札を詰めたパラシュートに繋がるケーブルを引っ張ると同時に、右手で持ってるノートパソコンのキーに、右手の小指をのばした。
「デリート!!」
テールローターにからんだパラシュートの爆発で、ヘリの頭が垂れ下がる。
「うわぁぁわぁぁぁわぁぁ〜」
天井の手すりを持った蘭東の体が、床から離れる。
パイロットの両肩に、ベルトが、めり込む。
ヘリに持ち込んだ機材が、ポップコーンのように天井や、壁にぶつかって跳ね返り、その幾つかは、ドアから機外に放り出される。
そして、桜木も、……。
「高見ちゃん!!」
蘭東が、あわてて、桜木の腕を掴み、事無きを得る。
「エンジン停止」
菊島が、叫ぶ。
ヘリは、180度回転して、蘭東に、容赦なく、ぶつかってきた機材が、天井の上だけで跳ね、桜木の腕を掴んだ手にかかる重さが、減少する。
じゃぁ、社長は?
社長は?社長は?
社長は、今、どうしてる?
「カチャッ」
菊島は、クロスボウを、真上に向かって、構えていた。
じゃぁ、ミサイルは?
ミサイルは?ミサイルは?
ミサイルは、今、どこに?
「やっぱり、死角ね」
蘭東は、目の前の天井にころがったモニターを見た。
赤い線が、ヘリを示すマーカーと重なっている。
菊島は、夜空の月を、真上を、向いている。
いつもはメインローターがあるところを、いつもは攻撃できないところを向いている。
菊島は、右足で踏みつけていたダンボール箱を、機外に蹴り出す。
箱の中にあった御札が、メインローターの風で夜空に舞い上がる。
菊島が、矢を夜空に向けて放つ。
ヘリの死角めがけて飛んでいたミサイルを、狙って……。
「デリート!!」
逃げようとして、急上昇するミサイルを、追いかけるように爆発が起こった。
「やったか?」
助手席の窓ガラスを下げ、そこに腰掛ける、いわゆる箱乗りをして、梅崎は、爆発の瞬間を見た。
「田波君、どう?」
姫萩も、運転席から、顔を出して、後ろにいる田波に、訊く。
「まだ、わからない」
割れた運転席側の窓ガラスを気にしながら、田波は、双眼鏡を覗いて、爆発の起こった上空を見ていた。爆発直後は、御札と、ミサイルの破片で、よく見えなかったが、徐々に拡散して、はれてきていた。
「デリートし損ねてる!!」
レンズの中に、月明りに照らされる実体化した化け猫が、現われた。
「双眼鏡!!」
「はいっ」
田波は、ノートパソコンを屋根に上げてから、胸までを、屋根より上に出すと、腕を伸ばして、双眼鏡を梅崎の両目に当てた。
「よっし、あそこね」
姫萩が、双眼鏡が向いている方向にハンドルを切る。
「田波、下っ」
「はい」
「上っ」
「はい」
梅崎は、モーゼル二挺を構えながら、双眼鏡の向きの修正を、田波に指示する。
「右っ」
「はい」
「左っ」
「はいっ」
「ちょい右、ちょい下、ゆっくり、そこ、そのまま、もうちょい上」
「コラ、早く撃てよ」
指示ばかりで、ちっとも撃たない梅崎に、田波が泡を飛ばす。
化け猫は、落下を始めた時点では、ヘリより高い位置にいたが、プロペラのあるヘリに比べて、空気抵抗が小さいせいで、ヘリよりも先に、地面に激突する。
「真紀ちゃん、そろそろ、落下地点」
「よっし、田波、ゆっくり下」
二挺のモーゼルが、一気に火を噴いた。
「うぉうぉうぉうぉうぉっ」
引き金を引く度に、梅崎が、ときの声をあげる。
「両手足、狙って!!」
化け猫の両腕、両足に、ありったけの弾丸がぶち込まれる。
両肘、両肩、両膝、両太ももに、大穴が空き、化け猫は、さながら丸太のようになっていく。化け猫は、急いで身体の損傷部分を再構成しようとするが、梅崎は、その間を与えない。
「ドッサッ」
地面に落ちた化け猫が、大きくバウンドする。
「真紀ちゃん、ドア」
化け猫がバウンドした先には、既に車が回りこんでいた。
「おう」
梅崎が、後部座席の助手席側のドアを開く。
「ドッ」
丸太状になった化け猫が、転がりながら後部座席になだれ込む。
「田波ぁ」
梅崎は、右手でドアを閉めると、左手で、双眼鏡を持つ田波の腕を掴んで、引っ張った。それと同時に、田波は、車内に入れた化け猫を両足で力の限り蹴り、その反動と、梅崎の力とを借りて、屋根に上った。
「真紀ちゃん、撃って」
運転席の窓から、飛び降りながら、姫萩が叫ぶ。
「よっしゃぁぁ〜〜〜」
梅崎は、上半身を仰け反らせながら、ハンドル、メーター、ペダル、サイドブレーキ、そして身体の損傷部分の再構築を始めた化け猫に、右手に握ったモーゼルに残る、ありったけの弾丸をぶち込みながら、そのまま背中から地面に落ちた。
車内は、滅茶苦茶に壊され、いくら化け猫でも、もうこの車を運転する事は出来ない。
屋根に上がっていた田波は、ノートパソコンを胸に抱きかかえ、リアガラスの上を転がりながら落ちていく。
最後に田波がチラッと見たリアガラス越しの断末魔の化け猫は、車内に貼った御札を、口で何とか剥そうともがいていた。
「伏せろ!!」
ノートパソコンのバックライトが、田波の顔を照らす。
「デリート!!」
車に残る燃料電池の水素のせいで、いつもより大きい爆発音と共に、飛散した金属片の幾つかが、十分な距離をとれずにキーを叩いた田波を、襲った。だが、そのどれもが幸運にも小さかったため、大事には至らない。
また、周りを建物に囲まれていないせいか、爆発音は長くは響かず、『SEQUENCE COMPLETE』の表示のあとにノートパソコンから排出されたフロッピーが、草の上に落ちる音も、田波の耳に十分聞こえた。
「ふぅ、終わった〜」
田波は、大きくため息をついて、仰向けになると、指の間に挟んだフロッピーを、顔の前で振った。
フロッピーの向こうには、落ちてくるヘリが、チラチラと見える。
「あっ」
六、七回顔の前でフロッピーを振った田波は、フロッピーに隠れなくなったヘリを見て、あることにやっと気がつく。
「うわぁぁぁ〜〜〜」
だが、それは遅すぎた。
「ドッガッギャ」
ヘリが、プロペラを下にして、地面と激突し、折れたプロペラが、田波を襲った。
咄嗟に、ノートパソコンを、楯にして直撃は免れたものの、液晶が顔面にめり込み、田波はノックアウトされた。
「田波君、大丈夫かなぁ〜」
腹に結んだケーブルせいで、お辞儀した格好になっている菊島が、生気の抜けた目で、その様子を見ながら、つぶやいた。
「ねぇ、社長。頼むから、力学勉強して」
ヘリの中、機材に埋もれた蘭東が、そう懇願する。
「真下の池に、落ちないのね」
「そうよ」
テールローターが、カラカラと回っていた。
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