モーニング・ムーブス
その四
動物園の一番奥にあるコアラ厩舎は、園内でもっとも充実した設備がある厩舎である。これが建てられた当時は、入園者数の減少を食い止めるという園関係者の期待を一身に受け、これは鳴り物入りで登場した。コアラが日本の動物園に来ることは、当時初めてであり、しかも一緒にオーストラリア・タロンガ州から来たコアラを受け入れた動物園は、他には東京の多摩動物園以外になく、地元マスコミはもとより、全国のテレビ・ラジオ・新聞もこぞってこれを取り上げ、全国的なフィーバーとなった。そのおかげで、休日ともなればコアラ厩舎には、近隣の県以外からも客が押し寄せ、長蛇の列が出来、もちろんその年は、入園者数は増加。コアラは勝手に与えられた、その責務を全うすることができた。
しかし、やはり「人寄せパンダ」が「人寄せコアラ」に変っただけのこと。翌年からは、再び伸び悩み、また少子化もあいまって、現在では、少しながらもまた、前年比減少が続いている。
だから、
「はい、こちらの準備はこれで完了」
という蘭東の言葉は、園関係者を少し落ち着かせた。
「ふぅ、これでこのガラスが割られるということはなくなったんですね」
動物園職員が期待をこめて確認した。
「ええ、万に一つも無いとは申しませんが、これでガラスに近づきにくくはなったでしょう」
「そう、ですか」
セールスレディーのような蘭東の口調に、職員は、とりあえず納得した。それはそうだろう、見学通路に向いているガラスに貼られた御札が、何故、中にいる不可解な人物を近づけなくするのか、なんてことは、一般人には理解できないことなのだから。
「コドン、コドン」
ガラスを軽くたたく音がした。
「っうん」
蘭東が厩舎の方を見ると、ガラスの向こうには、壁に御札を貼り終えた田波が、引きつった顔をして立っていた。
蘭東は軽く左右を振り向き、両壁を確認し終えると、田波とともに、うなずきあう。ただ、田波の方が、うなずくピッチが速い。
「これであとは、社長の方だけです。社長から連絡がありしだい、作戦を開始いたします」
職員の方に向き直し、蘭東は職員に現在の状況を報告した。
「あの、ホントに私の身の安全の方は…?」
「ええ、そのことでしたら、我が社の優秀な社員が…」
蘭東が、なにかを心配してそうな職員を、安心させようとしていたところに、
「ピロロロロロロロ」
携帯がかかってきた。
「あっ、失礼いたします」
職員に軽く頭を下げながら、携帯の蓋を開く。
「栄子ちゃん、今、終わったよ」
「社長、チェックはちゃんとした?」
「そりゃ、もう。ほら、田波くんが来てるわよ」
「っうん」
蘭東が走って向かってくる田波を、職員の肩越しに目にした。
「では、すみませんが、ここに残ってください」
蘭東が職員に頭を下げた。
「あっ、はい」
つられて、職員も頭を下げる。
蘭東は、再び携帯を耳にあてた。
「社長、じゃ、園関係者全員を園外に出るようにアナウンスして」
「は〜い、了解」
蘭東は耳に携帯をあてたまま、通路の窓の上に設置されているスピーカーを仰ぎ見る。
「え〜っ、園関係者の皆様、え、皆様。これから、封印作戦を開始いたします。万が一の事態に備えて、皆様、作業を一時中断して、すみやかに、あ、すみやかに、園外に避難してください。あ〜、繰り返します。繰り返し…」
いきなり、菊島の声がスピーカーから流れて、職員は少し驚く。そこに、田波が、息を切らせて到着した。
「ふうっ、緊張ぉおした」
両膝に手をつき、下を向いて、安堵した口調で言う。
そんな田波君にむかって、
「ごくろうさん。じゃ、また檻の中に入って」
と、蘭東はサラッと言った。
「ヘッェ?」
「ほら早く。無理言って残ってもらった職員の方に悪いでしょ」
「ちょっと、待ってくださいよ。俺もう、あんな神経すり減らすコト、やですからね」
田波が噛みついた。
「しょうがないでしょ。職員の代わりに、誰かコアラを捕獲、移動しなきゃならないんだから」
「だったら、今度は蘭東さんが檻の中に入ってください」
さらに、田波が噛みつく。しかし、あきらめの気持が表情にうかんでいる。
そんな、緊張状態の中、
「じゃぁ、あたしやる〜ゥ」
スピーカーから、能天気な菊島の声が流れた。これからやることの大変さなんか、これっぽっちも考えてなさそうな口調だが、田波にとっては朗報だ。
「社長ぅ、頼み…」
その声に、すがろうとした田波の言葉を、しかし、
「あんたは、監視」
蘭東が掻き消した。まぁ、それはいいのだが、なぜだか、スピーカーの方を向いている。携帯に向かなきゃ、相手に伝わらないと思うが、
「はぁ〜い。わかったぁ〜」
不思議と、ちゃんと、すねた返事が返ってきた。お約束の力は偉大だ。
そして、最後の希望が絶たれた田波は、スピーカーを仰ぎ見たまま、涙目で突っ立ってた。
「あっあ〜あ」
足にも力が入っていない。だから、
「さっさと、職員の説明聞いて、檻んなか入れ」
と、言うと同時に放った蘭東の前蹴りで、田波は浮いて飛んでった。前蹴りで、どうして浮くかは、わからないが、とにかく浮いて飛んでった。
「それじゃ、先ほどの説明にしたがって、コアラを捕獲してください」
田波が頭に付けているインカムから、職員の淡々とした口調の指示が流れた。
田波の目の前には少し眠そうなコアラがいる。手を伸ばせば、すぐに届く距離だ。
「えっと、まずは右手で、コアラの右前足を…」
肘あたりまでスッポリと覆う皮手袋をして、こわごわとしながら、ゆっくりと手を近づける。
「おっそい」
苛立った蘭東の激がとぶ。
「あのな、こっちだって、初めてのことなんだぞ」
小声で田波は言い返した。
「ゆっくり、ゆっくりで、いいです。ストレスを感じさせては、元も子もありませんから」
職員もフォローする。目はホント、真剣だ。まぁ、それも、ストレスで体重が極端に減ってしまうコアラが相手では、うなずける。
そのことを田波も聞かされているから、慎重にならざるおえない。
田波はゆっくりと両前足を掴む。そして、気をつけて、同時に両方の足を、木から離した。そうすると、コアラは、何の抵抗も出来ずに、あっけなく木から離れた。後ろ足に、木を捕らえる爪がないからだ。
そして、ゆっくりと慎重にコアラを、檻の奥に四つある個室に運んで、やっと一匹目を終えた。
「ふうっ」
個室のドアをゆっくり閉めたあと、田波は息をついた。今、閉めたドアに、もたれかかる。
「ほら、まだ7匹残ってるわよ」
また、蘭東から激がとんだ。
「ははぁ〜いぃ」
田波は木の上を見る。
いくら慎重にコアラを捕獲したとはいえ、4匹は異変に気づいて、木の上に移動していた。
こうなると、ちょっと大変になる。まず、警戒心が強いコアラは、すぐには降りてこない。また、捕まえようとして無理に追い掛け回すと、ストレスがたまって、体調の悪化の原因となってしまう。
「これ、これと」
田波は、ドアの横に立てかけてある、木の長い棒を手にした。
「えっ〜と、トム…」
「トーマスハットです」
「あっ、そうでしたね」
職員が、すかさず名前を言った。トムキャットと掛けたギャグを、飛ばすつもりは、田波には、さらさらなかったが、結局、寒ゥ〜いツッコミとなってしまった。
ところで、この「トーマスハット」は、単に長い棒の先端の片方に麻の袋が取りつけられた簡単なものであり、さて、これをどうやって使うのかと説明すると、
「そう、そのままゆっくり。コアラの頭に押し付けないように、ゆっくりと降ろしてください」
コアラの、頭の上の遮蔽物をいやがるという習性を利用して、麻の袋をコアラの頭の上からゆっくりと下げていき、コアラを木の下に降ろしていくのである。
コアラがジリジリと降りてきた。
そこを、さっきと同じように捕獲する。
そして、個室に移していく。
長い時間が、目の前にいたコアラを全て移動させるのに費やされた。
「ふひゃ〜、終わった」
とりあえず、一度、緊張から解き放たれて、田波は汗の出ていない額を拭った。
腕時計を見ると、6時30分を回っていた。
「田波、慣れてきたじゃない。次も、この調子でいって」
インカムから、田波にとっては、イヤミとしかとれない、蘭東の声がした。
「次って、あそこもか?」
「そりゃ、そうよ。化け猫がいる訓練室内のコアラを移動させなくて、どうするの」
「こら、ちょっと待て。なんにも、しないつもりか?なぁ、こら」
インカムからは、声がしない。
ガラスのむこうを見ると、知らんぷりした態度の蘭東がいた。
「ちくしょ〜、何だって俺だけが」
ぐちぐち文句を言いながら、左側にある訓練室に向かう。
ところで今、田波は苛立っているわけだが、こんな時には決まって、
「ねぇ、田波くん?」
菊島の声がする。
「なんだ?」
多分、余計なことだ。
「ねぇ、こうしてモニターで、ずっと見てると、あんまコアラって可愛くないわね」
「言いたいことは、それだけか」
「あっ、化け猫おこさないように静かにやってね、田波君」
言い終わると同時に「チブッチ」とリセットパルスがした。
憮然とした表情の田波。
やっぱり、余計なことだった。
ところで、菊島が見ていたのは、訓練室内の三匹の歳を取った雄のコアラなのだが、この三匹のコアラを可愛くないと思うのは、実は当然のことなのだ。なぜなら、あまり知られてはいないが、コアラは雄と、雌とでは、雄の方が鼻が尖っているため、あまり可愛く見えず、しかも、雄は雌に比べて、年老くにつれる変化が大きいく、雌はそれほどでもないという、さらなる違いがあるからなのだ。
ドアを開けた田波も、それを実感した。
「社長の言う通り、あまり可愛くはないな」
そして、目をコアラから床に移す。
いた。
化け猫だ。
幸運なことに、まだ寝ている。
田波はゆっくりと、足音をたてずに中に進む。
訓練室は縦横10歩もない、狭いスペースで、しかも、訓練が必要な弱ったコアラをここに移動させているため、細心の注意が必要となってくる。
加えて、化け猫もいる。
こんな胃の痛くなる作業を、冷や汗を流しながら、黙々と田波は続けた。職員も、素人の田波に任せてしまっているので、気がきじゃない様子だ。
それに比べ、呑気なのは、
「ふぁぁ〜うぁ、あと一匹」
あくびをした蘭東と、
「あっ、昨日ドラゴンズ勝ったんだ」
朝のニュースを見ている菊島だ。
こんなんを田波が見たら、綾金マルイの電動ガンを撃ちまくるだろう。
菊島にだけ。
しかし、とりあえず、田波は今の二人の状況を知らないので、作業に真剣に取り掛かっていた。まっ、知っていたとしても、真剣にならざるおえない状況にいるので、当然なのだが。
さて、二人がそんな呑気なのことをしている間に、田波は最後の一匹に取り掛かり始めた。
田波はトーマスハットを手にした。
そして、麻の袋が付いた先端を、コアラの頭の上にもっていく。
コアラは木の下の方に後ずさりをした。
それに合わせて、田波もトーマスハットを下げていく。
ゆっくり、ゆっくり、コアラは田波の胸の辺りにまで降りてきた。
コアラを凝視する、田波。
その頃に、
「さっあてと、田波君どうしてるかな」
モニターを、ふっと見た、菊島がいきなり、
「田波君、田波君、田波君、田波君」
何故か身を乗り出して、騒ぎだす。
けれど悲しいかな、回線は、先ほど菊島自身が切っていた為、田波には届かない。
さて、モニターにズームアップしてみよう。
いったい、菊島は何を見たのでしょうか?
まず、えっと、田波が、トーマスハットを下げていますね。
え〜、どのように下げているかと言えば、棒を手繰ってですね。
田波の手に麻の袋が近づいてきますね。コアラも、それにつれ下がってきましたね。
下がってくる、下がってくる。棒のもう片端も下がってくる、下がって、化け猫に当た…。
「栄子ちゃん、栄子ちゃん」
菊島は焦りまくっていた。
「うんぅ、社長ぅ〜。ふぅふぁ、最後の一匹運び終えるトコ〜ォ。あと化け猫、運び…」
蘭東は、眠気でだるかった。
「そうじゃなくて、栄子ちゃん。寝てたのが、起きたのよ」
「寝てないし、ずっと起きてるわよ、あたしは」
「あんたじゃなくって、…」
「とにかく、社長。今、最後の一匹、個室に移動させ終えたとこだから、これから…」
厩舎の方を見た蘭東の額に、大粒の汗が流れる。
菊島がインカムのマイクを左手で握りしめ、右手で園内スピーカーとの回線を繋ぐスイッチを入れる。
「田波ぁ〜、うし…」
「…、うしろぉぅ〜!!」
二つの声が、個室の扉を閉め終えた、田波の防衛本能を刺激した。
「うっわぁっ」
急激に身を沈めた為に、しりもちを、
「ジャズッサッ」
つく。
インカムが外れた頭の上を、
「スゥンブ」
化け猫の爪が横切った。
「ジャザァ」
田波は、床に腹ばいになる。
そして、個室の扉を、
「バグワァン」
蹴り、
「ジャズザァ〜」
床を滑って、化け猫の右足元を通り過ぎた。
途中、滑りながら身を反転させる。
化け猫は寝起きで反応が遅い。隙がある。
田波は両手を床に突っ張り、上体を起こす。
右足膝を上体に近づけ、立とうとする。
が、恐怖の為、すぐに足に力が入らない。
上体がよろける。
「ドゥン」
ガラスにもたれかかって、やっと立つ。
「田波ぁ〜、あッチ、アッち」
蘭東が、出入り口のある医療室を指差す。カタカナと、ひらがなが混じるくらい焦っている。
「とわゎゎうぁ〜」
ガラスに背中をへばりつける。
化け猫が田波の方を振り向き、突進してくる。
「キュリ〜」
田波はガラスに背中をこすりつけながら、左に移動する。
「ブゥ」
化け猫は右爪を振り上げた。目は田波を捕らえている。
獲物は、田波は移動する。
狙いを修正する。
躰を獲物に向ける。頭が後からついてくる。
目には、恐怖に顔が引きつる、顔が引きつる田波が映っている。
爪を振り、
「ウグヮァァア〜」
下ろす、その瞬間、田波の右脇から、ガラスに貼ってある御札があらわれた。
目に、それが、映る。
爪が、止まる。
頭を右に回転させる。目の中を、いくつもの御札が通り過ぎる。
動きが、瞬間、と、ま、る。
「ズッザズ」
すり足で、右足を後ろにずらす。距離をとる。
左足をすり足で引き寄せる。
ずらす。引き寄せる。
ずらす。引き寄せる。
出来損ないのムーンウォークのように。
ウォーク、ウォーク、ウォーク。出来損ないのムーンウォーク。
そして、医療室の出入口に行き着くまで、化け猫の独り舞台は続いた。
その間、蘭東と、田波と、職員は、ポカンと目を見開いたまま、動きが止まっていた。
「ギュリヒ〜、バァダン」
化け猫が扉を閉める。
それと同時に、時が動き、
「田波、追いかけて。社長、追跡開始」
だす。
「あっ、はい」
「栄子ちゃん、了解」
菊島の目にするモニター画面が四分割した。
左上に、コアラ厩舎裏、職員通路西出入口の扉を開けようとしている、化け猫が映っている。
「栄子ちゃん、左に行って」
菊島から、指示がとぶ。
右上には、通路に置いてあったノートパソコンを手にし、追いかける田波が、左下には、見学通路を見学順路とは逆方向に走る蘭東が映る。
化け猫が扉を開ける。
左上の画面が厩舎の外に切り替わる。
同時に、田波、蘭東を捉えている画面も切り替わる。
左上の画面に、階段を急いで下りる化け猫が映る。
左下の画面から、蘭東が消え、右上の画面に、田波と合流する姿が映る。
二人とも息が荒い。
「ハァ、ハ、蘭東さん、こっちは…」
「そうね、そう、こっちは何の用意もしてないわね」
「ど、どうします」
蘭東は携帯を、取り出す。
「社長ォ、目標は」
「今、植物園に入ろうとしてるわ。あっ、入った。今、入った」
「わかったわ、引き続き追跡、お願い」
「了解。あっ、栄子ちゃん。猫になったわ。猫に」
「えっ、猫に」
田波は、蘭東と目を合わす。
「そうなると、…」
「そうね、肉眼での発見は困難になるわね。なにか、作戦考えないと」
そう言うと、蘭東は、より真剣な表情になった。
「ところで、蘭東さん」
田波は前を向いたまま、訊いた。
「何?」
「当初の作戦だと、コアラを個室に移した後、化け猫をヘビの檻に移動させるんでしたよね」
「そうよ。何か」
「あの、今、考えたんですけど、別に寝てるんから、化け猫だけを移動させたらよかったんじゃ」
「そうね」
「そうですよね。って、なんか理由あったんじゃ、なかったんですか」
「しょうがないじゃない、眠たかったんだか…」
「蘭東さん!」
田波は、眠気も覚める大声を出して、
「なぁ〜に」
「俺一人だけで、あんな役目もう、ヤですからね」
念を押した。
押しまくった。
押しまくった。
聞き入れるてくれるかは、別にして。
ところで、その頃、菊島は、
「タイガース、また負けたか。えっと、これでドラゴンズの順位は…」
そんな二人をよそに、テレビを見ていた。
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