3−3
この大陸には大きく分けて五つの国家がある。大陸北部の大部分を占めるリハーバー共和国,そしてその南に位置するやや狭めなアークス皇国,そしてアークスの東とその南を占める草原の帝国ザイル。
ザイルとリハーバーに隣接する他大陸からの異文化色の強い清王朝,そして最後に大陸の南部とその南に広がる幾千もの小島を領土とするササーン王国である。
その大陸の最東部にある清王朝の首都――大陸最大の港街・河京に白の魔女が訪れていた。
河京の街外れ、北に3kmばかり行ったところに小さな森がある。
河京は冬の今の時期でも、気温は20℃そこそこある。アークスとほぼ同じ緯度にあるも関わらず、温暖であるのは海から受ける季節風と暖流の影響であった。
そんな暖かな昼の最中、森の中に光り輝く柱が衝撃音を伴って突き刺さった。光の柱はしばらくした後に跡形もなく消え去り、森は元の静けさを取り戻す。
この小さな森にはいつからか、一人の学者が腰を下ろしている。名を書院といい、かつては清の皇帝お抱えの学者であったと専らの噂だ。
この学者住む森は時々こうした珍現象をもたらし街の者を驚かしたものだが、今ではもう驚く者と言ったら、たまたまそれに出くわした旅の者くらいであろう。
しかし今日の珍現象には普段見られない観客がいた。
「…他力本願な」 白衣に身を包んだ女性は去って行く久々の客に厳しい視線を投げ付けた。
腰まである黒く艶やかな髪をそのままに流し、対象的な桜色の色彩を基調としたキモノと呼ばれる清独特の服装にその細身を包んでいる。年の頃は20付近であろうか、芯のしっかりした印象を受ける。
「またそれも良かろう。ところで乙音,昼飯は何かの?」 細い目を日の光にさらに細くして、老人は女性に尋ねた。老人は齢70付近,腰は曲げずにしゃんとし、白いボサボサの髪に同色の髭を胸元まで流している。
やはり彼もまた、キモノというこの国では普段着を身につけていた。
「まだ作っていませんよ,書院様。それに…食べている暇がありますかね?」 乙音と呼ばれる女性は答えて視線を九十度変える。
視線の先に鬱蒼と広がる森の木々が、自らの意志を持って道を開いて行く。そこからやってきたのは白い法衣に杖を手にした白髪の美女であった。
「久しぶりね、書院,乙音も元気そうで何よりだわ」 白の魔女・フィース=アルナートはそう声を掛けて微笑んだ。
「フィースか、何年振りかのぅ。ルースとはうまくやってるか?」
「お蔭様で。ところでさっき、扉を開いたわね」
やや厳しい顔付きでフィースは老人――書院に詰め寄る。
「ま、まぁの。皇帝の奴が妙な予言者の言葉を信じおってな。異界から男を一人召喚した」 語尾を濁らせて、書院は呟くようにして答える。
「不用意に穴を開けるなとあれほど言ったでしょう! 乙音,貴方が付いていながらどうしてそんなことをしたの?」
「武器で脅されたのと、ここの居住権を持ち出されたので」 書院とは違い、はっきりと乙音は答えた。それにフィースは溜め息を就く。
「全く、新しい皇帝はかなり若いようね。まぁ、良いわ。それで乙音,その予言者って何?」
「現王の側近の一人です。世界の滅亡近し、危機に際して異界より異界より勇者現れ、これを退けるであろう,と進言したそうですね」
「何? そのありがちな英雄憚の始まりは??」 乙音の言葉に茫然とするフィース。
「まぁ、それで害のなさそうな少年を一人、召喚したという訳だ」 書院は胸を張って言う。全然自慢することではないのだが。
「よくその少年も皇帝の他力本願を聞き入れたわね」
「本人も余り考えていなかったようですよ。時給千円と言ったら、あっさりと引き受けてくれましたし」 と乙音。
「そぅ? とにかく! もう穴を開けないようにね」 フィースは老人にそう言い聞かせた。
「そぅ、神経質になることもないじゃろうが。穴と言ってもすぐに修復されてしまうほどの小ささじゃよ。もっともそれ以上大きな穴を作る方法など知らんがな」 ぶつぶつと書院はぼやく。その白髪の頭にフィースの蹴りが飛んだ。老人を敬う気持ちなどあったものではないらしい。
「ところで書院,ラダーはいる?」 額に青筋を立てながら、フィースは本題に入る。
「人を踏みながら物を尋ねるなんてとこ、ルースに見つかったら嫌われるぞぃ」
「見てないから良いの」 微笑みながら白の魔女は返す。
「残念だが、ラダーの奴は半年ほど前から旅に出とるよ」
「科学と魔法の融合に挑戦すると息巻いていました」 乙音が付け加えた。
フィースはやや思案し、再び今度は乙音に問いかける。
「じゃあ、乙音,貴方のお姉さんを借りていくわ」
「それは危険です! 白の魔女様も御存じでしょう?」 乙音は顔を青ざめさせて叫ぶ。それに書院もうんうんと頷く。
「初期化はしてあるのでしょう? 私はそこの狂った科学者のようなミスはしないわ。何て言ったって、実際に息子を育ててるんだから」
「勝手に育っているのと違うか?」
「私は自由放任主義なの」
「絶対危険です,止めて下さい!」
書院のツッコミにフィースが一筋の汗を流したことを、乙音は見逃さなかった。
「乙音。事は迫っているの」 突如真顔で迫られ、乙音は思わず後ずさる。
「ラダーの足取りが掴めないとすると、それに匹敵する戦力がなくちゃいけないのよ。頭の良い貴方なら分かるでしょう?」
「…私に聞かないで下さい。全ては書院様の判断なさることです」 諦めたように乙音は言い捨てた。
狂った科学者が白の魔女に決して逆らわないことは、いつものことである。それが何故なのか、彼女には知る由もなかった。
その小屋の地下室は白く滑らかな壁に囲まれた、埃一つない広い部屋だった。そして所狭しと良く分からない器具が設置されている。
そんな部屋の片隅に置かれた器具の前で、三人の男女は足を止めた。
2mはあろうかという、水の詰まった縦に長いガラス容器の中に、足下まである黒い髪を泳がせた少女が眠っていた。歳の頃は10十代後半であろうか,身動き一つせずに裸のまま額にコードのような物を挿し、浮いている。
「さて、まずは性格設定じゃ。どうする?」 書院はガラス容器の下にある装置を動かしながらフィースに尋ねた。
「そうね、ベースはJ。ちょこっとDを混ぜたところにAとUを薬味程度に」 フィースの指示の通り、書院はキーを叩く。
後ろで、乙音は頭を抱えていた。
「どうしたの?」
「好戦的で、かなりドジ。ちょっとHで信心深い…そんな性格ですか」 乙音の溜息にフィースは笑顔で頷いた。
「では起動させるぞ。こやつは乙音と違って、骨格は機械じゃ。パワーが半端じゃない分、柔軟性がないからの。気を付けるのじゃぞ」 書院の警戒の言葉と供に水槽内の水が抜け、額のコードが外れた。
「ゆにっとなんばー『G』,キドウシマシタ。ナマエヲニュウリョクシテクダサイ」 水槽内の少女はフィースに尋ねる。
「貴方の名前は…そぅ、雪音がいいわ。私が貴方のマスターになるフィースよ。よろしくね」
「イエス,ますたー」 答えた少女は水槽のガラスを掌で溶かして外に出た。そんな彼女に乙音が上着を掛ける。
「いきなり壊しましたね」
「ま、元気があって宜しい」 乙音のツッコミをフィースは笑って吹き飛ばした。
二人の影が延びる。心地好い冷たさを帯びた風が乙音の長い髪を揺らす。
「今日は珍しく二組もお客が来ましたね」
「そうさのぅ,どうでもいいが、昼飯がまだなのじゃが」
「じゃあ、昼ご飯の分,晩ご飯を増やしますね」 白衣の女性は答え、小屋に戻って行く。その後ろ姿を眺めながら老人は微笑みながら一人、呟いた。
「フィースの息子か。乙音の為にもがんばってもらいたいものじゃ」 書院の脇を風が北へと向かって吹いて行く。彼はその風に向かって幸運を祈った。
風は北へと吹いて行く。そして風はあらゆる景色をその身に焼き付ける。
風は自由と見聞,そして音楽の象徴とされ、風の神の信徒から崇められている。
だが、風とて勝手気儘に動いているのではない。ある法則,規則に乗っ取って吹いているのだ。
ここにそれすら破る風が吹き抜けていた。その風は北へ、北へと向かう。明らかに意志を持って。
「ん?」
「どうした? キース」
「いや,今、誰か通りすぎなかった?」
「は?」
「気のせいだね、何でもないよ」 戦士は言い、隊列に戻る。
ケビンとキースはギルドで斡旋してもらった『うまい話』に乗って、南へと向かっていた。
うまい話――内容は傭兵である。
今現在、アークスとザイルの南の国境で小競り合いが起こっているという。おそらく小競り合い程度で済まされるものではないであろうが、彼らはその戦闘部員として参加しているのだ。
うまい話というのは、ここで手柄を挙げれば騎士として国に雇ってもらえるという点である。
先日起きた第三王子の謀反により、彼の率いていた第二騎士団の半数以上が戦死,あるいは除名,降格された。それを補うため、騎士が新たに補充されるという訳だ。
「しかし、この人数で大丈夫か? 南の公国の戦力を宛てにしすぎだぜ」 ケビンは短い髭を撫でながら呟く。
戦力は新団長ブレイド=ステイノバが率いる第二騎士団およそ150名に傭兵300名余り、皇国魔術師隊から40人程の軍勢である。すでに展開している龍公軍2000に数日中に合流する。
対するザイル帝国の軍勢は同じく2000,数の上では勝る事にはなるのだが、質はどうかというとザイル軍には見劣りするのは否めない。
「その分、活躍の場が多いと思えばいいんじゃないかな?」
「それもそうだな」 キースの意見にケビンは笑って答えた。
「しかし、新団長とやら,色んな噂があるぜ」 ケビンはいきなり声を潜めて言った。
「何それ? 俺知らない」
「俺もはっきりしたことは知らないんだが、実はホモだとか」
「誰がホモだ!」 ケビンの後頭部に剣の鞘が激突する。
「何だ、てめえは! ガキの分際で俺の後ろ頭に鞘を投げ付けるったぁ、いってぇどういう了見だ?」 ケビンは頭を押さえながら、後ろで立っている鎧を着込んだ少年に鞘を投げ付け返した。
しかしその鞘は、空中で少年の抜き身の剣に納まり、腰に戻る。
「本人を目の前にホモだと? てめぇこそ、いってぇどういう了見だ?」
「本人? 何を言ってやが…本人?」
「てことは、あんたがブレイド=ステイノバ,その人?」 キースの問いに少年は鷹揚に頷いた。
「適当なことを言いやがって! てめえみていなガキんちょが勇者ステイノバを語るなんざ一億と四千年位早いぜ」 位というのが何とも怪しい。
「その一億と四千年ってのはどういう根拠だ?」
「聞き流せよ!」 ステイノバ――騎士のみならず傭兵や冒険者達の間でも今や亡き彼の武勇は敬う所である――の血族を名乗る少年のツッコミにケビンは口ごもる。そんなケビンと彼を囲む戦士達に少年は続けた。
「騎士と違って傭兵は人を外見で判断することがないと思っていたが、そんなことでもないらしいな」
「そんなことないぜ,俺達傭兵は自分より強い者を認める。あんたが本当に騎士団長ブレイド=ステイノバその人だってことを証明したいのなら…」 キースが不敵に微笑みながら担いでいた槍を手にする。
「お前を負かす,そういうことか?」 同じように微笑んで少年は大剣を抜き放つ。
いつやら始めは小さかった傭兵達の輪は騎士を立ち止まらせるほど大きくなり、その行軍は止まっていた。そしてその中央には二人の戦士が相対する。
「かかってきな,英雄ステイノバの息子を証明したいのなら」 キースは槍を上段に構える。それに呼応してブレイドは大剣を下段に構える。
二人の距離がジリジリと縮まり、それに伴う緊迫感に観戦する戦士達は静まり返った。
射程から言えば槍を使うキースが有利だが、懐に入ってしまえばブレイドに軍配が上がるだろう。
そして辺りの緊迫の中キースが動いた。冬の日の光に鈍く輝く穂先がブレイドに迫る。
しかしそれをブレイドは大剣の背で返し、一気に間合を縮める。
「もらった!」 ブレイドは大剣を振う事なく、そのままの体制でキースに突き立てる。その瞬間、キースは不敵に微笑んだ。
「!」 ブレイドは大剣の進行方向を変える。キィンと澄んだ音が幾つか鳴り響き、若き剣士は再び間合を広げた。
「避けるか,なかなかの腕だ」 キースは槍を二本持っていた。一つは今まで使っていた長さ2m程の変哲のない槍,そしてもう一つは連節の跡が伺える槍だった。
「飛び出す槍か,本当の得物はそっちだったのか」
「まぁね,特注品さ」 キースは言うと、その槍を持つ右手を軽く動かす。するとその連節槍はカシカシという音を立てながら、30cm程の小さな棒となった。
「しかしかわすとは思わなかったな」
「かわせなかったさ,あの四段突きは」 答えるブレイドの頬に赤い線が走る。
「まぁ、引き分け,だな。剣圧で俺の胸当てにヒビを入れるんだからな,あんたは」 セトモノ製のキースの胸当てには大きなヒビが入っていた。
「俺の名はキース,あんたの命令に従おう,団長殿」
「俺の睨んだ通り、さすがは勇者ステイノバの息子だな」 一人頷くケビンに再び剣の鞘が飛んだ。
「何をやっている,休止の命令は出していないぞ!」 馬上から騒ぎを聞きつけ、指揮官らしき騎士が怒鳴る。彼はその騒ぎの中心にいる人物を見つけ、頭を抱えた。
「団長! 貴方が軍規を乱してどうするんですか?」 中年に差しかかった騎士は悪戯をした子供を叱りつけるように言う。
「ま、まぁそう怒るなって、クレイ。持ち場に戻れば良いんだろう,戻れば」 ブレイドは騎士の顔を直視しないよう、走って列の前列に戻って行った。
「何事だ? クレイ殿」 少し遅れてやや小柄で若い騎士が同じく馬上から指揮官らしき騎士に問いかけた。
「セレス殿。団長が乱闘騒ぎを起こしたようで」 中年騎士の態度から、この小柄な騎士の方が立場はやや上のようだ。
「団長殿がか。良いではないか,部下とのコミュニケーションでも諮っていたのであろう,な?」 騎士は近くにいた傭兵の一人に尋ねた。それに傭兵は笑って首を縦に振る。
「そろそろ休憩を出した方が良いかも知れぬ。クレイ殿はその件を団長殿にお伺いし次第、休憩命令を出してくれ」
「はっ」 言い残すと二人の騎士はそれぞれ反対の方向に進む。
「むぅ,やはり団長はホモだったのか」
「何でそうなる!」 遠くからの声より早く、三度どこからともなく剣の鞘が、呟くケビンの後ろ頭に炸裂した。
指令書が届いて二日後、司令官に任ぜられたクラールは第六騎士団長シュール=アクセとともに騎士800名と民兵1500名,皇国魔術師隊50名を率いて東の公国を目指し、静かな行軍を続けていた。
クラール=シキムの猛勇は聞くことに及ぶが、シュール=アクセのそれも彼を上回るほどでもある。シュールはリースと同じ女性の団長であるが性格・容姿は全く違う。
『その体、熊より大きくその腕、熊のそれより強し。またその意気、戦の神の如き豪胆さなり』
兵士達の間ではこのような唄い文句が広まっている。
今まで王の前で顔を合わせるくらいでともに戦場に出たことのない二人はお互いの噂を嫌というほど聞かされ、その真偽を確かめるべくか、東の熊公国に自然と足が早まっていた。
「全軍止まれ、今日はここで野営する!」 クラールは予定より早く目的の野営場に着いたことを後悔し、それ以上先に進むことをやめた。
「クラール殿、荷物の中に妙な客人が入りこんでいたのだが」 金色の巻き毛の上に団長を示す額冠を巻いたシュールが一人の少女を引っ立ててくる。ターバンが不似合いな小柄な女だ。それを見てクラールは額に手を当てていた。
「ご苦労だった、シュール殿。こやつの身柄は責任以て俺が確保しよう」 シュールはそれを聞いて彼女をクラールに渡し、その場を去る。
「フレイラース! 何やってんだ? こんなとこで」
「別にいいじゃない。荷物に紛れこんで入っててもさ」 解かれた縄で付いた痕を痛そうに撫でながら言う。
「またアルバートと喧嘩したのか。保護者が向かえにくるまで俺が面倒みてやるから厄介事を起こすなよ」 彼は溜め息を就いて言った。
「誰が保護者よ! アルなんて大嫌いなんだから!」
どうでもいいが邪魔はしないでくれ,そう言いかけた言葉を飲みこんで彼は仕事に戻った。
アルバート第一王子はアークス城下の唯一のドワーフが経営する鍛冶屋に単身赴いていた。偏屈で変わり者のドワーフの翁だが、彼はその腕を買っている。
「おっさん,こいつ、頼むぜ」 言って彼は腰の剣を手渡す。
「相変わらず良い剣じゃな,こやつは。しかしな、この間もこれに勝るとも劣らぬ刀を見たぞい,もっとも魔剣じゃったが」 研ぎ石を取り出しながらドワーフは言った。
「へぇ、この黒水晶のレイトールのレベルのねぇ」
星剣レイトール――アークスの国宝であるこの剣は黒水晶で作られ、透き通る両刃の刀身には星のようなたくさんの輝く粒が散りばめられている。その様はまるで宇宙の様だ。
「素材は鋼じゃったが完璧な混合率じゃったよ。持ち主はお前さんより若かったかの、人の良さそうな殺生を好みそうもない男とファレスの女の二人連れじゃった」
「ふぅん。おっさん、ところであいつ知らないか? フレイラース」 壁に掛かった刀剣を眺めながら何気なさそうに彼は尋ねる。
「あのうるさい娘っ子か。知らんぞ、お主に愛想を尽かしでもしたのかの?」 研いだレイトールを光にかざしながらドワーフは言う。
「ふん、愛想を尽かしたのはこっちの方さ。我儘ばかり言いやがって」
「なら捜す必要ななかろう?」
「ん? べ、別に捜してなんかいないが」 どもるアルバート。
「お前さんはとやかく無神経じゃ。一番大事なものに、もう一生会えないとしたら悲しいじゃろ? 手遅れになる前に手を打っておくべきじゃ」 研ぎ終わった剣を鞘に戻し、ドワーフは言う。
「誰がフレイラースなんか!」
「わしはこのレイトールの剣のことを言ったんじゃがの」 剣を差し出すドワーフを前に彼は言葉を失った。そして笑い出す。
「ありがとよ、代金はここに置いてくぜ!」 愛剣を受け取って彼は店を飛び出した。鍛冶屋は代金と称して置いていったエール酒のボトルを掴んで呟く。
「あの男がこの国を継承すれば、おもしろくなるだろうにのぅ」
<A Lady>
私はいつからここにいるのだろう? そして何をしているのだろう?
頭がはっきりとしない。色々な事が脳裏を過ぎ去っては消えて行く。膨大な知識量が私を私から離して行くような錯覚に陥らせた。
そう、私の名は? 私は誰?
気が付くとそこは暗い闇の中だった。上も下もない,本当の闇。
そして闇は私を優しく包み込んでくれる。全てをその闇に任せる。私は闇に飲まれるかのように深い眠りに就いていった。
これは…夢? 眠りに就いた,私は自分自身そう思った。再び私のまわりは闇,上も下もない闇だ。
そもそも自分が眠りに就く瞬間など判定できる人間がいるであろうか?
「このまま闇の中から出られない」 私は呟く。その声で私は私の存在を確認する。闇の中では全てが朧だ。完全なものはない。
「このまま闇の中から出られない…の?」 再び私は呟く。この言葉は今まで私が信用していた闇に対して恐怖の感を覚えさせた。
私は…そう、何かを思い出さなければ…私が私であるための何かを。さもなくばこの闇に飲まれてしまう!
私は考える。考えることなど何もないが、その混乱した頭で何か答えを求めた。何か一つでも良い,答えを!
「ルーン?」 灰色の頭の中から一つの単語が浮かんだ。何だろう,この言葉は? 一体何を表しているのだろう?
「ルーン」 私はもう一度その単語を口にする。何か懐かしい,そして暖かさと運命めいたものを感じる。
「ルーン…何かしら?」 ただ、その単語を口にすると、気分が楽になる。
「とにかく、ここから出ないとね」 出ると言ってもどこから,私は自分でその言葉に否定する。
「ここはどこなの?」
「ここは闇の精霊界の深層――上位精霊すら踏み込むことのできない闇の重圧の中心。どこからきたのかな,お嬢さん?」
「誰?!」 私の一人言の答えに振り向く。しかし何も見えない,ただ闇が拡がるだけである。
「目で見るんじゃない,心で見るんだよ。それが精霊の理」
「精霊の理?」 再び聞こえた言葉に私の知識が動く。
そう、目で見えるものなどごく少数,本当の姿を見るには心で見なくてはならない。
そして世界を構成する様々な精霊達は目で見えるものではなく心で見るものなのだ。
私は目を閉じてまわりの闇と同化する。心の平静により、視界が急に開けた。
「貴方は?」 声の主は闇に生まれている、無限に続くかと思われる大きな柱ようなものに鎖によって、その身を拘束されていた。
「幾千夜振りのお客だろう。嬉しいね」 それは四対の翼を持つ青年だった。闇の中でもその体自体が、神々しい光を放っている。そしてその青年の両の瞳は閉じられていた。
「私は天使長ルシフェル,いや、今では堕天使かな。貴女は?」 歌うような声で彼は私の問う。
その声、姿にどこか懐かしいものを感じる,以前に会ったことでもあるのだろうか?
「私は…分からないの。自分が誰だか,それにここが何処だかも」
「そう,ではあなたは今、何を知っていますか?」 微笑む天使の質問に私は当惑する。
「質問が悪かったかな。貴女は人だ。だからこの精霊界にいてはいけない存在。あなたは元の世界に戻りたいのかな?」
「私は人――私の世界?」 ルシフェルの言葉に私の沈静しかけた頭に再び荒波が立つ。
「私は自分が何者なのかも、いるべき場所も何も知らない」
「いいや、貴女は自分のやるべきことを知っている」 ルシフェルは打って変わって厳しい口調で告げた。
「やるべき事,いや貴女はその為にこの世に生を受けた。そして貴女は知ったはずだ。その宿命を」
「やるべき事?」 ルシフェルの言葉とが分からない。が、何か心に突き刺さる。
「私には…まだ貴方の言っていることが分からない。でも、そのうち分かる時が来るような気がする。私と一緒に来てくれませんか? 私はここから出る方法も、いえ、それ以前に何も分からないの」 私の言葉にルシフェルは微笑み、言った。
「貴女が私のこの鎖を断ち切れるのならば、私は貴女に仕えましょう」 ルシフェルはまるで試すように言い放つ。
「鎖…これね?」 私は彼に歩み寄り、その身を縛る鎖を手に取る。細いその鎖は銀でできている,まるで装飾用の物のようだった。
「その鎖は運命の鎖と言われる物。この鎖は闇の精霊界を支える柱にくくられている。すなわち運命を断ち切るだけの心を持った者のみ切ることが…」
「ちぎっちゃったよ」 ルシフェルの目が点になる。やはり説明は最後まで聞いたほうが良かったのだろうか?
「…貴女は私の運命を断ち切った。私もまた、貴女の運命を断ち切る為に力を貸しましょう。私の真の名はルーン,私を必要とする時はこの名を心で唱えなさい。それまでは…そう、貴女のその髪飾りに宿りましょう」
「ルーン? あなたが?」 私にルシフェルは優しく微笑み、消えて行った。
それとともに私のまわりの闇が消えて行く。入れ代わるように闇とそれに伴う沈黙は、光と人々の雑踏になる。
「ほら、嬢ちゃん,天下の往来でボケっとしてんじゃないよ!」 後ろからの声に私は慌てて道を開ける。
そして私の後ろでつかえていた荷馬車が石畳の道を進んで行った。
「ここは?」
街の中だった。石畳の大通りに、それに面して並ぶ露店と市場,そして人々。そのどれもが新鮮で、そして美しく見えた。
私は私のいるべき世界に戻ってきたらしい。しかしこれからどうしたら良いのか?
「取り合えず、歩いてみよう。そして…」
暖かみを帯びた西風に、私は遠く春の香りを感じた。
シシリアはテラスから厚い雪雲を見上げて風に吹かれる。その両眼はやはり閉じられ、開くことはなかった。
「そう、動きだしたのですね。ミアセイア,今まで以上に気を付けて下さい。貴方のいる場所は―――」
風を介してのその会話に、サルーンはそっと彼女の肩にコートを掛けた。シシリアは視線を男に向ける。そして再び風に向かって語り掛けた。
「そうそう、昨夜占ったんだけど、貴方は近々素敵な人に出会うそうよ」
打って変わって風の向こうに嬉しげに話す彼女に、サルーンは見えない男の渋い顔を予測した。
ダークエルフの彗牙は肩まである白い髪を風に揺らしていた。ダークエルフは容姿はエルフと同じ,そのほとんどが歳に左右される事なく、人間の感覚で同じ顔の美男美女が多い。
また体力的には人間に劣るが、魔力は――特に生まれながらにして精霊魔術を体得しているという強い種族である。
唯一のエルフとの違いは、エルフの特徴である白い肌と金色の髪ではなく、褐色の肌と銀の髪という特徴を備えているという点であろう。
エルフは精霊魔術を使うという特性から精霊と亜人の間の存在と考えられている。そして普通のエルフは光の精霊を、ダークエルフは闇の精霊の側にいるのではないかと。
だが特段、エルフとダークエルフの間に確執などは存在していない。精霊は万人に平等なのだ。
雪の積もる木の上に腰を下ろし、風の精霊達の言葉を聞いていた彼女はふとその声の一つに耳を傾ける。
「誰かが近くで風の精霊を使って交信してる?」 彼女はその風の言葉を聞こうとするが、相手の術者の方が魔力が高いらしい,雑音によりその声は聞くことが難しかった。
「あっちね」 気になる彼女は、その術者を直接その目で見ようと立ち上がり、細い木々の枝の上を飛ぶように駆けて行った。
”あの人?” 彗牙がしばらく森を進むと、その声の主の姿を枝しかない木の先に捕らえる。
”赤い人? 私より風の精霊に愛されているのね” 精霊の存在を認めるものにはその存在を第三の目で見ることができる。精霊使いである彗牙には当然それが可視し得る。
彼女には目をつむり、精霊を通して何者かと交信する赤い法衣の男を、多くの風の精霊が囲んでいるのが見えていた。
その精霊達の誰もが微笑んでいる。すなわち精霊自らが進んでこの男に力を貸しているのだ。長年、特に風の精霊を中心としたる精霊使いをやっている彗牙ですら、精霊自身が進んで力を貸してくれることなど一度たりともない。
”人間…よね。でも精霊使いって訳でもなさそう” 彼女は男の持つ杖を見て思った。その杖は呪語魔法を実行する際に必要なものだ。精霊語のみで実行される精霊魔術には道具は不要である。
”ははぁ、この人がアークス皇国の宮廷魔術師ね。確かオライアンが言うにはユーフェとミアセイア,どっちか分からないけど、誰と交信しているのかしら?” 顔は悪くない,性格は暗そうだが。
彗牙は一歩足を踏み出す。
ザッ!
「あっ」 精霊の声に集中していたため、足下の枝に付いていた雪を落としてしまった。それに魔術師は風の精霊を散らせる。
「何者だ、貴様」 音の主を見つけ、男は木の上で状況を見つめていた女性,彗牙を睨みつけた。強い殺気を彼女は感じた。
だがそれに彗牙は悪びれた様子もなく、木の上から下りてくる。
「私は彗牙,あなた、精霊に愛されているのね」
「こんな所で何をしている?」 表情を変えないまま、男は続けた。
「それはお互い様でしょう?」 微笑んで答える彗牙に、男は手にした杖を向ける。そしてすでに呪文は唱えられていた。
杖から光り輝く矢が数十本、ダークエルフの女性に向かって飛ぶ。
「ちょ、ちょっと! 風よ!」 彗牙は風の精霊を呼び寄せて、魔法の矢の進路を変えようとするが努力は徒労に終わった。
「な、何もしてないわよぉ!」 風の精霊をあっさり貫き、迫る光の矢に屈み込んで彗牙は絶叫する。
しかし来るはずの痛みは彗牙には感じられなかった。
恐る恐る目を開いてみる。光の矢は彼女の寸前で全てその動きを止めていた。
男が杖で地面を軽く叩くと、光の矢はかき消える。
「今度盗み聞きするのならその命、ないと思え」 赤い法衣の男は言い残し、その場を立ち去ろうとする。
「待って」 彗牙は慌ててその後ろ姿を追う。それに男は立ち止まり、振り返った。
「あの、ごめんなさい,盗み聞きする気はなかったの。でも安心して。私の魔力が弱かったから何も聞こえなかった」 微笑み、彼女は言った。
「そうか」 答えて、魔術師は立ち去る。
彗牙はその後ろ姿をじっと見つめ、そして意を決したかのようにその後を追って駆け出した。
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