モーニング・ムーブス

その二


 「姫萩さ〜ん、起きてくださ〜い。運転手の出番で〜す」
 と、田波は地下車庫のドアを開けながら少し大きな声で言った。
 こんな夜中に姫萩が起きるわけがないのは重々承知しているが、いないよりかは居てくれた方がいいに決まっている。田波は車庫の床に直接寝ている姫萩の所までいくとしゃがみこみ、姫萩の体を大きく揺らした。
 「起きて、起きて、起きてください姫萩さん。運転手の出番です」
 と、何度も、そして途中、姫萩にかけてあった毛布がずり落ちるほど大きく上半身を揺らしたが、一向に起きる気配はしない。田波はジョーン・スミス大佐でも姫萩さんを起こす作戦を立てるのは無理だろうとあきらめ、ずり落ちた毛布をもとの姫萩の体にかけるべく毛布に手を伸ばした時、別の細く小さい手が伸びて毛布をつかんで、田波に渡した。
 いきなり目の前に手が現れたことに少し驚いた田波であったが、その手がつい先日から自分の監視役になった化け猫の少女の姿をしている時のものだとわかると、しゃがみこんだまま顔を上に向け、笑顔で毛布を受け取った。
 「ありがとう。ところで、もしかして、俺が出社してからずっとここにいたのか?」
 少女は憂いの目をして、うつむきかげんのまま頷いた。
 それを見た田波は、自分が意地の悪い質問をしたことに気づき、少しすまなそうな顔をして、
 「そうか」
 と、受け取った毛布を姫萩にかけながら言った。
 そして額に手を置き少し下を向く。
 律儀な監視役である。
 そう思いながら田波は出動の準備を始めた。
 まずは必須のアイテム、ノートパソコンの動作確認からおこなう。スイッチを入れ、封印プログラムが正常に作動することを一台づつ確認する作業だ。単純な作業だが、これだけが化け猫に対抗する唯一の手段であるから、もしものことは許されない。そのため、チェックシートを用いて、一つづつ項目をチェックしていくわけだが、車庫内が暗がりのため、チェックシートがどこにあるかが、わからない。そこで、車庫の明かりをつけるために、ドアの横にある電灯のスイッチにむかった。
 その途中、少女の服装を見て、
 「しかし、お前の…」
 と、言いかけたところで田波は目だけを少し斜め上に向け、そしてまた少女の方に目の向きをもどし、
 「いや、あ、服装が上から下まで黒だから、いるなんてこと暗い車庫に入ってきてすぐにはわからなかった」
 と、続けた。どうやら、少女に向かって「お前」と呼ぶことに少し違和感があったようだ。
 その後、田波は電灯のスイッチを入れ、チェックシートを手にし、
 「さぁ〜て、始めるとするか」
 と、眠気ざましに気合をいれて、のびをしながら大きな声で言った。が、その後すぐ猫背になった。やはり、あまり行きたくはないのだ。だが、そうは言ってはいられない。ボーナスのこともあるし、なにより今は神楽の社員だ。そうして、そう考えてそうな打算と使命感とが混ざった顔をしたままで、ノートパソコンの方に歩きだそうとした田波の背中のシャツを、引っ張るものがあった。
 田波は、それが何で、どうなっているのかは、大体わかっていた。
 少し上を向き、その後、顔を振り向けると、目を合わせるか、合わせないかのぎりぎり角度の間で顔を上下に振り、その動作に合わせて親指の腹と4本の指で持った田波のシャツを下斜め自分側に引っ張る少女の姿がそこにはあった。
 田波は目を下に向け、細く長い息を「フゥ」と肩口に吐くと、
 「じゃあ」
 と周りを見回した。
 周りにあるのは封印作戦における必需品ばかりだ。
 いくら手伝いたがっているとはいえ、仮にも化け猫であるこの少女に、同類を消去することに直接関係する装備の点検を頼むのは、あまりにも残酷すぎる気がする。
 そこで、田波は
 「じゃあ姫萩さんの耳元で、なにか大きな音を出して起こしてくれるか」
 と、頼んだ。
 少女はそれを聞いてうなずくと、腕を伸ばしたままにし、足首から下だけを使って姫萩のもとに歩き、頭の横に膝を抱えるようにしてしゃがんだ。
 それを見とどけた田波は、急いでチェックを再開する。
 ノートパソコンの液晶パネルを開き、電源が入るか、封印プログラムは正常に作動するか、コネクターは接触不良を起こしていないかや、フロッピードライブのイジェクト機構の動作、フロッピーディスクとお札のフォーマットエラーの有無が点検されていく。
 その間、少女は姫萩の耳元で手を何度もたたいていたが、その小さな手では「ピチピチ」といったぐらいの小さな音しかだせはしない。だから、姫萩の起きる気配は一向になかった。
 「そんなんじゃ、起きないぞ。なにかものを使って大きな音をだすんだ」
 田波が笑って言った。
 少女は「コクコク」とうなずき、黒板にさっきと同じ歩き方をして近づいていった。
 「そうそう、黒板を使って大きな音を・・・」
 と、言いながらもとの位置に視線を戻したそのとき、
 「ギギッ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ギッギッギ〜〜〜〜〜〜〜〜ギ」
 あの不快で、気が変になりそうな大きな音がした。
 田波は、すぐさまその音に反応した。
 正確にいうと、田波の体が反応していた。
 片頬がつり上がり、瞼は薄目にまで閉じられ、両耳は手で塞がれており、顔には苦悶の表情がうかんでいた。
 「それはやめ〜〜」
 田波のその叫び声とともに時間が止まった。多分。
 そして時間が動き出すと同時に振り返った田波の目と、その声に驚いてパチリと大きく開けている少女の目とがあった。
 ただ、少女だけは時間が止まっているようだった。その証拠に、大きな猫の手になった少女の手が、爪を黒板にたてたままになって止まっていた。
 「それは、や、め、る」
 田波が一語一語はっきり言うと、少女は目を開いたまま「コクコク」とうなずいた。
 その後、田波が出動の準備をする間中、少女は田波の背中にずっとついて歩いた。時々、手伝おうとして手をのばすことがあったが、
 「あっ、いい、いい」
 と言って、手で制して、田波は手伝わせなかった。
 そうされる度に、少女は田波のシャツをぎゅっと掴み、少し悲しげな表情で、下から、田波の顔の斜め後ろを見つめた。




 全てのチェックが終わり、田波が一号に乗り込もうと足をステップにかけた時、はずかしげに両手で、いつも田波が現場に持っていくビクトリノックスのツールナイフを、両手で田波に渡そうとする少女の姿があった。
 それを、ニコリと笑って受け取った田波は、
 「ありがとな」
 と、言って少女の頭を撫でた時、少女は、はにかんだ笑顔をした。
 その笑顔に少し安心した田波は、撫で終わるとツールナイフをポケットにしまい、急ぐように一号に乗り込んでから、
 「じゃっ、行ってくるから」
 と、一号の窓から顔を出して少女を見て、そう言ってから発進させた。
 車庫に残された少女は、一号の後ろではなく、ほんの少しだけ視線を移して田波の顔を、この時もずっとずっと見つめていた。
 やがて、一号が見えなくなると少女は猫の姿にもどり、そして車庫から消えていった。




 「田波君、おそい」
 一号が会社の入っている竜崎ビルの前に着くなり、ない背を伸ばして菊島が言ったが、田波はクライアントの情報にずっと目をやっている蘭東の方が気になって、そっちの方には、ちっとも気がつかなかった。
 まぁ、さすがに片耳を引っ張られた時には生物の生長のスピードの限界と重力の法則を無視して背が10センチ伸びたまま斜めに立って怒っている菊島に気がついたが、それでも電話の後からずっと変らない、くもったままの蘭東の表情の方が気になってしかたがなかった。心配になってしかたがなかった。無茶苦茶ものすご〜〜〜〜く、気になって、心配になって、胃が痛くってしかたなかった。もちろん心配したのは自分の身の安全の方だ。情けないけどそうなのだ。
 そんな不安因子がピンボールのボールのごとく、頭の中をあっちゃこっちゃいく度に、やはりピンボールのカウンターのごとく、カチカチと深刻さが増していく田波の顔を見た菊島が言うことは唯一つ、
 「なに栄子ちゃんの方ばかり見ているのよ」
 という妬み、そねみ、嫉妬の言葉だ。三つあげたが意味はどれも一緒なので一つの言葉で十分だ。
 それに対して田波は、
 「うん、ああっ、あっ、蘭東さん早く乗ってください」
 と、完全に無視した。
 そんな田波の態度を見たあとで、菊島のとる行動は唯一つだ。
 「ポカッ、ポカッ、ポカッ、ポカッ、ポカッ、ポカッ、ポカッ、ポカッ」
 つまり殴ることだ。社長パンチだ。殴った、殴った、殴った。でも、社長だから仕事のことは忘れはしない。
 「ほら、栄子ちゃん。いくわよ」
 怒鳴りながら、蘭東に言った。
 しかし、蘭東は、それには返事をせずに、あいかわらずクライアントの資料を見たまま、一号の後部座席に乗り込んだ。蘭東が後部座席を選んだため、乗り込む間中、助手席を死守していた菊島は肩透かしをくわされてしまうことになった。で、それが気にくわなかったので、左腕で田波の首を絞めながら、あいた右腕で社長パンチを蘭東におみまいした。
 「ポカッ、ポカッ、ポカッ」
 「痛い、痛い、やめて」
 ずっと、資料に目を向けていたので面白いように社長パンチがきまる。実際見ていて微笑まし光景だから、やっぱり笑える。面白い。3発、4発、5発。きまる、きまる、きまる。でも決定打にはならない。だからね。
 一撃必殺。
 でね。
 菊島の顔がガラスに広がった。
 田波の首からも菊島の腕が離れた。
 「ふぅ」
 田波が一息いれて、さっきから気になっている事についていろいろと訊いてみた。
 「ところで、さっきから、ずっとクライアントの資料を読んでいますけど、いったい何処なんですか、化け猫がいるのは?」
 「うん、言ってなかったっけ?火樫山動物園よ」
 「火樫山動物園ですか。じゃっ、一号だしますね」




 サイドブレーキをおろし、一号を発車させた。
 まだ車がほとんど走っていない早朝の道を、速度制限を無視して一号が疾走していく。
 「で、化け猫の数は一匹なんですか?」
 バックミラーで蘭東の顔を見ながら田波は言った。
 「そうよ。たった一匹」
 しかし、「たった」というには顔の表情が重い。
 「ほんとに一匹なんですか?」
 再度訊いてみた。
 「そっ、一匹」
 資料から目を外さないで言う。
 「じゃあ、そいつ身長が5メートルもあるとか?」
 「1メートル80くらいだそうよ。クライアントによると」
 「じゃあ、ものすごい怪力とか」
 「怪力かどうかは、わからないわね。寝てるそうだから」
 「へっ?」
 蘭東の意外な言葉に拍子抜けしたが田波だが、しかし、それではさっきから続いている蘭東のくもった表情がますます疑問だ。そこで、さらにしつこく訊ねてみた。
 「寝ているって、その〜、入場口とか、事務所の屋根とか、その、厄介なとこですか?」
 「そう、かなり厄介なところね」
 その返事を聞いて、田波は少し落ち着きを取り戻した。そう、厄介なところが現場になるのは、もう慣れっこだ。いちいち驚いていたんじゃ身がもたない。それに今回は化け猫が寝ているという。うまくやれば簡単に終わる封印作戦かもしれない。ただ、やはり蘭東のくもったままの表情が気になっていた。
 「で、厄介なところって、具体的にどこです?」
 「檻の中よ」
 「檻の中、ですか」
 「そうよ」
 依然、膝に置いてあるクライアントの資料を見たまま蘭東が答え続ける。
 「じゃあ、今回の封印作戦は楽ですね。化け猫を起こさないように気をつけながら、お札を檻に貼って・・・」
 そこまで言って田波はハッと気がついた。そうだ、「動物園」の檻ってところが気になる。もしかして、
 「って、もしかして、ライオンの檻とか?」
 「コアラよ」
 おそる、おそる訊いてみたが、返ってきた答えは猛獣の類いではなく、かわいい「コアラ」だった。
 田波はそれを聞いて、ほっと胸をなでおろし、
 「ところで蘭東さん。着いたらすぐに檻に直行して、お札を貼ってデリート(消去)するだけのことで、なんでそんな顔をしてるんですか?」
 と、軽く本音を出して、訊いてみた。だが、
 「田波ァ〜」
 田波の左肩がつかまれ、蘭東の顔が田波の目に入る。
 「あんた」
 「はい」
 田波がすごむ。
 「もしかして、その作戦を実行するつもりじゃないでしょうね?」
 「えっ?」
 「「えっ?」っじゃないわよ。コアラをなんだと思ってるの」
 田波の左肩をつかんでる手に、肩甲骨が折れそうになるくらいの力が込められた。
 「いや、その、・・・」
 「ん?」
 蘭東がキッと睨む。
 「でも、だったら、コアラだけ先に別の檻に入れちゃえば・・・」
 と、そこまで言いかけた時に
 「へぇ〜、知らなかった。栄子ちゃん、そんなにコアラのこと好きだなんて。いつもだったら契約、楯に取って動物なんてお構い無しにやっちゃうのに」
 と、菊島が、「へぇ〜、そんなかわいいとこあったんだ」と言わんばかりのって、いや、実は、
 「へぇ〜、そんなかわいいとこあったんだ。ははぁん、少女趣味」
 って、おまけ付きの嫌みったらしい口調で、二人の顔の下から本当に口をはさんできた。顔もはさんできた。ついでに私情もはさんでいる。
 そんな菊島に対して蘭東は、
 「おバカね」
 と、後部座席に深く座り直しながら大人の態度をとった。
 「なによォ〜」
 対する菊島は膨れっ面をしながらのガキの態度だ。
 まぁ、そんなこんなでエキサイトし始めたが、こんなやりとりは、田波にとっても、他の神楽の社員にとっても、いつもの事だ。
 が、菊島が絡んでいる時は、何時かは田波にとばっちりが来てしまう。しかも、さっきからのやり取りを考えると、もし、とばっちりが来た場合、今日は荒れそうだ。
 そして、それを回避するには、この話題を続けるしかない。そう思った田波は、
 「ところで蘭東さんは、なんでそんなにコアラに愛着があるんです?」
 と、ベーシックな質問を、とりあえずした。
 しかし、返ってきた答えはベーシックなものではなかった。
 「ふぅ〜」
 と、息をついた蘭東は、上半身全てが前部座席の前に出るまで伸ばし、
 「はい、田波。ほら、社長も」
 と、言ってさっきまでくもった表情でずっと見ていたクライアントの資料を、
 交互に二人の目の前に突きつけた。
 「わかった?こういうことよ」
 しかし、二人ともプルプルと首を振る。
 「ああっん、もうぉ〜」
 二人の態度を見た蘭東はこらえきれず、堰を切ったかのようにしゃべりだした。
 「いい?ここをよく見て。ここよ、ここ。いい、この財務内容をよく見て。良くないでしょ。そりゃ、まぁね。この不況の世の中において、レジャー関連は、どこも業績は悪いのはあたりまえよ。しかし、これは、ちょっとね。いや、ある意味ちょっとどころじゃないかもね。なにせ入場料が、大人500円。500円よ、500円。しかも、子供にいたっては、なんとタダ。タダよ。ロハよ。業績が悪いのにもかかわらずよ。で、そんな動物園の唯一の誘蛾灯のコアラが見れなくなったら、いったい、この動物園どうなると思う?まぁ、間違いなく、閉園に追い込まれるでしょうね。で、閉園になったら、どこに請求書を出せばいいの?うちは?だから、つぶれてしまうようなことは、うちは出来ないの。つまり、それが、コアラにこだわる理由。もちろん、コアラの檻も壊しちゃダメ。だって、それじゃ、コアラが見れなくって、同じ事でしょ。ああっ、もう。なんでこんなクライアントの依頼を引き受けちゃったのかしら?社長とあんたと、あんな言い争いをして、神経が高ぶっていたのと、早朝で眠たかったのが合わさって、頭が正常に働かなかったせいね。しかし、この入場料。いったい、ナニ考えてるのかしら?ねェ、ちょっと、二人とも聞いてる?」
 二人ともちゃんと聞いていた。菊島なんか、正座までしている。
 そして二人とも、「ナニを考えているかって、子供のことに決まっている」と、思った。




 その後、田波は一号のスピードをゆっくり落とした。こんな、ほとんど車がいない早朝の道路で事故るとは思えないが、ゆっくり右足の爪先を上げた。ゆっくり上げた。ゆっくり、ゆっくりと、蘭東が、事故の相手を追いつめる姿を、頭に浮かべながら、ゆっくり、ゆっくりと。

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