2−2
白亜の城と知られる王都アークスの王城。その騎士達の駐屯する七つの騎士団控え室の内の一つ。
悪趣味と思われる程に高価な品で飾り立てた第二騎士団長室。そこにやはりおよそ騎士とは思えないほど着飾った一人の男が机に足を組んでいた。
眼鏡を掛け、戦いとは無縁と思える体格のニールラントの青年。それこそウルバーン第三王子であった。
そしてもう一人,やはりニールラントの青年だが、やや小柄な騎士がその隣に控えていた。
不意に扉がノックされる。
「入れ」 やや高めの声で控えている青年が言った。それに答えて一人の騎士が入る。騎士は敬礼をすると書類をウルバーンに手渡した。
騎士の肩に付いている紋章は長剣をあしらったものである。それはハーグス=イスナの率いる第四騎士団に所属していることを示していた。
なおアークスの央国騎士団は第一から順に、赤いレイピア,キマイラ,二本の斧,長剣,銀色の槍,黒い羽,桐の葉と紋章が与えられている。
「分かった。ハーグスには満足だと伝えておいてくれ」 ウルバーンは書面を読み終えると、笑みを讃えて騎士を送り出した。
「どうだ、セレス。私の策は実現しつつある。あと少しだ」 二人に戻った部屋で、ウルバーンが笑いを堪えながら言った。
「私が王となった暁には、お前を…」
「まだ貴方の計画が成功したわけではありませぬ」 言葉を遮って、騎士セレスは忠言する。
「…そうだな。では私は動くとしよう。書類の件は頼むぞ」
「はっ」 そしてウルバーンは部屋を出る。
セレスは席に就いた。そして手を延ばして紙を取る。その紙は書類ではなく、白紙のものである。
セレスはペンを取り、そこに何かを書き始めた―――
白亜の城のほぼ最上階に近い位置。そこからはアークスの街が一望できる。
眼下に広がる街並みは、ここからではまるで箱庭のようだ。
テラスに立ち、シシリアは赤く長い髪を風に泳がせていた。沈む夕日に眩しさの為ではなく、彼女の両眼は閉じられている。
幼い頃の熱病による後遺症,そう言われていた。
不意に彼女は部屋の方へ振り返る。
「どうしました? サルーン」
彼女がゆっくりと振り返ると、彼女の影に隠れるかのように黒装束の男が膝を付いていた。
腰まである長い黒髪をなびかせ、また彼の両目はそれぞれ金と銀色という不思議な光を放っている。
彼は無言のまま、手にした手紙を彼女に手渡す。シシリアは何か小声で呟き、手紙の表紙に手を当てた。
「…そうですか。あの娘には辛い思いをさせてしまいました」 手紙を魔法で一読し、彼女は再び城下を見る。
「辛い思いとは?」 サルーンが尋ねる。
しかしそれにシシリアは答えない。唯、悲しげに空を仰ぐ。
「しかし彼女は言っていた。私は上司に仕えているのではなく、王に仕えているのだと」
「そう…でも私は辛いわ。何より兄弟で殺し合いをするなんて、ね」
彼女の言葉にサルーンは無言のまま、供に暮れ行く空を見つめていた。
<Rune>
暗雲立ち込める空の下、とある川に掛けられた橋の真ん中でそいつは待っていた。
「ここを渡りたくば、我といざ尋常に勝負!」
背中の大籠に数十本の武器を抱え、完全鎧に身を包む騎士が長剣と正方盾を構えて行く手を塞ぐ。
「私、空飛んでくね」 関わらないのが一番と判断したアスカは背の翼を広げて飛び立った。
「僕は自力で渡れって言うのかい?」
―――橋に変な騎士がいる,そう聞いたのは今朝出た宿場街でのことである。
何でも戦士や騎士,傭兵がその橋を通るものなら何処からともなく変な騎士が現れ、行く手を塞ぎ、勝負を挑んでくるのだという。
悪いことにそいつは滅法強く、今まで勝てたものはいないのだそうだ。そして勝負に負けた者は武器を取られるとのことだ。
その時は旅人の冗談かと思ったが、本当にそんな暇人がいるとは。
空に舞うアスカを見上げ、僕は川を泳いで行くことにした。泳ぐと言っても、深さは腰程度しかない。寒い冬にこんなことはやりたくないが、仕方あるまい。
「勝負しろと言ってるだろうが!」 騎士が叫び、丁度上空に差しかかろうとしていたアスカに向かって届きもしない長剣を天にかざす。
その時である。
剣から一条の閃光が放たれたかと思うと、それはアスカの右の羽を焼き焦がした。
「あっちちち!」 慌てて彼女は川に飛び込む。
「くぅぅ!! 冷たい〜〜〜!」 はたまた慌てて僕の下に戻ってきた。今は冬である。川の水は氷のように冷たいはずだ。
「よ、よくもやってくれたわね!」 アスカは腰の剣を抜き放ち、寒さで震えながら橋の騎士に切り掛かって行った。
アスカの鋭い太刀筋を、騎士は難なく盾で受け止める。続け様にアスカは剣を打ち込むが、その全てが盾と厚い鎧によって防がれていた。
「強いな」 僕は呟く。
僕やアスカは身の軽さを活かして素早い攻撃を繰り出す軽戦士である。対する橋の上の騎士は、装備の面で頑丈なものを用い、素早さはないがその分を頑丈さでカバーした重戦士だ。
その軽戦士が重戦士を倒すには、鎧のつなぎ目などを確実に狙って行かねばならない。
しかしアスカの太刀筋は騎士に見切られているようだ。彼女の攻撃は最小限の動きで騎士に防がれていた。
アスカは並みの剣士よりも腕が立ち、戦士としての資質もある。戦いの駆け引きは僕以上の実力の持ち主だ。その彼女の攻撃が効かないとは…
「この勝負、もらった!」 騎士の言葉と供に長剣が振りかざされ、いとも簡単にアスカの剣を叩き折った。
「クッ」 手が痺れたのだろう、柄を落として彼女は身を引く。
「風の魔法、受けてみなさい!」 精霊を呼び出そうとする彼女の肩に、僕は手を置いて下がらせる。
「ルーン?」
「風邪ひくよ。僕が何とかするから」
「ほう、手合わせ願おうか」 騎士はアスカの捨てた剣の柄を拾い、背の籠に入れ、僕に目を向けた。
僕は歩み寄り、剣を抜く。その剣からいきなり思念が飛ぶ。
”気を付けなさい、ルーン。あれは聖剣よ”
「どうした,若き剣士よ。心配するな、いきなり雷を使ったりせぬ」 頭全てを覆い隠す兜のせいか、くぐもった声が聞こえる。
「そう,それはありがたいな。行くぞ!」 僕はアスカとほぼ同じ太刀筋で切り掛かる。
毎日のようにアスカを相手に練習しているのだが、つい最近ようやく三回に一回勝てるようになったくらいだ。太刀筋が同じなのは彼女を真似たからであろう。
しかし僕にはこの騎士に勝てる自信があった。『ここ』だからこそ、勝てる見込みが。
「何だ? 先程の娘と同じ太刀筋ではないか。そんなものでは私には勝てん!」 言って騎士は剣を大きく振りかざす。
その時、騎士には余裕があったに違いない。剣技はアスカと同じだし、それ以前にスピードが彼女より遥かに劣っている。しかしその余裕に生まれる僅かな隙が僕の狙ったものだった。
「もらった!」 僕は騎士が盾で庇う胸に向かって、思いきりぶつかった。これにはやはり予想していなかったらしく、騎士は大きくよろける。
しかしそれはダメージにはつながらない。騎士と戦っている場所が橋の上だからこそ、効果的なものなのだ。
「そんなものがどうしたというのだ」 騎士がよろけてたたらを踏んだ先には、もう足場はない。
「! しまっ」
完全鎧を着た騎士は激しい水飛沫をあげて川に沈んで行った。そして幾つかの気泡を生む。
「よし」 僕は川底を見る。騎士は上がってこない。いや、上がってこれないのだ。
「どうしたの、あの騎士は?」 アスカは北風に身を震わせて、不思議そうに僕の隣で浅い川の底に沈む騎士を眺める。
「起き上がれないんだよ、鎧が重くて」 川の底でもがく騎士を見つめながら、僕は気の毒そうに答えた。
「…で、どうする? もう動かなくなっちゃったよ」
「寝覚めが悪くなりそうだから、助けようか?」
「でも川の水、すごく冷たいよ」
そうこうしている間に、騎士は川底で完全に動かなくなっていた。
ようやく引き上げられた騎士は動かなかった。
「よし、アスカ! 人工呼吸だ!」
「何で私が何処の馬の骨か分からない奴に唇をあげなきゃなんないのよ!」 顔を赤くして抗議するアスカ。まぁ、当然の反応だろうなぁ。しかし……
「何を勘違いしてるね。人工呼吸っていうのはこうして背中を踏めばいい、えい!」 僕は騎士の背中を踏む。フルフェイスの兜から多少だが水が漏れた。
「そんなんで息を吹き返すかなぁ?」 アスカの疑問通り、あまり効果はなかったようである。
「取り合えず兜を取ろうか」 言いながら僕は騎士の兜を取った。
「へ?」
「あれ?」
兜の下は僕達の予想していたムサイおじさんではなく、二十代後半の金色の髪が美しい女性だった。その容姿からおそらく、レナおばさんと同じ南の民族ディアル,ザイル帝国の人だろう。
「え〜っと、人工呼吸は口移しだったな」
「だめ!」 アスカに飛び蹴りを食らう。何故だ?
「ゴホッ、ううっ」 そうこうしている内に騎士は勝手に息を吹き返したようだ。生命力の強い人である。
「だ、大丈夫?」
「ぬう、鎧の重さというものを忘れておったわ」 アスカの言葉を無視し、傍らに置いておいた剣に手を掛ける女騎士。
「今の勝負は納得いかん! もう一度だ,次は本気で行かせてもらうぞ!」 問答無用で言い放ち、手にした長剣から雷が僕を襲う!
「!」 その早さについて行けない僕を見兼ねてか、イリナーゼが勝手に動き雷を受け止め、地面へと流す。
「こら、それが命の恩人に対してすることか!」
「恩などすぐに忘れるのが私の取り柄だ!」 さっさと上空に逃れたアスカに取り柄でもないことを言い放ち、再び雷を放った。
「げ!」 先程の倍の大きさのある雷の閃光を、僕はすんでのところでかわした。
閃光はそのまま突き進み、小高い丘をその爆風で消し去る!
「何だ?! あの威力は!」
”逃げた方がいいんじゃない?” できればそうしたいイリナーゼの言葉を実行に移す。
「アスカ! 逃げるぞ!」 上空でそれを承認したアスカは、逃げる僕の背後に向かって、風の魔法・真空の刃を飛ばす。
パキ,そんな音が聞こえたかと思うと、雷が僕の頭の上を通りすぎる。
「風が割られた?」 アスカの叫びが聞こえる。そして今度はこれまでとは比べものにならないくらいの殺気が背後で生まれた。
”ルーン、伏せて!” イリナーゼの思念より早く、僕は右に飛んだ!
ゴゥ
土砂と水を吹き上げ、騎士の放った雷は川を、その橋もろとも消し飛ばした。そして遅れてやって来た爆風が僕をやすやすと吹き飛ばす!
何処かに叩き付けられる,そう思ったのも束の間、アスカの放った風のクッションが僕に怪我を負わせる事なく地面へと下ろしてくれた。
土砂が収まった先には不敵な笑いを浮かべた騎士が立っている。
「見たか、我が至上最強の聖剣・エクスカリバーの力を!」
「エクスカリバーだと?」 武器が嫌いな人でも、エクスカリバーは知っている。聖剣エクスカリバーは、地の神アースディが百と十日を掛けて鍛え上げ、四大精霊の王に祝福されたとされる伝説の剣だ。
当然のことながら伝説に過ぎず、その存在は定かではなかった。伝説というのは常に夢物語であると言うのが僕の持論である。
”ふん、エクスカリバーですって?” 小馬鹿にしたようにイリナーゼが呟いた。剣に写る彼女の表情は、何故か怒りの形相を示している。
”エクスカリバーが貴様の様な力のない者に扱える訳がなかろうに”
「何をっ!」 騎士が怒る。何故だか分からないが、イリナーゼの思念が届いたようだ。
「貴様の持っているその剣,いや刀か。そいつは魔剣だな?」
「そうだけど…」 迫力に押されてつい答える僕。
「私の刀狩りの七十一本目に相応しい,望み通り折ってやろう!」 言い放ち、その長剣に力を込める。何本目でも良いのでは? ツッコミを入れたくなったがそんな暇はない。
「誰が望んだよ」 騎士の持つ長剣に青白い光が溜まっていく。慌てて隠れ場所を捜す僕をイリナーゼが止めた。
”どこに逃げるの、どこに! 今回は私の力を貸してあげる。けちょんけちょんにのしてやりなさい!”
「死語だよ、けちょんけちょんなんて…アンタ」
”いいから、意識を私に集中!” 叱咤と同時に手に痛みを感じる。見ると何故か右手から小さく血の球が生まれていた。
”血を少し借りるわよ” 同時に僕の手の剣が変化した。刀身の鏡のような金属の光沢が消え、生々しい肉のような物質に変化する。そして柄から触手のようなものが生え、僕の両腕に同化した。
「げ、何だ,これは!」
”集中なさい,来るわよ!”
「食らえ、白裂聖光!」 白い光の帯が真っ直ぐに僕に延びる。光の速さを伴ったそれは、本来僕には見えないはずの速度だった。
「弾けぇ!」 イリナーゼと同化した為か、はっきりと光を確認した僕はそれをイリナーゼで弾き返す。
「ハッ!」 確かな手ごたえと供に、白い光は騎士の剣に逆流する!
「え?」 音もなく騎士の持つ聖剣は粉々に砕け散り、余ったエネルギーは騎士を安々とその場から弾き飛ばす。
どがん! 派手な音を立てて、騎士は爆風と供に何処かへ飛ばされて行った。
「勝った…?」
「ルーン,怪我はない?」 アスカが心配そうに傍らに降り立つ。
「ああ、平気みたい」
「でも両手が…」 そう言っている間に魔剣イリナーゼは次第に元の刀に戻っていった。手には右手に小さな掠り傷があるだけだった。
”ばれちゃったね、予定外だわ”イリナーゼの呟きが聞こえる。
「心配しないで,お嬢さん。私はルーンに何もしてないから」 金属光沢の戻った刀身にイリナーゼが写り、アスカに言った。
「誰? あなたは…」 茫然とする相棒。
「私は剣魔イリナーゼ。お初にお目にかかるわね。よろしく,アスカさん」
「よ、よろしく…」 釈然としない様子でアスカは僕とイリナーゼを交互に見ながら取り合えず会釈する。その様子から後で問いただされるに違いない,何とも答えようがないぞ、これは。
「さぁ、またあの騎士が戻ってくる前に先を急ごう」
「待って、騎士の落としていった籠があるわ」 アスカは騎士が橋の側に置いていた、武器の入った籠に走り寄る。
「私、剣折られちゃったし。ここから貰っていくね」 言って中身を吟味し始めた。えてして女が物を選ぶときはどんな物でも長びく。それはクレアで実証済みだ。
「僕が選んであげるよ」 口の中で魔力感知の呪文を唱えながら、籠の中を漁る。上位呪語魔法の魔力感知は、何等かの魔力が掛けられているものに反応し、青いオーラを放つのだ。
数ある武器の中から壊れた物,普通の武器を除くと七点ほどが何等かの魔力が掛けられていた。魔力の掛けられている武器は普通のものより、少なくとも二割以上で売買される。
「ま、この七つ全部持って行こう。この中から選ぶといい」
「じゃ、この剣にしよう。後でどんな魔法が掛かってるか鑑定してね」
アスカの選んだ物は今までと同じ様な細身の剣だった。見たところ切れ味の倍増する魔法と重量軽減のそれが掛けられているようだが、オーラの見えない彼女にはそれが分からない。
「さて、出発!」
「お〜」 やたら元気なアスカの背中を追い掛けて僕は一人、冷たい川を腰まで浸かって渡らなくてはならなかった。橋を壊した辻切り騎士に殺意すら抱く。
もっともどのみち、冬の水で濡れた僕達は後ほど風邪をこじらせることとなる。
「温泉街だな。今夜は暖まって眠れそうだ」 小さな活火山の麓にあるこの小さな宿場町は温泉もウリにしているようだ。しかし道を行き交う人はほとんどいない。
一件しかない宿屋にチェックインし、僕は即、宿に用意されている温泉へ直行する。
並ぶようにアスカもまた、タオルを持って僕に続く。
「あの変な騎士のせいで風邪引きそうだよ」 男・女とのれんの掛けられた温泉の入口で立ち止まり、僕は腰の剣をアスカに渡した。
「?」
「私も冷えちゃったから」 イリナーゼが言う。温泉に浸からせろとうるさいのだ。
「…う、うん、じゃ、後で食堂でね」
「ああ」 言って、僕達はそれぞれ中に入る。
更衣室の外は石造りの露天風呂になっていた。ありがちな竹の柵で男湯と女湯を仕切ってある。風が吹いていないせいか、湯煙で真っ白だ。
荷物からして先客が二人ほどいるらしい。
衣服を脱ぎ、タオルを持って中に入る。白くて見えないが先客は湯船に浸かっているようだ。
僕は桶でお湯をすくい、体に掛ける。
「ふぅ、生き返る〜〜」
<Aska>
「え〜っと」 イリナーゼを見て困る。
「? どうしたの?」
「え、いえ,どうやってお湯に入るの?」
「湯船に放り込んでくれれば良いわよ」
「そう?」 私は衣服を脱ぎ、鞘から抜いたイリナーゼを持って入る。
この町は来訪者が少ないらしく、この風呂にも私一人しかいない。
桶にお湯を入れ、イリナーゼを抱えたまま体に掛ける。
「ふぅ、あったかい」
「生き返るわねぇ」 私はそのままイリナーゼを湯船の中に立て掛けた。
「風よ、その偽りの衣を脱ぎ捨てよ」 隠された翼をゆっくりと延ばす。
「他に人は来ないわよね」 鼻唄を歌い始めた剣魔に、私は言った。
<Rune>
「人を捜しているんだ」 湯煙の先の人はそう言った。声の感じからして若そうだ。
「へぇ、見つかると良いですね」
「ええ、多分すぐ近くまで追いついてはいると思うんです」 もう一人が言う。こちらも若そうである。
「二人して捜してるってことは、偉い方なんですか?」
「いえ、私達の幼馴染みなんですよ。無茶なところがあって、捕まえておかないとすぐ何処かへ行ってしまう、そんな人なんです」
「そして本当に何処かへ行ってしまった訳ですね」
「ああ、そしていなくなって俺は自分の気持ちに気が付いた。例え戻ってこなくても俺のこの気持ちだけは、耳に入れて貰いたい」
「と、いうことは女性なんですね」
「ええ、そんなところです」 もう一人も同じ気持ちなのだろうか、照れながらそう言ったように思えた。
「それでは、貴方の旅に幸運があらん事を」
「お先に」
「がんばってください」 そう言い残し、二人は湯船から出て行った。
そういえばアスカはどういう目的で旅を選んだのだろう? やはり外の世界を見てみたいという欲求からだけだろうか? そうするとその欲求が満たされたとき、彼女は森に帰ってしまうのだろうか?
この間、母を捜すような事をほのめかしてはいたが、当初はそのことを全く考えていなかったようだし。
僕は空を見上げる。湯煙の間に見えるどんよりとした空から白い何から飛来し、僕の鼻の頭で解けた。
「考えたって分かる訳ないよな」 お湯に鼻まで浸かる。ふと、頬に何かが触れる。
「? 羽」 白い羽が一つ、水面に浮いている。アスカのものだろうか? それとも?
僕はふと浮かんだもう一つの考えを即、却下する。
「ルーン,シャンプーそっち余ってる?」 竹の柵の向こうから声が聞こえる。
「ああ、あるよ。投げるぞ」
「OK!」 弧を描いてシャンプーが竹の柵を越える。
「痛っ! 何処投げてるのよ」 …取れよ、ちゃんと。
「そうそうルーン、アスカの胸って思ったより大きぃゎょ…」 イリナーゼの声。しかしその声は最後の方は消えていた。おそらく沈められたのだろう。
「平和だな」 誰ともなく、僕は呟いていた。
畳のある座敷で、僕は大皿3枚が並ぶテーブルの前で足を延ばしていた。
「遅いな」 心なしか再び冷え始めた体に、浴衣を絞め直す。
「旅の目的かぁ」 先程の二人の旅人の言葉を思い出した。
僕の目的は果たしてそれだけの価値あるものなのだろうか? ソロンやシリアだったらきっとこう即答するだろう,価値のないものなんてあるのか、と。
もっとも引き返すつもりはないが,そう行き着いて思考は止まる。
「何やってるんだろう?」 まだ来ない。もしかして浴衣の着方を知らないとか,ありえそうだ。
「ごめんごめん」 ようやっとやってくる声に視線を写す。視界に入るその姿を彼女と確認するのに数秒を要した。
「どしたの?」
「いや、髪をあげると雰囲気変わるね」 何故か直視するのが恥ずかしい。
「フフフ、そうかな?」 アスカは僕と同じく浴衣姿に、僅かに濡れた髪を束ねて上にあげていた。いつもと比べてやや大人びいて見える。
「おじさ〜ん、ビールおねがい!」
「おやじ臭いわねぇ」 下駄を脱いで、座敷に上がりながら彼女は言った。
「じゃ、アスカは何にするんだよ」
「おじさん、私は熱燗ね!」 おやじを通り越してるぞ、お前は。
「この村ってちょっと変わってるわね。建物とか、この着るものにしても」 鳥のから揚げを取りながら、彼女は言った。
「うん、村起こしっていって、観光客を集めるために遥か東方の国の文化をを真似てるそうだ」
「それにしては観光客がいないけど?」
「ああ。あの騎士のせいかな、やっぱり」 当然、それだけのせいではない。
これはおそらく南のザイル帝国の政情の影響を受けているのだろう。最もそのことはアスカには説明する気はないが。
「ルーン、ちゃんと呑んでる?」 多少ろれつをおかしくして目前の相棒は言う。
「あ、ああ。アスカ、ほどほどにしておけよ」 未成年だろ、僕達は。
「ほどほど? 男だったらパァ〜っと行かなきゃ! パァ〜っと」
「女だろうが、あんたは…」 から揚げを取る。しかしその手は止まり、僕は敵意の視線に身構えた!
浴衣を着た二人の男,その顔には確かに見覚えがある。
「まさかこんな所にいるとは思いませんでしたよ」 金色の髪の若者が言う。その声にはやや呆れたものが入っていた。
「アスカ…見つけたぞ」 他方の黒髪の男,確かヤマト…が呟く。
そう言えば、さっき風呂で一緒になったのはこの二人のようだ,声がそっくりだし。
「アスカ,俺達の所へ戻ってこい」 ヤマトはその強い意志を黒く澄んだ瞳に込めて、アスカに言い放った。
「…やだ」 銚子をそのままラッパ飲みして彼女は答える。目付きが怖いぞ。
「アスカ,俺はお前のことを…」
「ヤマト!」 ヤヨイの制止,しかし彼の言葉は止まらない。
「…お前のことが好きなんだ!」
「…っくしょい,は? スキヤキがどうしたってぇ?」
沈黙が店内を包む。硬直したヤマトと額を押さえるヤヨイ,どうリアクションしたら良いか分からない僕と、同情の涙を流す店のおやじさん。
「え、えと,何処かで噂でもされたのか?」 おずおずと僕はアスカに問う。
「うんにゃ,湯冷めよ。で、スキヤキがどしたの?」 ああっ、蒸し返しやがった。
「何故、村を出るのです? 旅の目的は何ですか?」 硬直したままのヤマトを置いておいて、少し濡れた金色の髪を掻き上げながらヤマトはアスカに問うた。
「私が風の精霊の影響を大きく受けているのは知っているでしょう?」
「守護精霊のことですか?」 ヤヨイは言う。
守護精霊はどんな生き物でも持っている性質、つまり相性の良い精霊のことだ。精霊使いにとってはそれが大きな特性となり、自らを常に守護する精霊を守護精霊と言うというらしい。
「風は多くを見、聞き、そして実践することを基調としているわ,そうでしょ」
「それが理由とでも言うのですか? 私が聞きたいのは理論ではなく君の気持ちです」 ヤヨイの方が上手ではあるようだ。しかし何故隠す必要があるのだろう? アスカは困った表情で僕に伏せ目がちに視線を移した。
「理由…理由なんて…外の世界を見たいの,ルーンと。それだけよ」 口早に言って銚子のままで一気に飲み干す。
僕と? それとも誰でも良いのだろうか?
しかしそれを聞くことはできなかった。彼女はいきなりテーブルに突っ伏したかと思うと小さな寝息を立ててしまっている。
「そんな理由では外に出すことはできませんね,人間の男よ、宝石は差し上げよう,しかし彼女という宝石は返してもらう。ヤマト!」
「お、おぅ!」 我に返るヤマト,まずい。武器も何も持っていない,あるのはテーブルの上にある料理用ナイフとフォークのみ。
対する相手はすでに旅の服装。ヤマトは腰に剣を,ヤヨイは槍を持っている。
「クッ」 僕はアスカを背にするように立ち上がる。この危機的状況をどう逃げるか!
バタン,宿屋兼飲み屋の両扉が不意に開く。
しかしヤマトとヤヨイの注意は反れない,さすがというか何と言うか…。
「アスカを返してもらおう」 ヤマトが剣に手をかけ、座敷に上がる。僕はそれにアスカを背にして一歩下がる。隙がない…。
「!」 不意にヤマトの動きが止まる! その目には生気が宿っていなかった。
視線をずらすとヤヨイもまた同様に目が虚ろになっている。
そのまま二人は何事もなかったかのように僕達に背を向け、店を出て行った。
「な、何だ? 一体」 彼らが出て行った扉から視線を移すと、僕達と同世代くらいの少女が杖を手にこちらを見ていた。
「君が助けてくれたのか、ありがとう」 彼女の持つ魔力を第六感で感じ、僕は頭を下げる。
彼女はそんな僕に戸惑ったような表情をしていたがそれも数瞬。小さく微笑みながら僕の前までやってきた。
「あの二人は大丈夫ですか?」 僕の問いに彼女はしげしげと僕の顔を見る。
黒い長い髪を後ろで一つに束ね、黒い瞳は僕の瞳を見つめている。その瞳を見ると何故か自分と向かい合っているような気がした。
「大丈夫ですよ、意識のコントロールをかけただけですから、二日くらいで解けると思いますわ」 二日もかかってるのか? どういう魔法だ?
「でも優しいんですね、敵を思いやるなんて」 座敷に腰かけ、彼女は言う。
「思いやるなんて…そんな気は」 僕は視線を逸らせる。しかし彼女のその言い方は、よくソロンやシリアに言われるからかわれ方とは違った。咎める気持ちは含まれていないように聞こえる。
「そちらの方は…寝ているわね,ぐっすり」
「ええ、やっぱり酒のせい,かな?」 何の夢を見ているのか、少し微笑みながら眠るアスカ,気楽だ。
「そうなんですよ、酒癖が悪いんです」 言い切る彼女。
「? 何でそんなことを?」
「あ、いえ、そう思っただけ。多分明日まで起きないから、寝かし付けたほうが良いですよ」 言う彼女。アスカを見つめる彼女の視線はやはり何か懐かしいものを見るような感じだ。
「そうだね。寝かしつけたらお礼をしたいんだが」 それに彼女はゆっくりを首を横に振る。
「いえ、お礼の代わりに一つ、質問に答えては頂けませんか?」 僕はアスカを担ぎながら頷いた。質問って?
「もしも貴方が結婚して、そして娘が生まれたとしたら、その娘に何を望みますか?」 表情は微かに微笑むような感じで変わらない。しかし何か意を決したものを感じた。
しかし何でこんなことを聞くのだろうか?
「どうしてそんなことを?」
「知的好奇心です」 微笑む彼女。アンケートのようなものを作っているのだろうか? 僕は不思議に思いつつも質問に正直に答えることにした。
「望むことか,そうだなぁ……思った通りに生きて欲しいな,ってこんなんじゃ駄目かな?」
「それが世間一般で言う『悪いこと』でも?」
「世間は関係ないよ。自分がそれで良いと思っていればね」 僕もそうでありたい,それは自分に対しても言っている言葉だった。
「そう、ありがとうございました」 何か嬉しそうに彼女は言う。
「そう言えば自己紹介してなかったね,僕はルーン=アルナ−ト,この寝ているのがアスカ=ルシアーヌって言うんだ」 アスカを担ぎ、立ち上がって僕は言った。
「私はルーフ…ルーフ=サイデリアよ」 表情は変わらないが、偽名だと気付く。嘘はそんなにうまくないように思えた。
「今日はありがとう、サイデリアさん。おやすみ」
「ええ、さようなら,ルーンさん」 そして僕達は部屋へと戻って行った。
翌朝、僕達二人は宿場街を発った。サイデリアと名乗る少女の姿はすでになく、彼女の別れ際の言葉の通りに会うことはなくなってしまった。
しかし僕の予感に彼女と話すのはあれが最後でないと感じていた,予感でしかないが。
ちなみにアスカは昨夜の一件を全く覚えていなかったことを付け加えておく。
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