2−6


<Rune>
 ウルバーン謀反の一件から翌日、東では熊公国が反旗を翻し、西の海では他大陸との最大貿易港である鷹公国ミエールの街が海賊の為に封鎖された。また南のザイル帝国が不可侵条約を破り侵攻――などなど、まるで謀ったように世界が動き出した。
 ミカエルの記憶が思い出される,全ては無から生まれる再生の為と。頭からあの幻影のような記憶を信じている訳ではないが、頭の片隅に置いておいても損はない。
 が、そんなこと以上に、利権に関わる人間の欲望が見え隠れしていることは確かだ。
 そんな偉そうなことを考えてみても、僕にはどうする手段も持たない。取り合えず、今まで通り旅を続けるまでだ。その為には生活の手段を稼がなくてはならない。
 僕は宿屋一階にある飯屋の掲示板を見ていた。この掲示板には僕達のような流れの旅人,冒険者を募集している仕事などがあるのだ。
 「何かあった?」 テーブルに戻ると、人間世界にすっかり馴染んだ(?)相棒が朝食を前に待っていた。
 「ああ、下水に逃げこんだ霊術士を捕まえるってのが」 このアークスは下水が完備されている。その下水だが、まるで迷路のように入り組んでいるのだ。
 「どういうこと?」 カップに入ったコーヒーを啜りながら、アスカは尋ねる。
 「魔導師ギルドという魔法使い同士、連絡や道具,知識を教える,まぁそういった組織みたいのがあるんだけど、その一人に霊について研究してる学者がいたんだ」 
 「ほうほう…」 トーストにジャムを塗りながら聞くアスカ。
 「その学者が狂って,前からおかしかったみたいなんだが、とうとうキレて、下水に自分の作った化け物と一緒に閉じ籠もったそうだ」 そこまで言って僕もトーストをひと齧りする。
 「別に害はないんでしょう?」 
 「今のところは。でも、いつその怪物達を使って市民を襲うか分からない。そこでその霊術士をふんじばってくるっていう仕事がある」 
 「でも、下水よねぇ。匂いが付きそうだなぁ…」 明らかに嫌がるアスカ。
 「報酬がかなりの額でね。それじゃ、僕一人でやるよ。アスカは待ってて」 
 「そういう訳にもいかないでしょう? 分かったわよ、私もやる」 文句を言いながらも付いてくる気丈な少女を何気なく眺めていたら突然、後ろに柔らかな感触を伴なって何者かに抱きしめられた。
 「お兄さん、暇ならアタイと遊ばない?」 きつい香水の香りを纏った二十代後半の美女が耳に囁き掛ける。緋色の長い髪が僕の頬にかかった。
 露出の高く、薄い服を通して胸のふくよかさが背中に伝わる。
 「い、いや、遠慮しておきます」 
 「そう言わないでさぁ〜」 美女は嫌いでないが、突然抱きついてくるというのは好きじゃない。僕は彼女を引き剥がそうをもがくが、何度もくっついてくる。
 「こら、貴方。ルーンが嫌がってるでしょ,離れなさい!」 見兼ねたアスカの一喝に美女は始めて彼女の存在に気付いたような素振りを見せる。
 「あら、妬いてるの?」 挑戦的な視線をアスカに向けた。しかしそれを彼女は正面から見据える。
 「妬いてなんかいないわよ,ルーンの財布を返して。それがないとは私としても困るのよ」 アスカの言葉に僕は懐をまさぐる。
 「あ、ない!」 
 「チッ」 舌打ちして彼女は逃走を計ろうとするが僕の右手は彼女の二の腕をしっかりと掴んでいた。僕はそれを捻りあげ、反対の手に握られた財布を取り戻す。
 「ちょっと,放してよ!」 注文通り手を放す。他の客の見守る中、彼女は露出の高い紫の服から白い肢体を除かせながら酒場を逃げ去って行った。
 席に戻る僕をアスカの鋭い言葉が刺さる。
 「調子に乗って鼻を延ばしているから気がつかないのよ」 
 「いつ鼻を延ばした、気が付かなかったのは仕方無いじゃないか」 
 「少しはのぼせたと思って、あいつを役人に突きださなかったんでしょ?」 冷たい視線を僕に突き刺して、アスカは淡々と僕の行動を分析した。
 「うっ…ごめん」 付き合いはそんなに長くないのに、ことごとく僕の思考は読まれている。もしやシシリア姫から貰った指輪の効力か…とそれはないか。
 確かに僕が自分で盗まれたことに気が付いたら役人に突き出しただろう。
 無言で朝食の続きを取る僕を、アスカは何故か微笑んで眺めていた。



 「出入り口くらい、あちこちに作っておけば良いのにな,ったく」 
 「自分の失敗を棚に上げないでくれる?」 アスカの冷たい言葉。
 とうとうと流れる下水を前に、僕達は小休止していた。
 下水道の高さは2m弱、剣は振り回せないのでイリナーゼは宿に留守番,僕は手斧を、アスカは魔法のバックアップに回ることになり魔力を増加させる『理力の杖』と呼ばれる物をそれぞれ購入した。
 松明の火が照らす下水道は臭いこそあるが余り汚くはなかった。中央に溝があり、そこに下水が流れている為、それを挟む両サイドを歩けば濡れることはない。
 疲労に満ちた僕達の顔を松明が照らす。これからどうしようか。
 事の起こりは、半日ほど遡る―――



 「…という訳で、何としても霊術士ナクラスを捕らえて欲しい。頼んだぞ」
 魔導師ギルドの依頼主が、集まった十名前後の冒険者達を前に言って、下水の地図を配る。
 藁半紙に刷られたそれは、小さくまた非常に入り組んでいて分かりにくい。
 僕達冒険者はギルドの案内人の下、下水へと潜って行った。
 そして下水道の中で冒険者は地はそれぞれ散って行く。
 およそ一時間後―――
 「ルーン,松明じゃ、ちょっと暗いね」 背後からのアスカの声に僕は足を止める。
 「なぁ、アスカ」 言って向き直り、彼女の両肩を掴む。
 「な、何? こんな所で?!?」 何故か顔を赤らめアスカはどもる。
 「僕を信じてたかい?」 
 「は? 当然でしょう?」 恐くてこの先が言えないが言うしかない。僕は甘く見ていたのだ。ここで怖いのは霊術師の放った化け物などではない。
 「ごめん、道に迷った」 
 「え」
 次の瞬間にはアスカの悲鳴が下水道に木霊した。



 トン、と不意に背中に暖かさを覚える。
 背中から抱きついたアスカは右腕で僕の首を軽く絞めながら言った。
 「ほらほら、いつまでもクヨクヨしてるのは良くないわ。取り合えず歩いてみましょうよ。下水の流れる方向へ行けばどうにかなるわ」 アスカの優しい言葉に僕は頷き、彼女を背負ったまま腰を上げた。
 しばらく歩くとT字路に差し掛かる。
 「どっちに行く?」 
 「ん? ちょっと待て」 僕は耳を澄ます。どこからか分からないが何か音が聞こえる。
 「何か近づいてくるみたいね」 アスカの呟き。僕達は腰の手斧を抜いた。
 右の通路から足音らしきものが聞こえてくる。光の届かない闇の中で何かが蠢いていた。僕は手にした松明を投げ付ける。
 光に照らされたのは三体の動く死体,ゾンビだ。おそらくこれが霊術師の連れている化け物なのだろう。
 ゾンビは元は人間などの死体である。それに呪語魔法か神聖魔法の術者が術を掛けることによって動く死体となる。そこには生前の記憶はなく、自我すらない。
 自我のある者は異なる生まれ方をする。外見は同じでも基本的には全く異なるリビングデットが挙げられる。
 さてゾンビであるが、言うまでもなく防腐処理などされていない。僕達が出会ったゾンビはかなり年期が入っているらしく、全身腐っていた。描写はすまい。
 「あっ…」 妙に女らしい呻き声を挙げてアスカがいきなり倒れる。
 魔法か? 警戒するがゾンビ以外の気配は感じられなかった。
 すばやく僕は呪語魔法,魔法の剣の呪文を詠唱する。
 ゾンビを始めとする不死の怪物には魔力の宿った武器しか効かないのだ。ゾンビ達は僕達目掛けて腐った足を引き摺りながらゆっくりと近づいてきた。
 「英知の光よ、魔力の刃よ,その力、この斧に纏わん!」  魔法の完成と同時に僕の手斧が白い輝きを放つ。ゾンビの振り下ろした毒の爪をその小剣で受け止め、横になぐ。
 たいした抵抗も受けず両断したゾンビを足蹴し、残る二体も軽く倒した。
 三体のゾンビは潰れた喉に空気を吐き出しながら、切り口から砂と化して行く。完全に砂と化し、辺りから敵意が消えたのを確認してから、僕はアスカを抱き起した。
 脈はある。息もしている。ただ気を失っているだけらしい。
 「おい,アスカ」 頬を軽く叩く。
 「う…あ、おはよう、ルーン」 
 「おはようじゃないよ。一体どうしたんだ?」 水袋の水を少し口に含ませ、意識をはっきりとさせる。
 「何って…ルーン!」 そのまま、きつく抱きつくアスカ。
 「おい,アスカ、一体どうしたって…」
 本当に震えているアスカに、急に今までなかった愛しさを感じ僕は強く抱きしめた。場所が場所だけど……
 「大丈夫だよ。もういないから」 
 「ごめん。私、ゾンビとかああいうの、ダメなの」 アスカは顔を胸に埋めながら呟く。意外な弱点ではある。
 「何で最初に言わなかったんだ? 霊術師の化け物って言ったらああいうのに決まってるだろ?」
 「霊術師って何やる人か知らないもの」 愚問だった。
 再び、今度は左から足音が聞こえてくる。
 「アスカは今度は向こう向いてて」 アスカを退かせ僕は手斧を構える。
 しかし今度の足音は光を伴っていた。
 光と伴に二つの人影が見える。相手もこちらを警戒しているらしく、始めはにらみ合いの状態が続いたが結局、姿を表した。
 「君は…」 
 「アンタは!」 二人の内、一人の女性が声をあげる。その顔には僕も見覚えがあった。
 黒いぴったりとした革の鎧に身を包んだ緋色の髪の女性、今朝のスリだ。彼女を守るように、スキンヘッドの大男が槍を構えている。
 「朝方の坊やじゃないか。こんなところで何してるんだい、ってこれは愚問だね」 
 「君こそ説明会には来ていなかったじゃないか」 剣を収め、僕は言う。
 「あたいは別口さ。この下水を荒らされる訳にはいかないんでね」 
 「…盗賊ギルドか」 
 「ビンゴ! 頭良いねぇ」 よくあることだ。下水を通り道にすれば、姿を現す事なくアークスのどこにでも行けるのだ。
 ということは、彼女は盗賊ギルドの関係者ということになる。
 「アタイはイリッサ=ハーティン,アークス盗賊ギルドの長だよ」 勝手に自己紹介する。まさかいきなり長だとは思わなかった。
 「僕はルーン=アルナート。連れはアスカ=ルシアーヌだ」 
 「ルーン,か。いい名だね。どうだい、ここであったのも何かの縁だ。一緒に行動しないかい? アンタらも二人じゃ心許ないだろ? 何、魔導師ギルドの方の報酬なんていらないよ。アタイらは下水から変態を追い出せばいいだけだから」 イリッサの提案は道に迷った僕達にとって、これ以上ないくらいのものだった。
 「どうする、アスカ?」 一応、相棒の意見も聞いておく。
 「ん? ルーンの自由に」 
 「よろしく、イリッサ」 
 「よろしく」 僕達二人は握手を交わした。



 ゾンビ達のやってきた方向に、僕達は見当を付けて進む。
 「どうやら、やっこさんは近いようだね」 腰のムチに手を延ばしてイリッサは呟いた。下水道は急にドーム状の明るい地点に出る。
 「魔法光…お前が霊術師ナクラスか」 
 「か、帰れ! 皆、私のことなど理解していないんだぁ!」 中年術師が叫ぶように言った。
 ゾンビやスケルトンなど、およそ20体に囲まれて。神経質そうなやつれ顔にはどう見ても完全にあっちの世界へ行ってしまっていた。
 聞くだけ愚かだったようだ。僕はアスカの両目を押さえながら思った。
 「何してるんだ? ルーン」 
 「まぁ、人には苦手なものがあるってことさ」 イリッサの呟きに僕は適当に答える。
 「行きなさい、アンデットの皆さん。あの侵入者達を仲間にしちゃいなさい!」 ナクラスの命令に応じて、20体以上のアンデット達が一斉におぼつかない足取りでこちらに近づいてきた。
 「こりゃ、厄介だな」 僕はアスカを後ろに向けて、呪語魔法を呟く。
 「大丈夫、レイバルト!」 イリッサの言葉に応じて、スキンヘッドの大男がズイと前に出る。
 「й!」 右手をゾンビ達に向かって突き出し、叫ぶと半数のゾンビ達が塵と化す。神聖魔法の強力な浄化呪文だ。
 「人は見かけで判断しちゃいけないんだな」
 このスキンヘッドの大男は力の程からいって司祭級の力を持っていると思われる。見た目は神をも信じぬ顔をしているのになぁ。
 「そゆこと」 そう言い合いながら、僕の手斧とイリッサの鞭がそれぞれ二体のゾンビを葬る。
 「むむ…クソッ、来なさい,フランケン!」 次々と塵に返っていくゾンビに自分の危機を感じたのだろう,新手を呼び寄せた。
 「何だ、あれは…」 僕は最後の一体のスケルトンを切り倒して呟く
 「レイバルト! 浄化しろ」 
 「?!」 無口なスキンヘッドの男はお手上げのポーズを取った。
 それは身長3mはあろうか、巨大な人型のゾンビだった。ただ、この下水道の高さが2m程しかない為、屈んでの登場ではあったが。
 「そうだろう、効かないだろう? これが私の最高傑作よ!」 巨大なアンデットの影に隠れて、霊術師の声が聞こえてくる。
 「ウォォ!」 巨大アンデットは、そう吠えてこちらに向かってきた。
 「ど、どうしよう…」 
 「どうすると言われても…」 狼狽えるイリッサに、僕は取り合えず手斧を構える。
 巨大なゾンビは、その太い腕を横にないだ。僕達三人はそれを難なく交わすが、その一撃は下水道の壁をいとも簡単に粉砕した。
 「近づけないな」 額に汗し、イリッサ。
 「そうでもない。動きは単調だし、鈍い」 彼女にそう答え、両脇から攻撃するとよう合図する。
 「フォォォ!」 再びゾンビは吠えた。
 「親愛なる風よ、かの怪物を存分に切り裂くが良い!」 
 刃と化した空気がゾンビの四肢を切り落とす。風の精霊魔術?
 「腐ってなけりゃ、大丈夫なのよ!」 振り返る僕に、そうアスカが笑って答えた。
 「ひぃぃ!」 足を切り落とされた巨大ゾンビはその体を霊術師に向かって傾ける。霊術師は驚愕と脅えの表情を浮かべながら、潰された。
 「あらら、間抜けな結末ね」 
 「引っ立てるのが厄介だな。レイバルトさん、今のうちにあの大きいの浄化してくれます?」 僕は巨漢にそう頼む。
 「ああ」 時間をかけてレイバルトは浄化の呪文を紡ぐ。それに応じてフランケンは次第にその姿を塵と化していった。
 「さて、後は霊術師を引っ捕らえておしまい」 イリッサは唯一人、ピクリとも動かず倒れているナクラスの元へと歩む。
 そして突然悲鳴は、僕の後ろから聞こえた。
 「アスカ!」 僕は驚いて振り返る。
 「むーん」 おそらく僕の名を呼んだのだろう、アスカは一人の男に羽交い締めにされていた。その男の右手には短剣が握られ、彼女の細い首筋に当てられている。
 白い髪に褐色の肌の青年。そして赤い瞳,忘れもしない、アスカの村を眠りに落とした魔族に相違ない。
 「貴様、何者だ!」 手斧を抜き放とうとするが、男の短剣の動きにそれを押し留めた。
 「我が名はパスウェイド,この娘は頂いて行く」 言って、その姿がアスカ共々、闇に溶けようとする。
 「待て!」 
 「ム?」 アスカがパスウェイドの腕に噛みつく。そちらに注意が飛んだ瞬間、僕は手斧を投げ付けた。そしてそのまま現在使える最も強力な魔法を口ずさむ。
 「人の心とは強い力だ。この私に痛覚を与えるのだからな」 手斧を左肩に刺したまま、しかし平然と魔族は呟く。
 「黄泉の門、開く所にそれはあり! 位相よ、我が力となれ!」 特定のものを異空間へと飛ばす魔法,しかし魔族の周囲が少し揺らめいただけで、効果がなかった!
 「少年よ、強くなれ。少なくとも我を葬れるほどに…それまでこの娘の身柄は預からせてもらう,心配するな、殺しはしまい」 何か術を掛けたのか、いつの間にか気を失っているアスカを抱いて、魔族は消え行く。
 「南の大草原にレナードと言う男がいる。その男の下で力を磨くが良い」 
 「させるか!」 肉弾戦に挑もうと駆けるが、魔族はアスカ共々その姿を闇へと消した。
 後には魔族がいた証拠すらも残らない,唯彼女がいなくなっていることが事実だった。
 「消えた?!」 僕は呆然と今まで彼女がいたはずの空間を見つめる。
 「アスカ……僕は、僕は彼女一人も守れないのか!」 僕の呻きは下水に空しく響いていた。



<Camera>
 ―――という訳」 一息付いて、イリッサはワインを一口,瓶のまま口に運ぶ。
 「それで、その後ルーンはどうしたの?」 
 「ああ、何でも南に向かうらしい。その女の子を助けるんだって」 
 「魔族…か,あの時、逃がしたのか。しっかし、どうやってアスカを見つけ出せたんだ?」 ソロンの呟きに、シリアもまた首を捻る。
 「私は行くわ。皆はどうする?」 クレオソートは立ち上がり旅の仲間に尋ねる。しかし、それに答える声はなかった。
 「私達はやらなきゃいけないことがあるの。ごめんね」 シリアが言う。
 「俺とキースもこれ以上は付いて行けねぇな。何でも東の熊公国と南のザイル帝国,西じゃ海賊が暴れてて、お役人は傭兵を高い金で雇いまくってるらしい」 
 「レイバルトのおっさんが取り次いでくれるんだって,クレアさんも修行をするんならこっちの方が良いと思うけどな」 無駄だと思いながらも、ケビンに続いてキースは言った。それにクレオソートは首を横に振る。
 「私は一人でも行くわ。イリッサさん,ありがとう。それじゃ,皆、また何処かで会いましょう」 クレオソートは言い残し、酒場を早足で去って行った。
 「忙しい娘だね。良いのかい、行かしちまって」 
 「どの道、クレアとはここで別れる予定だったんだ。それにあの娘は見かけによらず強いから、大丈夫だろう」 イリッサの言葉にソロンは軽く答えた。
 「そう,ま、今日のところはどんと飲んでくれ。羽目を外せるのは今日までなんだから」 言ってイリッサはその瞳に一瞬、苦いものを浮かべる。
 しかしその意味に気が付いたのはここにいる二人だけだった。



 「アルバート王子が帰ってきたぞ!」 衛兵の一人の声に、放浪王子を一目見ようと文官や兵士達が群がってくる。
 アルバートはそのうち一人を捕まえ、尋ねた。
 「父上は何処にいる?」 
 「陛下は今、将軍達と会議室にいらっしゃいます」 
 「サンキュ」 言って、アルバートと四人は会議室へと足を向けた。
 「王子、会議中に乗り込むおつもりですか?」 狼狽えるナセルの問いに答えず、足を進めるアルバート。
 「や、止めて下さい! いくら王子と言えど無礼にも程があります!」 
 しかしナセルの必死の食い止めも功を成さず、一行は会議室に近づいて行った。
 そして不意にアルバートの歩みが止まる。
 「お帰りなさい、アルバート殿下。陛下は今、会議中ですよ」 赤く長い髪を後ろで結った麗人が、両手に花を抱えてアルバートの前に現れた。
 その隣には黒装束の男が存在を消したかのように控えている。
 「シシリア、久しぶりだな。サルーンも相変わらず不気味だし、変わりないなぁ」 笑顔を浮かべ、アルバートは応答した。
 「そちらにおられるのは帝国のセンティナ様では?」 魔導師イルハイムの後ろで隠れるようにしていた全身鎧の騎士に、シシリアは誰可の声を挙げた。
 騎士は冑を取って素顔を露にする。風に金色の髪が揺れた。
 「何故、私だと?」 素顔も見ずに分かったことに、センティナは驚きの表情を見せた。最も目の見えない彼女に素顔も何もないのだが。
 が、それにシシリアは意味あり気な顔をするだけであった。
 「殿下、陛下にお会いしたいのは分かりますが、一応場所をわきまえて下さいね。今回の会議は非常に重要なものと聞いています。終わるまで私の部屋で、貴方の旅のお話を聞かせてもらえませんか?」 シシリアの言葉にアルバートは首を振って、その脇を通り過ぎる。
 「あら、面白いお話を詩人からお聞きしましたのに。ヤシャという魔族の物語を」 相変わらず変わらない笑顔のままのシシリアの言葉に、アルバートの足が止まる。
 「シシリア…どういうことだ?」 アルバートが振り返り、尋ねた。
 アルバートの鋭い目線をシシリアは笑顔のまま受け止める。そして先に視線を外したのはアルバートの方だった。
 「分かったよ、あんたの部屋に行くことにしよう。父上から聞き出すよりも、よっぽど早そうだ」 言って、アルバートは方向を180°変換する。
 「センティナ様、今日はこの城でおやすみ下さいな。陛下もきっとお会いしたがると思います。ナセル殿,センティナ様を客室にご案内しておあげ」 
 「ハッ」 答えて、ナセルはセンティナを導いて行った。
 「え〜と、私達は?」 行き場を失ったフレイラースは、取り合えずイルハイムの頭をこずく。それにシシリアは微笑んで言った。
 「さぁ、フレイラースさんもイルハイムさんも私の部屋へいらっしゃって。とびきりのお茶をお煎れしますわ」 



 「さぁ、紅茶でもどうぞ?」 
 「わぁ、いい香り」 
 「紅茶なんてどうでもいい! さっさとヤシャの事を教えろ!」 アルバートは叫び、テーブルを強く叩く。
 白いテーブルに乗せられた五つのカップから紅茶が溢れた。
 「アル、どうしたの? 変だよ」 フレイラースが心配そうに青年に尋ねる。
 「すまん、とにかくヤシャとは何なんだ? 母上と関係のある事なんだろう?」 顔をしかめ、アルバートは感情を努めて押さえて尋ねた。
 「どうしても、お聞きになりたいのですか?」 笑みが消えた顔で、シシリアは聞き返す。その雰囲気に一同の間に張り詰めた空気が満たされた。
 「止めておけ、アルバート。世の中には知って良いことと悪いことがある。シシリア殿がナセルとセンティナを退けたのも…」 
 「良いから教えてくれ! 大体予測はついているんだ」 イルハイムの言葉を遮って、アルバートは身を乗り出してそれに答えた。
 シシリアは溜め息を一つ就き、意を決したように言った。
 「ヤシャとは皇位魔族。魔王としての力を持つ魔性です」 
 「…よりにもよって魔王かよ」 確認するようにアルバートは呟く。それにシシリアは無言で頷いた。
 「しかし貴方の御母上は貴方の御母上以外の何者でもありませんわ」 
 「分かっているよ,痛いくらいにな…しかし何故父上は母上を后に迎えたのだろう? やはり」 
 「さぁ、色々あったのでしょうね。でも王は貴方の御母上を確かに愛していた…こればかりは本人の口から聞かないと分かりませんが。ゆっくりと話し合ってみてはいかがですか?」 シシリアは微笑みを戻して言った。
 「ねぇ、シシリアさん。どうしてアルが知らないことを知っているの?」 フレイラースがふと尋ねる。しかしそれはシシリアの微笑みによってかわされた。
 「殿下、ところで今のこの城内の状況はご存じですか?」 思い出したようにシシリア。
 「ああ、ここに来る前にあらかた聞いた。ウルバーンの奴が聖霊を操ってたんだって? 石になった奴もいるそうだが」 
 「ええ、でもウルバーン殿下が亡くなると同時に元に戻りましたが。殿下、陛下を手伝ってあげて下さい。今は力が不足しているんです」 それにアルバートは視線を逸らす。
 「……フレイラース,イルハイム、しばらく城の生活になるかもしれんが、いいな」 シシリアの言葉が終わる前に、アルバートは二人の仲間に尋ねる。
 「アルがそうしたいんなら、つき合うよ」 
 「依存はない」 
 「よっしゃ! いっちょ、王子らしいことでもやるか」 
 アルバートは言って、紅茶を一気に飲み干した。



 その日の冷え込みはいつもにも増していた。それは気候的なものだけではない。心が不安に満ち、さらに寒さを感じさせる。
 彼らは魔族の万が一の進行を食い止めるために、このシルバーン大山脈の麓に駐屯しているのだ。しかし、何故魔族の対極にいる存在,聖霊である天使の攻撃を受けなくてはならないのか?
 天使達の攻撃を受けた日から二日経っていた。
 「敵の敵は味方ではないことの良い例だな」 燃えるような赤い髪の美女はそう呟き、吹雪き始めた窓の外を眺める。
 酒場の二階にある宿屋の窓からは、すでに遺跡の側に設置してある野営用テント群の姿は雪で見えなくなっていた。
 そして戦いの跡は雪で覆われ、その痕跡が現れるのは春になるであろう。もしくは新たな戦いで現れるか…後者の方が有力ではあるが。
 「本国でもウルバーン王子が謀反を起こしたそうだ。ウルバーン王子が死んだことで収まったようだが、呼応するようにザイル帝国,海賊,それに東の熊公国まで反旗を翻した」 書類にサインをしながら、彼女の副官は言う。
 本国のこの一件で、リースを狙う手は緩められたはずだ。シャイロク自身はリースの命を狙っているのはウルバーンと踏んでいたのだ。
 実際、この本国からの情報が届いた頃、こちらでも天使と交戦していた頃だが何気なく感じていたリースへの殺気が消えているのは確かだ。
 「リハーバーからの増援部隊がくるのは今日だったな。期待はしないが来てくれればこちらの騎士達の士気もあがることだろうに」 リースは信頼する副官の隣に歩む。
 「取り合えず野営用のテントが足りて良かった、か」 
 「それだけ騎士が死んだということだから、良かったとは言えないな」 
 「すまない、お前の付き合いが深い騎士も死んだのだったな」 
 「ああ…これが戦争だ。戦いで死ぬのは騎士として本望,違うかな?」 最後の書類を書き終えて、シャイロクは愛すべき姫君に尋ねる。
 それにリースはしばし考え、答えた。
 「違うね。それは死なない奴の言う言葉だよ。何より私はシャイロクが死ぬところは見たくない」 リースはソファに腰を下ろしながら言う。
 「いつもと違って弱気だな。どうだい、湿気な気分を吹き飛ばすためにも、下の酒場で一杯つき合ってくれないか?」 
 「…その間にまた天使が来たらどうする?」 
 「さぁ、いつもの君ならなんて言うかな?」 
 「酒の一杯で誰が酔うか,かな」 
 二人は部屋を出て行く。一階の酒場からは不安を隠すように騎士達のやけに明るい声が響いていた。
 吹雪は厚いカーテンの様にこの地を白く、白く染めあげていく。



<Aska>
 気が付くとそこは闇の中だった。上も下もない、闇の世界。
 その中に一人の男が現れる。歳は分からない。中年と言えば中年にも見え、青年と言えばそうも見える。透き通るような白い肌と長い黒い髪を持った男だった。
 「アスカ,ようやく会えたな」 曇った意識が私を支配する中、彼はおそらく普段は表情のない顔に、嬉しさを表して言った。
 「誰、貴方は…私をさらった魔族の仲間?」 そう、確かパスウェイドとか言った。
 「残念ながら私は魔族ではない。私はお前の父だ」 静かに、しかしはっきりと彼は言った。私の父? やはり混濁する意識,私には親の記憶はない。
 「嘘、証拠はあるの?」 
 「ない,だがお前は私の娘だ」 そして彼は私の額に右手で触れる。
 「何をするの?」 体が動かない。しかし怖くはなかった。
 「私の知識をお前に託す。多少混乱はあろうが、これが一番早い方法だと思うのでな」 ふと、彼の手を通して何等かの知識が舞い込んでくる。
 「え……いやっ!」 そして、まるで関を切ったかのように雪崩込む記憶,知識。その中に私は呆気なく埋もれて行った。


 そこは美しい野原だった。そこには幼い私が父に抱かれている。そして隣の母は輝く三対の翼を持った少年の手を引いていた。
 優しい春の風が私達家族を包む。それは膨大な記憶から、唯一見出せたものだった。



<Rune>
 アスカ、きっと助け出してみせる。必ず僕のこの手で!
 僕は首都アークスよりさらに南に広がるフラッツ大草原の真っ只中に延びる南の街道を進んでいた。
 この草原には遊牧民が住んでいる。その遊牧民の中にレナードという剣士がいるのだという。僕はその剣士に会いに行こうと思う。
 あのパスウェイドという魔族の残した言葉,それを辿るしか道はない。
 しかし妙だ。何故アスカをさらうのか,彼女に一体何があるのか? それにあの魔族は僕に強くなれと言った。まるでアスカを連れ去ることで僕の闘争心を掻き立てるような感じだ。
 「アスカは…本当に無事かな」 
 ”無事よ、安心なさい” 心の声、イリナーゼが答えた。
 「根拠は?」 
 ”女の感って奴よ。その魔族が言うようにアスカを守りたいと思うのなら強くなりなさい。時間が掛かったとしても、それが一番の近道だから”
 「君は始めに会った時、鍵になってくれると言ったね。その時は宜しく頼むよ」 
 ”ええ” そして彼女は消える。
 何か見えないものに僕が…アスカが、そして世界そのものが動かされているような気がする。
 しかし僕が見えない決められた運命の上を通っているとしても後悔はしない。運命であろうが宿命であろうが、これが僕の選ぶ道なのだから。
 僕はアスカを愛している。始めのうちは理由のない懐かしさがあったなどと思ってはいたが、それは彼女を好きだという事を隠すための言い訳に過ぎないことを彼女をさらわれた今、知った。
 草原の乾いた冷たい風が、僕の髪を揺らす。僕は心をつなぐという指輪を強く握った。しかしそこからいつもの明るい彼女の声が聞こえてくることはなかった。



<Camera>
 闇一色の空間で、唯一の色彩が一筋あった。
 男の口からは赤い血が止めどなく流れている。男は苦しそうに何かを呟くと闇に向かって何か小さな石を投げた。
 石は闇を吸収し、一人の女となる。褐色の肌に白く長い髪,そして歪な耳の形。
 「カ、カルス様! 一体何が?」 彼女は口を押さえて屈み込む男に走り寄ろうとするが、男は手でそれを静止させた。
 「ネレイド,お前はあの娘をお前なりに守るのだ。私はしばらく眠らねばならぬ」
 闇の中にはアスカが浮いていた。穏やかに眠っている様に見える。
 「あのファレスの娘に何をしたのです?」 納得のいかない顔のネレイドに男・カルスは呟くように言った。
 「私の知りうる知識を全て与えた。今、あの娘の頭は知識によって混乱している。その混乱の中から何かを見つけ出すまで、お前は守るのだ。分かったな」 
 「はい、カルス様。…お身体の方は?」 
 「私のことは心配するな。それを私の娘に向けてくれ。頼むぞ」 言い残し、男は闇に消えて行く。
 「カルス様,そこまでして…あの娘に一体どれだけの価値が?」 苦しげに呟き、ネレイドもまた闇に消えた。
 再び闇はあるべき静寂を取り戻し、沈黙の中へと沈んで行った。



 〜 Promenade 〜



 吟遊詩人に、酒場の主人は本日五杯目の紅茶を注いだ。
 日は傾き、普段ならば野良仕事から帰ってきた村人の野次と罵声で占拠されているはずのこの酒場は今、吟遊詩人の竪琴の音だけが静かに響き渡っている。
 「さぁ、続きは明日。あなた達はお家に帰りなさい」 銀色の髪の詩人は客である三人の子供達に優しく告げた。
 「え、でも続きが気になるよ!」 眼鏡を掛けた男の子が叫ぶように抗議する。
 「それに私も疲れちゃった。聞かせてあげたいけど、途中で私の声が出なくなったりすると、困るでしょう?」 
 「…うん、じゃあまた明日ね。絶対だよ!」 少女が言って、酒場を出る。
 「でも」 名残惜しそうに眼鏡の少年。
 「お姉さんに迷惑だろ! おめえはよ!」 リーダー格の男の子が、その子の頭をこずいて引っ張って行く。
 「明日、絶対来るからね!」 リーダー格の男の子は扉の外でそう叫んだ。
 そして酒場には、いつものざわめきが戻ってきた。



 「おはよう、お姉さん!」 朝一番に酒場にやって来たのは女の子だった。すぐに遅れて二人の男の子がやってくる。
 「ねぇ、お姉さん」 眼鏡の子がおずおずと尋ねる。
 「何かしら?」 紅茶を一口、含んでから吟遊詩人は笑顔で聞き返す。
 「ずっと、ずっと昨日の夜考えていたんだけど…お姉さん,詩の中に出てきてるよね?」 
 「フフフ…私かも知れないし、あなたかも知れない。それはそれぞれ違うの。昨日あなたの聞いた私の詩も、そっちの男の子には違った話に聞こえているのよ。それが物語というものなの」 
 彼女の言葉に三人の子供は目をパチクリさせる。それを見て、吟遊詩人と店の主人は含み笑いを漏らした。
 「さぁ、昨日の続きを歌うわよ―――



   少年は目的に向かって進む,回る世界の中で
   世界は一つの物語を作り出し、多くの物語は一つの世界となる
   回る世界は何処へ行く? それは秩序か混沌か?
   運命の糸を手繰り寄せ、それと供に生きるのか? それとも………




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