モーニング・ムーブス

その伍


 「社長、どうしても見つからない?」
 温室のガラスが反射する朝日を、右手のひさしで遮り、携帯を左肩と頭で挟みながら、蘭東が社長に電話をしている。
 「だめね、栄子ちゃん。あたしが見てた間も全然だし、さっきまた作業してた間は、園の人にかわってもらってたんだけど、やっぱそんなのは、全く目にしなかったって」
 「そう、やっぱり。じゃ、田波くんもコアラ厩舎に置き忘れたクロスボウを、取って帰ってきたことだし、始めましょう」
 携帯を肩と頭で挟んだまま、蘭東は右顎を上げた。7時半を指している植物園の壁に設置された時計が目に入る。
 「三十分、かかっちゃったわね」
 そういいながら、蘭東は背筋を反って更に上を見た。



 植物園内には何台もの監視カメラが、ゆっくりと回りながら、菊島による監視を続けていた。回ることで全方位くまなく監視しているカメラだが、やはり死角は存在する。ただ、この問題ばっかりは、植物園である以上、どうしょうもない。何故なら、その死角を生み出している原因は…。
 原因は、原因の、…。
 人の顔数個分の大きさがある、熱帯植物の葉の隙間から、ガラス球が光った。
 消えた。
 数刻後、別の葉の隙間から、ガラス玉の光がこぼれていた。
 また消える。
 しかし、また、葉の隙間から、ガラス玉の鈍い光がこぼれる。
 いたるところで、ガラス玉の点滅が起こる。
 いたるところの、監視カメラ、歩道、そして、ガイドプレートが、ガラス玉に映される。
 ガラス玉の持ち主は、ゆっくりと、葉の裏から裏へ、留まることなく、決して、姿を見せることなく、やがて、目的の位置に到達すると、顎を土に付ける、完全な腹這いになった。
 ガラス玉には、垂れ下がる葉と、地面との、ホンの僅かな隙間の向こうからのぞく二つの扉が映っていた。
 もし、神楽の連中が入ってくるなら、この見学者用の入り口と出口の二つか、少し首を横に回したところに一つ見える、関係者用出入り口のいずれかしかない。
 ガラス玉の持ち主は、化け猫は、ジッと待つことにした。
 ジッと、動かず、待つことにした。
 ジッと、動かず、待つことにした。
 ジッと、動かず、待っていた。
 ジッと、動かず、待っていた。
 待っても、待っても誰もこなかった。
 やがて、…。
 待ちくたびれた。
 おかしいと、思った。
 不安になった。
 不安になって、ぐるっとその場を、腹這いのまま回った。
 何も、かわったことは、なかった。
 三十分以上たっても、なにも、かわりはしなかった。
 唯一、かわったのは、周りの明るさだけだった。
 もしかすると、神楽は見失ったのか、と思った。
 不安が安心に、少しづつ取って代わっていった。
 そして、前足の部分が取って代わられた。
 まず、右前足を、腹這いのまま少しだけ前に出した。
 次に、左前足に、ゆっくり力がこめられていく。
 湾曲していた背骨が、まっすぐになり、やがて逆向きに、かるく湾曲し始めた。
 腹這いの姿勢から、御座りの姿勢なりつつある。
 あとは、右前足と、左前足が揃えば、完全な御座りだ。
 化け猫は、神楽を小ばかにするかのように、首を、ニュ〜と伸ばしながら、顔を振り、右前足を上げた。
 しかし、右前足は、左前足に揃えずに、顔の方にもってこられた。小さな額に手が届く。つまり俗に言う、猫が顔を洗う仕草だ。加えて、ちょうど、そこに、おあつらえむきに、顔に水がかかった。いや、ホントに顔を洗っている様に見えるな〜。って、…。
 えっ?
 「フニャ〜ニャニャ〜」
 予期せぬ事態に、化け猫は大きな鳴き声を上げ、ひっくり返った。



 植物園の屋根には、通気用の扉がいくつもある。
 そのうちの一つに、顔だけを突っ込んでいる人物がいた。
 田波だ。真剣な面持ちで聞き耳を立てている。なので、もちろん、さっきの鳴き声を聞き逃すはずもない。
 「中央、西側だ」
 そう、携帯に向って言うと、小箱を脇に抱えて屋根を駆け出した。



 いきなり顔に水が掻けられて、驚いて仰向けになった化け猫の目に、天から植物が生えている光景が映っていた。
 よく見ると、植物園内の全ての水撒き用のスプリンクラーから、いっせいに水が放水されている。
 化け猫は、これが通常の水撒きではなく、神楽の仕業だと直感で悟り、すぐに口をつぐんだ。
 幸い、周囲の植物を大きく揺らしてはいないので、場所の完全な特定は無理に違いない。気をつければ、植物の陰に隠れ、うまく抜け出すことも可能だろう。そう思った化け猫は、落ち着き払って、仰向けになったを姿勢を元に戻した。
 ゆっくりと、音を立てないよう、気をつけて、一歩目を踏み出す。
 が、しかし、
 「ガザサ」
 思いもかけない大きな音が立ってしまい、化け猫自身が驚いた。
 「ガッザサザザ」
 いや、違う。自分とは違う別の生き物が、動いて出た音だ。しかも、こちらに近づいてきている。
 神楽か?しかし、人影はない。
 「ザッッ」
 止まった。気配が近い。こちらをうかがっている気がする。多分、目の前のソテツの根本の向こうにいるに違いない。
 右前足を半歩後ろに下げて、身構える。
 向こうの気配が徐々に高まる。
 来る!!来た!!!
 「ザサッザ」
 しかし、姿が見えない。
 「ズザザサッズズザズサ」
 草の擦れる音。引きずる音。いや、這う音だ!!!!
 「シャッツッッヒャ」
 ヘビ、青大将だ!!!!!
 「ウッッニュニャ〜〜〜〜」
 鎌首をもたげた姿を見て、一目散に、化け猫は逃げ出した。
 しかし、
 「ザッザッガザッザッザッ」
 周りに次々とヘビが落ちてきた。そう、田波が落としているのだ。
 「ウガッァァァァ〜」
 たまらず、化け猫は人の姿になり、その場から逃げ出す。
 通気用扉にいる田波は、それを見て、クロスボウに矢をセットした。
 「蘭東さん、目標を発見!!」
 携帯に向って叫んだあと、、すぐさま、クロスボウの引き金を引いた。プーリーが勢い良く回る。
 「プズッン」
 矢が化け猫の背中右脇腹に当たり、身体を貫通する拳大の穴が空いた。
 「ウガッ」
 化け猫は悲鳴をあげる。が、それで倒れたりはしない。なおも、化け猫は逃げ続ける。向かうは、植物園北側にある見学者用出口だ。
 だが、その方向は、神楽にとっては都合が良かった。
 「社長、目標の正確な現在地は」
 化け猫が向かう方向とは逆の、植物園南側にある見学者用入り口に立つ蘭東が、化け猫の悲鳴がした方向に、走り出した。
 「栄子ちゃん、目標は現在、熱帯植物鑑賞コースに沿って進んでいるわ」
 「了解。追跡開始するわ」
 そう言って、内ポケットからアイアンナックルを取り出し、人差し指で一回転させてから、装着した。
 「そのまま、竹林の遊歩道を進んでいけば、化け猫に追いつけるわよ」
 目の前のモニターを見ながら、菊島が指示を出した。
 モニターには、鑑賞コースに沿って逃げる化け猫が映っている。
 モニターに映る化け猫の表情は、焦っていながらも、どこかしら落ち着いてはいた。
 「しかし、なんでコースに沿って逃げるのかしら?」
 菊島はひとりつぶやいた。
 そう、ここに出口から入ってきているのだから、位置は把握しているはずだ。なら、何故、最短距離をとって、突っ切っていかないのか?別に化け猫にとって、植物を気にする必要はないのだ。
 「まっ、そっちの方がいいんだけど」
 両手を頭の後ろに回し、椅子にもたれた。
 モニターには、曲がり角に向かう化け猫、竹林の遊歩道を疾走する蘭東、そして、一足先に出口脇に待ち構える田波が映っていた。
 「栄子ちゃ〜ん、あと10秒ほどで目標と接触するわ」
 それを聞いて、蘭東は竹林に身を隠した。
 今、蘭東は竹林の遊歩道の出口付近にいる。ここからは、植物園出口が近い。
 「思ったより、誘導は楽だったわね」
 ちらっと、植物園出口を見た。そう、封印するのに適当な場所が無い植物園から出して、先ほど用意した、ヘビ、爬虫類厩舎をちょっと利用させてもらった封印場所に、化け猫を誘導するつもりなのだ
 「8、7、…」
 蘭東と菊島のカウントダウンが始まった。
 蘭東は息を潜め、菊島は、ジッと、モニターを、見つめている。
 目には、ガイドプレートがずらっと並ぶ柵が映る。
 その柵の横を、化け猫が通り過ぎようとしていた。
 モニターが切り替わる。
 「えっ!」
 菊島は、目を見開いた。



 「2、1、0」
 蘭東は、竹林から勢いよく飛び出した。
 しかし、目の前には、いるはずの化け猫の姿が無い。
 鑑賞コースの方も見てみるが、姿は見えず、また、こちらに来る気配すら無い。
 「社長、これどういうこと」
 携帯を手にし、蘭東は菊島を激しく問いただした。
 「わかんないわよ、こちっだって。モニターが切り替わった瞬間、もう消えてたんだから」
 「猫の姿になったんじゃないの」
 「そんなことないわよ。もし、そうだとしても、ちょっとは目にするハ、ズ…」
 菊島の声が震えている。
 「ねっ、どうしたの社長」
 「栄子ちゃん、後ろ〜〜!!」
 蘭東は振り向かず、そのまま腰を落とした。
 頭の上30センチの所で、爪が通り過ぎる。
 これで、蘭東は化け猫の懐に入ったことになる。
 腰を落としていた蘭東は、足のバネを使い、背中から化け猫の腹をめがけて体当たりを、
 「ボドッ」
 した。
 一般人と変らない体型をしている化け猫は、この一撃で体が、くの字に曲がり、軽く後方に吹っ飛んだ。
 「ミッペギ」
 背中に当たったガイドプレートが壊れる。
 「ていりゃぁぁぁぁぁぁぁ」
 蘭東はさらに追い討ちをかけようとする。
 右足爪先が地面を蹴り、右太ももがあがる。
 右膝が弧を描く。
 狙うは、化け猫の左側頭部。
 そこを右足の甲が捉えた。
 瞬間、左足を返す。
 「ドッズ」
 化け猫の右側頭部が激しく肩とぶつかる。
 体が伸び、地面の上を、
 「ズサササッサ」
 横回転した。
 だが、2回転目で右手をつくと、回転の勢いを利用して立ち上がり、出口に向けて脱兎、いや脱猫のごとく逃げ出した。
 それを見て、蘭東はへたりこんだ。
 「ふうっ、これで一応は計画通りね」
 一息ついて、携帯を取り出す。
 「田波、そっちに行ったわよ。しっかり、誘導してね」
 「了解。って、コラ、そっちに行くな」
 どうやら、携帯の向うの田波君は、えらいことになっているようだが、とりあえず、任務は今のところ、うまくいっているみたいだ。
 それを確認した蘭東は、携帯とアイアンナックルを内ポケットにしまうと、立ち上がって、膝に付いた土を払った。
 「じゃ、こちらは先回りしておきましょうか」
 そう言って、一歩を踏み出した時、ガイドプレートの残骸を踏みつけていることに気づいた。
 「別にこんな高いモノを設置する必要はないのに」
 蘭東は素直に感想をつぶやいた。



 「シャトゥン〜」
 クロスボウの矢が、化け猫の体を貫く。
 「シャトゥン〜」
 この二発で、普通の生き物なら、即死だろうが、化け猫相手ではそうはいかない。
 しかし、嫌がらすことぐらいはできる。
 今、田波は檻の中の動物に矢が刺さらないように気をつけながら、計画した誘導経路から、はずれようとする化け猫に矢を放っていた。
 と、書くと簡単そうに思えるが、実際は左側は、ずっと林が続いているので、もし入られでもしたら、すぐに見失ってしまうことになり、また右側は右側で、檻が矢の邪魔をしてしまうため、曲がられでもしたら、遠くからは狙いにくくなってしまう。そうかといって、近づきすぎると、反撃を受けてしまうので、一定の距離は保たなくてはならない。そして、動物は傷付けてはいけない(さっき落したヘビは、「人気がないので構わない」、と、蘭東さんが言っていた。ちなみに、あとのヘビの捕獲ことに関する言葉は聞かれなかった。)ので、流れ矢の危険をなくすために、必然的に足下だけを狙うことが要求された。
 「コラ、林に近づくな」
 「あっ、ポニーが照準に入っている」
 神経使うなぁ〜、田波君。大変だねぇ〜。
 「社長、応援はやく!!」
 「ちょっと、待って」
 大変だねぇ〜。
 「今、バードホールを右に曲がったんだよ。このままだと、右メインストーリーに抜けられてしまうぞ」
 「えっ、それホント?」
 大変だ、大変だ。
 「右メインストリートにいるなら、わかるはずだ…」
 田波は周囲を見て、ハッと気づいた。
 携帯に気を取られているホンの少しの間に、化け猫の姿を見失ったのだ。
 「いっ、いない」
 田波の頭の中は、真っ白になった。
 そこに、
 「右メインストリートには、化け猫は、どっこにもいないわよ」
 と、奇妙な菊島の返事が返ってきた。
 「そんなことは、ないはずだぞ。少ししか、目を離してなかったんだからな」
 「でも、実際いないわよ」
 携帯からだけでなく、耳にも直接、菊島の声が聞こえてきた。
 田波は、バードホールの横で立ち止まって、菊島を待った。
 「しかし、そっちに行ったとしか考えられないんだぞ」
 携帯を耳からはずし、こちらに向かってくる菊島に言った。
 「けど、一瞬でも見失ったんでしょ…、」
 菊島も、携帯を耳からはずして言う。
 「…、こっちじゃないって考えられない」
 「いや、しかしな」
 痛いところを、田波は突かれた。
 突いた菊島は、キッとした表情になっている。
 「とりあえず、目標を捜しましょ。栄子ちゃんに、協力してもらうよう言って」
 「わかった」
 ちょっと菊島に押され気味な田波は、素直にダイヤルし始めた。
 「あっ、蘭東さん。スイマセン。目標、誘導し損ねました」
 「ナニ言ってるの田波。早くこっちに来てよ」
 「えっ、化け猫がそっち…」
 「そっちにいるの?」
 菊島は、田波が片手で持っている携帯を、両手で無理矢理、自分の方に向けた。
 「『いるの?』って、誘導してくれたんでしょ。うわぁっ」
 「蘭東さん!」
 「てりゃっ」
 携帯の送話口に、空気がぶつかってでる雑音が、一瞬、聞こえた
 「フギャニャ〜」
 化け猫が悲鳴をあげる。
 「っ大丈夫、栄子ちゃん」
 「よし、デリー、えっ…」
 「どうしたんですか、蘭東さん」
 「いないのよ」
 「ねぇ、いないって、化け猫が」
 「そうよ。わざわざ、自分から、お札貼った檻に近づいて来たから、檻に押し込んだのよ。でも、振り返ったら、檻の中にいなかったの」
 その言葉を聞いて、菊島が慌てる。
 「栄子ちゃん、このままだと、とても無理よ。いまからでも、真紀や、高見ちゃんに応援たのみましょ」
 田波が手に持っている携帯を、口に向けてもらうのが、菊島はもどかしくなり、両手で携帯を、グッと引っ張って、叫んだ。
 「わかったわ、社長。この際、爆弾や拳銃をつかわれるのもしかた…」
 いきなり、ここで、蘭東の言葉が途切れた。
 「うわぁ」
 「ふぁっ」
 携帯が、化け猫の爪で破壊されたからだ。
 目の前をいきなり爪が横切って、田波、菊島の二人とも腰が抜ける。
 「なっ、なんで、いつの間に!!」
 驚いた表情で、化け猫を見つめたまま、菊島は固まってしまった。
 もちろん、化け猫の攻撃は、容赦なく菊島に向けられる。
 「ウガァ」
 化け猫の左肘が肩の高さより、上にあがった。
 「どいてろォ」
 声に気づき、化け猫は後ろを向く。
 そこには、倒れたまま、クロスボウを構える田波の姿があった。
 「トウシュン」
 至近距離で放たれた矢は、化け猫の顔を貫通する。
 化け猫の顎が上がり、そして、
 「ウッ」
 顔を押さえたまま、一番近いアシカの檻に向かって走り出した。
 田波は、クロスボウを杖代わりにして立つと、足元を狙って続けざまに矢を放つ。
 だが、その内、2本が外れてしまう。理由は、化け猫が避けた、いや、逃げる方向をいきなり変えたからだ。
 「ちょこまかして」
 菊島も、ようやく立ち、クロスボウを構え、矢を放った。
 が、足元しか狙えないことを忘れていた。
 「しまった」
 矢は化け猫の腹部を貫いた後、右メインストリート側のペンギンの檻に向かって飛んでいく。
 一呼吸後で、矢を放った田波も、それを見て、
 「あっ」
 と、叫んだ、
 だが、幸いなことに、ガイドプレートにあたり、動物を傷つけることはなかったが、田波が放った矢は、またも化け猫に避けられてしまった。
 そう、2度、同じことが起きた。
 そして、そのことに、田波は違和感を感じていた。
 田波は、アシカ、ペンギンの檻、そして、バードホールを良く見た。
 そして、あることに気づいた。



 「コラ、馬鹿社員。なんで、追っかけないの」
 うつむいて、思案していた田波の顔を、菊島は突かんばかりの勢いで、覗き込むように怒鳴った。
 「逃げられたんだろ」
 「そうよ」
 「消えるように」
 「そうよ」
 「跡形も無く」
 「そうよ」
 「檻に近づいた途端」
 「そうよ。って、見てたなら手伝え〜」
 菊島は田波の両耳を引っ張ったが、
 「イッテテテ、わかったんだよ、あの化け猫がどうやって移動してたかが」
 これを聞いた途端、
 「えっ、それホント?」
 態度は一変、
 「ああ、ホントだとも。つまり、…」
 そして、耳打ちされた内容に満足しながら、
 「さっすが、我が社の優秀な社員」
 コアラのように、首に抱きついた。はっきり言って、迷惑なのだが、
 「はやくいけ」
 って、田波が、はがすことを、幾度となく繰り返しても、止めないところをみると、多分、止めさせるのは、無理だろう。
 田波も、菊島が一号に向かうのを見ながら、そう思っていた。



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