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  第五章


<Camera>
 都市アークスの北をまるで壁のように立ち塞がる自然の城壁フラッドストーン。
 その大岩の遥か地下に徐々に力が集まりつつあった。例えるなら大きな空の湖に一滴一滴、雫を落としていくかのように。
 「充填率87%です。ここまで来ればあと17%くらい、急げば二ヶ月程で回収できます」 
 「ペースは今まで通り,ここにきて急いでしまえば15年間の全ての苦労が水の泡になってしまうわ。彼らに気付かれる訳にはいかない,もちろんルース様にも」 シシリアは作業員にそう告げ、目下の巨大な古代の建造物を見下ろす。
 そこは縦長におよそ50mはあろうかという、巨大な直方体の空間だった。
 金属と思われる壁で覆われたその空間はフラッドストーンの丁度真下、45mの所にある。そしてそこに巨大な筒状の武器が上を向いて安置されていた。
 その武器の根元にはやはり金属性の道具が連結されており、それによってこの武器を操作するようである。そこには四人の人間が監視していた。
 もしもこの場に魔力を扱う魔導師がいれば、恐れおののくであろう。その筒の中央には大陸一つ沈める程の純粋な魔力が現在進行で溜まっているのだから。
 「全く大した科学力です,古代人は。これだけの魔力の気配を全く外に漏らさないのですから。しかしこれだけの力を持った者達が何故滅亡したのでしょう?」 作業員は盲目の姫君に尋ねる。
 最もその答えを現代人の姫に彼は期待してなどはいないのだが。
 「力を持っていたからではないでしょうか? 大きな力はそれ以上の力を呼びますからね。おそらく太古、この武器によっていくつもの破壊を呼んだのでしょう」 
 「しかし今はこの武器に頼らざるを得ない…それは仕方のないことです」 作業員の言葉に、シシリアは閉じられたままの瞳で太古の破壊兵器を静かに見つめていた。



<Aska>
 俺はアークスの王子だ,目の前の男はそう言っているのだ。
 顔は余り悪くはない,がしかし王族の威厳と言ったものはその姿からは感じられない。受ける印象はどちらかと言うと傭兵団の頭領と言った感じだ。
 「証拠は?」 当然の疑問をネレイドは口にする。それにアルバートは苦笑いしながら指に嵌めていた指輪を外して彼女に放った。
 それは金製の簡素な指輪だ。その表面には磨耗してはいるが確かにアークス皇国の紋章である鷲の姿があった。しかし…
 「これだけで信じろって言うの?」 ネレイドは指輪を投げ返して呆れたように言う。
 王家の紋章を許可なく持つ者は厳刑に処される。なぜなら王家ということで詐欺事件が横行することを防ぐためだ。それ故、たかだかの詐欺で王家の紋章を用いるのはデメリットが大きすぎる。
 しかしこの程度の王家の紋章では私達を騙すために、今さっき作ったのかも知れない。
 「う〜ん,じゃ、これでどうだ?」 アルバートは今度は傍らに置いてあった自分の剣を見せる。その剣の柄には確かに鷲の紋章が美しい装飾とともに刻まれていた。
 その剣をアルバートは静かに抜いた。
 「ほぉぅ」 
 「きれい…」 ネレイドと私は溜め息を漏らす。
 その刀身は鋼ではなく黒水晶,武器を見る目のない私ですら、これが逸品の中の逸品であることが知れる。
 「星剣レイトール――古代の魔導師が異空間を収縮して剣にしたという伝説を持つ剣。本物ですよ、アスカ殿」 イーグルが納得して言う。隣では同様にネレイドも頷いていた。
 その黒い刀身の中にはまるで星のように白い輝きが瞬いていた。それを見ていると吸いこまれてしまうような錯覚に陥る。
 「納得してくれたみたいだな」 王子は満足そうに頷くと剣を鞘に戻し、座を正した。
 「まぁ、王族のくせに威厳ってもんがないからね,仕方無いよ」 ターバンを巻いた少女の言葉に彼は睨つける。が、少女はそれをまるで無視している。
 「さて、依頼内容を話そう」 諦めて言った、アルバート王子の依頼内容は次のようなものだった。
 つい一週間前、この地で彼らは反乱鎮圧に加担していた。もちろん自らの身分は隠してである。反乱の首謀者・熊公ブルスランを倒し、ほっとしたのも束の間アルバートは暗殺者に襲われる。
 その場は何とか命は取り留めたものの、一時は危篤状態となり、仲間の必死の看病と強い生命力によって三日後、ようやく意識を取り戻した。しかし彼を襲う刺客は尽きることなくやってくる。
 一体誰が彼の暗殺を目論んでいるのか,そして何処の団体が請け負ったのか?
 この町外れのアパートに身を隠したものの、刺客達にこの場がばれるのは時間の問題である。それ以上に生死の境をさ迷っていたため、彼はまだ立ち上がるのもやっとの状態であり、彼に治癒の魔法を掛け続けた魔術師などは未だに立ち上がることはできない。
 彼の依頼内容はそんな彼らを体調が回復するまで護衛すること,そしてあわよくば暗殺の依頼人,暗殺を請け負っている団体を掴んで欲しい、とのことだった。
 「O.K.もちろん護衛以上のことをやったら?」 
 「後金ははずむ」 ネレイドの言葉をアルバート王子は引き継いだ。
 「しかし相手は危険よ。昨日の飛竜騒ぎも絶対、私達をいぶり出そうとして取られた処置だわ」 王子の傍らの少女の言葉にネレイドの動きが止まる。
 「そ、そうなん?」 
 「うん、暗殺を請け負ってる奴らは盗賊ギルドに未登録なの。まぁ、そうじゃなかったら王族の暗殺なんて起こらないけど」 それは当然だろう。盗賊ギルドとは言え、国家があるから現状が成り立っているのだ。
 王族を暗殺などすれば盗賊ギルドの転覆にもつながる。しかし昨日の飛竜が本当に絡んでいるとしたら、厄介な相手だ。
 「俺達は俺達なりに善処を尽くすまでですね。俺は早速、外を見てきましょう」 不意にイーグルはそう言い捨て、イルハイムと供に部屋を出て行った。
 「護衛を頼むぞ」 イルハイムは言い残し、イーグルの後を追う。
 そして部屋には私とネレイド,そして王子と少女の四人が残った。
 「どうしたっていうの? あいつら」 
 「トイレじゃない、多分」 ターバンの少女が笑ってネレイドに答えた。とてもじゃないがそんな雰囲気には見えなかったのだが…。
 「そう言えば」 私は引っ掛かっていたことを尋ねる。
 「話であった魔術師って誰なの? イルハイムさんじゃないよね」 
 「私よ」 意外な所からの声――ターバンを巻いた少女が答えた。
 「あなたが?」
 半信半疑に尋ねる。この細身の少女に三日三晩、治癒の魔法を掛け続けるだけの力があるとは思えない。しかし顔色が妙に悪いのは、やはりそうなのだろうか?
 「ええ、お蔭で私の生命の精霊が弱っちゃって」 
 「おい、フレイラース」 
 「生命の精霊? 精霊使いなの,貴女?」 アルバートの制止空しく、彼女の正体に私は気付いた。それに少女はしまったというように口に手を当てている。
 「エルフね、貴女。そのターバンは耳を隠すためのものだったの?」 私の言葉にフレイラースと呼ばれた彼女は溜め息を就いてターバンをほどいた。
 その下からは長い金色の髪と尖った長い耳が現れる。
 「あ〜あ、ばれちゃった」 ペロッと舌を出すフレイラース。
 「まぁ、ばれるのは時間の問題だとは思っていたが、早いなぁ」 
 「誰にも言わないわよ。ね、ネレイド?」 隣の相棒は手帳に何かをメモしていた。咄嗟に私は肘鉄をかます。
 「でも三日間も生命の精霊を使い続けるなんて。本当に好きなんだね、この人のこと」 
 「な、何言ってるの?! そんなわけないじゃない!」 私のしみじみと言った一言に耳の先まで赤くして怒鳴るエルフ。表情が乏しいことで有名なエルフらしからぬ、表情豊かな娘である。
 「だって私も精霊使いだから分かるけど、そうでもなかったら三日間も精霊を呼び続けられないわ」 それにアルバートとフレイラースは少し驚いたように私を見た。
 「珍しいな、人間の精霊使いなんて。その格好から剣と呪語魔法も使えるんだろう? イルハイムが選んだだけあるなぁ」 アルバートは感心したように呟いた。
 精霊を知らない王子ののほほんとした態度に、私はフレイラースの件を蒸し返す。
 「それはともかく! アルバート王子はちゃんとお礼は言った? 女性しか使えない生命の精霊は、術者の命をも簡単に左右するんだからね」 私の言葉に王子はたじろぐ。お礼以前にやはり後者の方に驚いているようだ。
 しかしその驚きの表情は突如として警戒のそれと変わる。
 「そんなことは後で勝手に二人でやってもらうとして,アスカ!」 
 「ええ」 ネレイドも察したのだろう、このアパートの外から伝わってくる雰囲気に。
 私とネレイドは武器を手に部屋を出る。その際、私は風の精霊に命じて部屋に風の結界を張っておく。こうしておけば簡単にはこの部屋に入ってこれないはずだ。
 ネレイドに目配せして、私達は二方向に分かれた。この部屋はアパートの二階にあり、二階建てのこのアパートはその左右に階段が付いている。部屋から見て私が右、ネレイドが左を受け持つ。
 私は呪語魔法を呟きながら腰の剣を抜く。アルバートのそれに及びはしないが、数少ない私の記憶を失う以前の持ち物である魔剣は私を冷たい冷気で包んだ。
 「「ガァ!」」 沈黙を打ち破り、それは私とネレイドに同時に襲い掛かる!
 青い鬣を持つ地獄のライオン・幻獣ケルベロスだ。対するネレイドにはやはりほぼ同じ力を持つ、赤の鬣のライオン・幻獣オルトロスが襲い掛かっている。
 「理力の刃よ、夢つ現を離反せよ,青弾通剣光!」
 私の呪語魔法である青いレーザー光がケルベロスを貫く。
 が、青い血を流しながら幻獣は構わずそのまま私に体当たりを仕掛ける。避けられない!
 ケルベロスは私を押し倒すと、その鋭い牙で私の首筋を引きちぎろうと動く。
 「クッ」 氷の剣で魔獣の牙を押し戻す。しかし私も乙女(笑うな!),獣の馬鹿力には敵わない。急速に魔獣の牙が私の首筋に迫ってきた。
 「いやっ!」 私は無意識に手にした剣に念を込める。
 「ギャン!」 悲鳴を挙げて獣は後ずさった。何が起きたか分からないがその間に私は立ち上がり、剣を取って間合を取る。
 魔獣の口は凍っていた。同時に私の剣の魔力が心なしか弱くなったような気がする。
 「剣に封じられてた魔力が解放されたの?」
 原因よりの結果が重要だ。今、イニシアティブは私にある。
 「これで終わりよ。丈き闇の精霊よ! かのものに汝の安らぎと困惑を、包容せよ!」 私の召喚に応じて闇が幻獣を包み込む。
 黒い塊と化して動かないことを確認した私は剣を突き立てた。
 闇は砕け散り、剣は幻獣の額を突いている。ケルベロスは声を挙げる事なく倒れ、青い煙と化して風に消える。
 隣ではネレイドが苦もなく、魔獣を得意のムチで倒していた。これもやはり赤い煙を残して消えてしまっている。
 幻獣は術者が死なない限り、死ぬことはないのだ。
 「こいつ等を操っていた幻獣使いが外にいるはずよ」 ネレイドの声を聞きながら、私は階段を掛け下りた。
 アパートの外にはすでに新手が待っていた。その新手に私はギョッとする。
 水の馬・幻獣ケルピーと、炎を操る猛牛・幻獣ゴルゴンを両脇に控えているのは、大きな幻獣達と対照的な一人の幼い少年だった。歳の頃は六、七歳程度であろうか,私達を見据えている。
 そして少年の手の甲と頬といった肌の露出している部分には何やら魔法文字を盛り込んだ図形のような入れ墨が見えた。召喚師であることの証拠だ。
 召喚師は幻獣を自らの体に刻んだ入れ墨に封じる。すなわち幻獣一体に付き一つの入れ墨,召喚陣が必要なのである。
 召喚師は幻獣という数少ない生物を必要とする以上、非常に希な職業で、大抵は三、四体の幻獣を従えていると聞き及んでいる。
 「まさかあんな子供が幻獣を操っていたの?」 ネレイドが驚きの声を挙げた。それに少年は厳しい目でこちらを睨つける。
 「昨日の飛龍だけじゃ飽き足らずに地獄の番犬達まで倒すなんて。おばさん達、許さないよ」 いやに大人びた態度で少年は言う。やはり昨日の飛龍は幻獣だったか。
 「誰がおばさんか! おねえさまとお呼び!」 しかし論点が違うネレイド。
 「誰が呼ぶか、乳垂れババア!」 
 「このくそガキが!」 何処かで見たことのあるような会話が少年とネレイドの間でくり返されている。
 「ええい、うるさい!」 ネレイドとの口喧嘩に少年は叫び、右手を挙げる。それに応じてネレイドにゴルゴンが突進した!
 と言うことは必然的にケルピーが私の相手となる。水の馬は一つ嘶き、額に生えた角を向けて私に向かって駆け出す。私は剣を構える。
 「ハッ!」 ケルピーの突進を交わし、剣でその足を払う。鈍い感触の後に、しかし傷一つない幻獣が前足で地面を掻いていた。やる気たっぷりのようだ。
 「どうして…そうか,この剣は水の力に属してるから水の属性を持ってる奴には効かないのね!」 氷で氷を砕いても溶けないのと一緒である。
 ケルピーは再び突っ込んでくる。私は避けるが、軽く左肩の衣服が裂かれた!
 「くっ、魔法で片付くかしら…」 ちらりとネレイドの方を見ると、彼女もまたゴルゴンに追い回されている。あちこちが焦げているところが彼女らしい。
 そして召喚師である少年は事の成り行きを笑いながら見ている。幻獣は自らの意志で私達を攻撃しているようだ。
 おそらく少年を倒せばこの幻獣は消えるかもしれないが、子供に手を出したくない言うのが、甘いと思われるが私の本音。
 ケルピーから逃げながら、私は辺りの地形を確認する。水の化身ケルピーと炎の化身ゴルゴンならばおそらく…。
 「ネレイド!」 逃げながら、私は彼女に声を掛ける。ネレイドも私の意図に気付き、片目をつむって合図した。
 「逃げても無駄だよ」 少年の声を後ろに聞きながら私はアパートの裏へ走る。その後ろに幻獣が追い付かんと迫る。ネレイドの歩幅も考えてこのスピードでタイミングはバッチリのはず!
 幻獣ケルピーを背後に感じながら、アパートの壁を左手にして私は走る。そして端まできてアパートの壁が切れた!
 私は左に飛ぶ!
 反対側から走ってきたネレイドもまた私と反対の方向に飛んでいるのが見える。そして…
 「馬鹿、止まれ!」 アパートの向こう側から少年の声が聞こえるがもう遅い。
 ガゴァァ!
 地面に伏せる私の背中で爆発音が響き、アパートの壁の一部が吹き飛んだ。すなわちアパートの壁を境にして、出会い頭にぶつかった相反する性質を持った幻獣はお互いの反発し合う力に作用し合い、その存在を消してしまったのである。
 「思ったよりうまくいったわね」 ネレイドは起き上がりながら言った。しかし終わった訳ではない。術者である少年を取り押さえないことには、幻獣はいくらでも召喚できるのだ。
 私達は少年のいるアパートの表側へと走る。が、少年も用意周到にも新しい幻獣を召喚し終わっていた。彼の前には老人の頭とライオンの体,サソリの尾を持った怪物が立ち塞がっている。
 また、頭上には一羽の金色の翼を持った大鷲が滞空していた。
 「マンティコアにガルーダ,二体ともさっきの幻獣よりランクは上よ、アスカ」 ネレイドが苦い顔で私に囁く。
 不意に私の視界の隅に黒い影が横切った。その影はコロコロと転がりながらマンティコアの横を通り過ぎ、少年の肩に乗る。拳大の黒い毛球のようなそれの中心には、赤い宝石が脈打つように光っていた。
 「ご苦労,カーバンクル。じゃあね、お姉さん。楽しかったよ」 私に向かって少年は笑って手を挙げる。すると黒い毛球の幻獣は消え、大鷲が彼の肩を掴んだ。
 「仕事も済んだし、僕は帰らせてもらよ。また会おうね,お姉さん。でもそっちのおばさんには二度と会いたくないけど」 少年の体が宙に浮く。
 「逃がさないよ!」 ネレイドの鞭がしなる。
 「ゴァァ!」 しかし、それを残る幻獣が吐いた良く分からない吐息で黒炭と化した。どういった攻撃なのかは身を持って知りたくはない。
 「風の精霊よ、滞空する者共を汝の力で翼を奪い給まえ!」 
 「キェェェェ!」
 私の少年を逃がすまいとする風の精霊魔法に対抗として、彼を持ち上げる大鷲が奇声を発する。その声はいとも安々と私の風の精霊の力を打ち砕いた!
 「何,今の!」 驚く暇なく、今度はマンティコアが先程の吐息攻撃を再開する。
 「僕の名はエリアス,じゃあ縁があったらまた遊ぼうね」 
 「逃げんじゃねぇ,このくそガキ!」 ネレイドの叫び虚しく、少年は大鷲に連れられて北の空へと消えていった。残された幻獣マンティコアが私達に追う暇を与えない。
 「ちょっと、アスカ,何とかしてよ、コイツ」 鞭を失ったネレイドを執拗に狙う幻獣。
 「何とかって言っても…私だって逃げるので精一杯なの!」 吐息でネレイドを狙いつつ、サソリの尾で私を攻撃する。厄介な幻獣だ。
 だからといっていつまでも逃げ回っている訳にもいかない。私は呪文を呟き始めた。
 ネレイドが地面の何かに躓く! そこにマンティコアの尾が迫った!
 「しまっ…」 
 「収束、発散せよ、見えざる波動よ! 虚空波!」 私の解放した呪力は寸でのところで、幻獣を跡形もなく粒子状に分解,発散させた。
 「あ,危なかった」 汗を拭うネレイド。
 「しっかし、厄介な奴だ。あのガキが死なない限り、こんな化け物は死なないんだろ? 逃がしたのは痛いな」 鞭を投げ捨てて、起き上がりながら相棒はグチる。
 「そう言えばあの子、仕事も済んだとか言っていたけど…」 
 ゴアァァァァ!
 私の言葉が終わるか終わらないかの内に、爆音が後方で響く。振り返るとアルバート達のいるアパートの二階部分が完全に消え去っていた。
 そして一階部分も彼らのいた部屋の下に位置する所には地面が見えている。
 「そんな! 一体どうして?!」 
 「しまった,私達の気を引いている隙に、あのちっこい幻獣を使って爆薬を仕掛けたのね!」 ネレイドは無残に崩れたアパートに走りながら叫ぶ。私も絶望の中、その後を追った。
 「一応、風の結界を張っておいたけど…あの爆風だとダメかも知れない」 野次馬達が集まりつつある中、私は思い出すがこの状況では。
 私とネレイドはアパートの残骸の前で立ち竦む。所々火を放っているそこにはアルバート達の気配を感じられなかった。アパートの他の部屋は誰も借りていなかったと聞かされている。それが唯一の幸いかも知れない。
 「これは…死んだわね」 ネレイドの呟きはあっという間に破られた。
 「だれがこの程度で死ぬか! …ったく、酷い目にあったぜ」 黒く炭化したアパートの建材の下から、埃と灰で黒くなったアルバートが立ち上がった。
 「煙いよぉ。あ〜あ、アパート、弁償しなきゃね」 そのアルバートに抱かれるようにして起き上がったのは、見たところ怪我一つないフレイラースである。
 「心配することなんて、なかったわね」 
 「無事だった? 怪我はない?」 私は二人に駆け寄る。どうやら怪我らしいものは見えない。しかしながらこの爆発でどうやって無事で済んだのだろう?
 「フレイラースが君の結界をさらに強くしてな。しっかしこれほどの爆発だとは思わなかったぜ」 笑いながらアークスの王子は辺りを見渡した。
 「イルハイムの魔法が失敗するのに比べれば、どうってことないじゃない」 顔色を青くしたエルフが言う。
 彼女は魔力が底を付いている状態で今のように無理して魔法を使った為か,アルバートに肩を借りてどうにか立っていると言った感じだ。
 まぁ、軽口を叩くだけの余裕があるので心配はいらないだろう。
 「逃げられたようだな,その様子じゃ」 アルバートの言葉に私は首を縦に振る。
 「そうか、それはそれで仕方がないな」 
 「今夜の宿を捜さなくちゃね」 お気楽な二人は言う。祭りの期間である今、宿など空いているのか?
 「宿なら今私達の泊まっている所が顔見知りだから手配できるわ」 とネレイド。
 「そうか、頼むぜ,早いとこそこへ急ごう。野次馬に絡まれたら後が大変だからな」 アルバートの言葉通り片手では数え切れなくなった野次馬達を掻き分けながら、私達は宿へと足を走らせた。



<Camera>
 熊公首都ブルトンの町外れにある商人達の倉庫街。その倉庫の一つに死臭が漂っていた。
 幸か不幸か、今日は日曜日ということもありこの地区は人通りがない。
 その倉庫で、イーグルは弓に矢を番えながら視界の悪い暗い倉庫の奥を睨つけていた。
 不意に殺気が生まれる。
 「上か!」 仰ぎ見ずに彼は光と化した矢を頭上に放ち、その場を飛び退く!
 数瞬遅れて先程まで彼のいた床が魔力による光弾で小規模に吹き飛び、ガレキを撒き散らす。
 そして人が上から落ちて来た。イーグルは破壊された床に転がる人影に歩み寄る。
 黒いローブに身を包んだそれは、喉を射抜かれ絶命した中年の男だった。
 「こいつは…スパイラルか?!」 男の懐を探るうちに、首から下げた蛇をモチーフにしたネックレスを見て彼は呟く。
 その額には気候からではない,汗が浮かんでいた。
 「!」 死んでいたと思っていた魔導師の男が血走った目を見開いたかと思うとイーグルの腕を掴む!
 「な、まだ生きて? しまった!」 男は壮絶な笑みを浮かべると内側から光った。
 轟音を立てて倉庫が一つ吹き飛ぶ。
 「危ないところだったな」 瓦礫の中、埃すらかぶることなしにイーグルはその腕に魔導師の腕を残して立っていた。
 その隣には闇を纏ったような魔導師が立っている。そして彼ら二人を中心として二m程の円内は爆発をもろともしていなかった。
 「スパイラルの狂信ぶりを改めて感じたよ。常に自らを爆弾代わりにしているという噂は本当だったとはな,礼は言う」 残った魔導師の腕を投げ捨て、イーグルは魔導師イルハイムに言った。
 「我々の相手がやつらだったならば、こいつらは囮だったと考えた方が良さそうだ」 イルハイムの言葉にイーグルは頷く。
 「しかしおそらく無事だろう。この程度でやられるようなタマじゃない」 
 「そうだな」 二人は不敵な笑みを浮かべる。イーグルの手に握られたネックレスは、彼の人間ばなれした握力によって醜く歪められた。



<Aska>
 宿に辿り着いた私達は、そのまま一階の食堂で早めの晩御飯を取っていた。
 品物を注文し、待っている間に宿の主人と話し込んでいたネレイドが戻ってくる。
 「話は就いたわ。大部屋を二つ用意できて、一つは私とアスカ,フレイラースともう一つの方は男共ね」 
 「…ぬかったぜ,つけられていたようだ」 アルバートの言葉に三人は一斉に彼を,そして彼の後ろに立つ男を見る。
 彼の後ろに立っているそれは、にこやかな顔をしたしがない中年の人の良さそうなおじさんだった。
 しかしにこやかなそれは場に合わないものであり、逆に不気味なものを感じさせる。
 「捜しましたよ、アルバート王子,フレイラース次期王妃」 
 「誰が次期王妃よ! 誰が!」 フレイラースがエルフ特有の白い顔を可能な限り赤くして反論する。が、アルバートは男に振り返る事なく厳しい顔で答える。
 「盗賊ギルドに捜索される覚えはないのだがな。え、バイン?」 王子の言葉に男は眉を動かす。が、それは一瞬のことで言葉を続けた。
 「我々は貴方には期待しているのですよ。だからお力になりたい,それだけのことです」 言って、中年男バインは手に提げていた袋から六本の小さな瓶を取り出し、テーブルへ置いた。中には青い液体が入っている。
 「これを一日五回,必ず何かをお食べになってから服用して下さい。明日の夜には体力は完全に回復している事でしょう。それまで微力ながら陰で貴方方を御守りさせていただきます」 
 「で、条件は何だ? 俺は王になる気など毛頭ないのだぞ」 
 「我々に御力を貸してもらいたいのです。貴方様の御命を狙う輩の盗伐に加わってもらいたい,それが条件です」 それにフレイラースが抗議の声を挙げる。
 「ちょっと,前に私達を狙っている奴等の情報を買いに行った時は、分からないって言ってたじゃないの!」 
 「あれから我々は本格的な調査を開始したのです。結果が出たのはほんの二日前ですが、貴方方が何処に潜伏しているか、足取りが掴めなかったもので」 
 「で、何者なんだ? 俺を狙っているのは」 アルバートの言葉にバインは今まで以上に声を小さくして答えた。
 「…スパイラルです」 それにアルバート,フレイラース,そしてネレイドが緊張の色を見せる。
 「やっぱり復活してやがったか、奴等…で、お前達盗賊ギルドの戦力は?」 
 「このブルトンのギルド仲間二百とアークスなどの他都市からの増援が同じく三百,この中には魔導師が多く含まれています。出撃は明後日の早朝、ブルトン郊外の北の広場にて集合,翌日夜半、レガルの村に再集結と言う形を取っています」 
 そして店の雑踏が私達の耳にいやに大きく届く。それをアルバートの言葉が破った。
 「お前の期待通り参加してやる。奴等とアークス王族は因縁みたいなものがあるしな。それに俺達に手を出してタダで帰らす訳にはいかん,だろ、フレイラース?」 
 「ええ、今度は決着をつけなくちゃね」 答えるエルフの顔には決心が見て取れた。
 「ありがとうございます,では手順の方は私の部下から後ほど順を追ってお知らせ致します。あと、御仲間の御二人にここの場所をお伝えしておきましたので。それでは私はこれで…」 盗賊ギルドの男バインは結局一度もアルバートと向かい合う事なく去って行った。
 「無事だったようだな、四人とも」 入れ替わるようにイーグルとイルハイムがやってくる。
 「何処行ってたの? 二人とも。それよりアルバートを狙っている奴等のことなんだけど…」 
 「スパイラルだ、もう知っていたのか?」 ネレイドに答えるイーグル。それに私はずっと抱いていた疑問を口にした。
 「ねぇ、スパイラルって何なの? 私知らないんだけど」 



 アークス皇国が今の姿――すなわち魔法王国と呼ばれる以前――およそ五百年程前のこと。
 この時代はしかし、まだ人々が魔法というものを良く知らなかった時代であった。それよりさらに以前には今よりも魔法の発達した時代があったが、今をもってわからぬ原因で滅び、その遺跡を各地に残すに至っている。
 かつてこの地は少数の農耕民族と亜人,そして魔力を崇め、魔法を盲目的に学ぶ教団が存在した。すなわちこれが今の呪語魔法の起源である。
 その教団の始祖は前時代の生き残りとされているが、やがて彼らは魔導師と呼ばれるようになり、魔道を操る暗殺者を生業とするようになった。
 そして魔道は呪語魔法のみに留まらず、精霊魔術,神聖魔法,果ては霊術と呼ばれる生成と消滅を司る世界の領域にまで手を延ばしたという。
 が、他方でそれらを探求する彼らは偉大な発明、発見をしていった。
 そして当時彼らの研究テーマであった『生成と消滅』,その果てにある生命の起源,不老不死の研究から、人々は畏怖と敬虔の念を込めて彼らを永遠の輪廻『スパイラル』と呼ぶこととなる。
 そんな時代、今で言うザイル帝国からやってきた若者が、当時のスパイラルの長の娘と恋に落ちた。
 彼は農耕民達の王となり、またスパイラルの方針に反対する魔導師達を引き抜いて国を建国した。
 これがアークス皇国の誕生であり、彼こそがカーグ=アークス――アークスT世である。
 アークス皇国とスパイラルとの争いは激戦を極めた。が、長く続くと思われたこの戦いは、予想に反してたった半年で幕を閉じることとなった。
 それはカーグの妻であり、スパイラルの長の娘ラーラの活躍によるとされる。
 ラーラ王妃の説得によって魔導師教団の魔導師達のほとんどがアークス側に就いたと伝えられている。
 こうして暗殺者を生業としていたスパイラルを滅して、逆にそれを戦力,知識力として取り入れた強力な国家がここに生まれたのである。
 しかしそんな太古の歴史は終わっていなかった。生き残ったスパイラルの狂信者達がまだ各地に存在したのである。
 秘密結社と化した彼らを取り締まる術はなく、取り締まるとしても多大な犠牲を要することから長く黙認せざるを得なかった。
 そして教団は細々ながらも暗殺を生業とする団体として、ブルトンの西にある人里離れた山脈の中でひっそりと息づいてきた。
 が、今からおよそ二十年前、新たに教祖というリーダーに就任したラ・ローランド=マークリーにより、スパイラルの活動は活発化。周辺地区の村々に怪物の出現や人さらい、略奪などが横行する。
 逆らったものは皆殺しという過激な考えの基に行動する彼らの恐怖は周辺諸国にまで及んだという。アークス軍も出動したが先発隊全滅という無残な結果に、宮廷魔術師団を含めた大軍隊の導入が決定されるまでに事は進んでいた。
 そこに一人の剣士が現れる。『獣殺し』の異名を持つ大剣を下げた中年剣士・アラン=エリシアンは単身、スパイラルの本拠地に乗り込み、教祖ローランドとその首脳陣達の首を下げて帰ってきた。
 一人の英雄の働きによって、教祖を失ったスパイラルは力を失いそこにアークス軍が介入し、とうとう消滅したと言われていた。



 「それがしっかり残っていたって事ね」 私はパンを一齧りすると、イーグルに言った。
 「話はまだ続くんだ。七年ほど前だったか,スパイラルの奴等がアークス皇国と北の公国の国境にある通称『迷いの森』に腰を据えようとしていたことがあったんだ」 
 「半壊くらいはさせたんだけど、結局逃げられちゃったのよね,これが」 とフレイラース。
 「スパイラルの噂はちらほらとは聞いていたんだ。しかし今度はこのブルトンの北に巣くってるとはな。今回こそ息の根を止めてやるぜ」 言ってアルバートはバインの持ってきた薬瓶の中身を一気に飲み干した。
 「スパイラルは厄介な相手だ。アスカ達を巻き込むつもりはない。契約はここで破棄していいぞ」 親切心からだろう、アルバートの言葉を私は一笑に伏した。
 「何言ってるの? ねぇ、ネレイド?」 
 「ええ、あのガキにここまで馬鹿にされて黙っていられるかって。アルバート,アンタが邪魔しても私はスパイラルを潰すよ,イーグルはどうだい?」 
 「アスカに従うつもりだ」 
 「…という訳。分かった?」 私達に微笑むアルバート。
 「にが〜い、何これ?」 瓶を片手に、フレイラースが苦い顔をして話に横槍を入れた。
 「いいから飲め! 良薬口に苦しって言うだろうが」 
 「でもこれは…毒じゃない?」 ぼやくフレイラースにアルバートは立ち上がったかと思うと、いきなり羽交い締めにして無理矢理飲ませた。
 「ごほっごほ…うえ〜、何すんのよ!」 
 「内容物:マンドラゴラ,セイヨウイチイの実,マーマンの鱗,水竜の舌,キングコブラの毒…強力な体力回復剤だ」 瓶に書かれた文字を読み出したイルハイムの言葉に、フレイラースは机に突っ伏す。
 本当に中身は全部毒なんじゃ,思うが飲むのは私ではないので考えるのを止めた。
 「では出発は明後日だ。それまでに用意をしておいてくれ」 フレイラースに抓られながらのアルバートは私達にそう告げた。



 その夜、彼は苦虫を噛み潰したような顔で私の前に現れた。
 「危険だ、止めろとは言わないが十分に気を付けるべきだな」 半透明の霊体で、元天使長ルシフェルはベットに腰かける私に告げた。
 「例えばどこが危険なの?」 
 「呪術だ。一度これを掛けられるとなかなか解けないことだろう。実際、教団の団員は暗殺の指令を受ける際、その指令自体が呪術だという。目的を遂行するまで血の呪いというものを掛けられ、追い詰められる。他にも死霊を使った魔術なんてのがある。アスカは多分、見た途端失神するのではないかな」 
 「そ、それは怖いわね」 どうも私はグロいものは苦手なのだ。何度かネレイドやこのルシフェルに助けてもらったことがある。
 「でもどうしてそんなに良く知ってるの? 何十年もあの暗闇中に閉じ込められていたのに」 出会った頃のことを思い出して私は言った。
 ルシフェルは闇の精霊界の最も深い所に封じられていたのだ。そもそも精霊界は六つに分かれていて、一番上に光の精霊界,次に火・風・水・土と続き、最後に闇が来る。
 また、光と闇の一部と四大精霊界を通じて他の精霊――例えば精神の精霊などが行き来している。
 この精霊界の成り立ちは我々の世界にすぐ側にある所で遠い所にある。そして我々を大きく左右しうるのであるが、精霊使いならば誰でも知りうるが、一般の人は知る事もない。
 「精霊使いなら分かるだろう? 最も近くて遠い所に精霊界はあるという事を。私は闇を通じて世界を見て来たんだよ」 寂しげに笑って彼は言った。あまり触れて欲しくないようだ。
 「ごめん、変なこと,聞いちゃったね」 
 「気にしないでいい。ともかく、気を付けなさい」 表情を改め、ルシフェルは言い残し消えて行った。



 「アスカ,お風呂入ってきたら? 結構広いわよ」 フレイラースが先程とは打って変わって元気な顔で部屋に入ってきた。
 ゆったりとした服装に着替えた彼女は、相も変わらず頭にタオルを巻いて耳を隠している。
 「早くしないとアルバートやイーグルに先に入られちまうよ」 白色の長髪をタオルで拭きながら、ネレイドが続く。
 この部屋は私とネレイド、フレイラースが泊まり、隣にはアルバートとイーグル、イルハイムが泊まりこんでいるのである。そして今、この宿に一つしかない浴場は女性客の時間なのであった。
 私は二人が入っている間、荷物の番とスパイラルの刺客に備えていたという次第だ。
 「ねぇ、フレイラース?」 同じくベットに腰かけたエルフに私は尋ねる。
 「どうして耳を隠すの? エルフ族ってこと、ばれるのがそんなにいけないことなのかな?」 言ってしまって後悔した。
 フレイラースはそれに黙って俯く。ルシフェルの件にしても、どうも私は無神経であることを改めて思い知る。
 「ごめんなさい,余計なこと言っちゃって。聞かなかったことにして」 
 「…あの人が私のせいで好奇の目で見られるのは耐えられないの。だから」 しかし顔を上げて、フレイラースは私に答えた。
 「確かにエルフ族はあまり珍しい種族ではなくなったわ。でも、やっぱり人間の視線は違う。私は気にしてないけど、その視線をアルにまで向けられたくないの。アルも気にするなって言ってくれるんだけど…ね」 フレイラースの言葉に、私の頭の奥に痛みを覚えた。それはだんだんと大きくなっていく。
 「それは…私?」 痛みはやがて記憶の壁を打ち破り、私は襲い来る過去の記憶に飲まれる。
 闇の記憶,翼,破壊,魔族,精霊と魔法,祖父,友達,冒険,初めて見る人間の街,探求心,そして優しく懐かしい人――ルーン,私の父と名乗るカルス…


 それはまだ肌寒い、冬の道中でのことだった。私はそいつと二人で旅をしていた。
 「いいよな、アスカは」 ある日、そいつは私を見ながらしみじみと言った。
 「何で?」 どうせどうでもいいことを言うのだろう、私は軽く受け流す。
 「僕もアスカみたいに自由に空を飛んでみたいな」 
 「…そんなことが? でもその分、体重を気にしなきゃならないのよ」 
 「それにしては良く食べるよな、君は」 
 「前にも言ったでしょう? 私は太らない体質なんだって」 
 「そうなん? でもどうして翼を隠すんだい? きれいじゃないか,勿体ないよ」 懐かしい人はそう私に言った。
 「目立つのが嫌いなの,私はね」 答える私,でもそれは違う。


 過去の記憶は私を飲み込み、そしてそのまま何処かへと流れて行く。掴もうと思っても掴まる事なくただ流れ落ちるだけ。
 「ちょっと、どうしたの? アスカ!」 肩を強く揺さぶられて私は我に返った。心配そうに二つの顔が私を覗いている。
 「フレイラース,私もね、同じことがあったみたい。でもまた思い出せなくなっちゃった」 二つの顔が不意に歪んで写る。
 「あ、あれ? どうして涙がでるんだろう?」 そして遅れて言い切れない寂しさが私を襲い、涙が止めどもなく溢れた。
 「アスカ,アンタ…」 
 「ご、ごめん。お風呂入って来る」 急に一人になりたくなった私は、ネレイドの止める声を背に、タオルを持って部屋を飛び出した。



<Rune>
 木々の枝には青々とした葉が付き始め、所々の木には花すら咲いている。
 冬は過ぎ、この地にはいよいよ春が到来しようとしていた。
 思えば僕がエルシルドの街を出たのは、雪が降り始めそうな秋の終わりだった。そして、その頃はそばにあの娘がいた。
 「もうすっかり春だな、ルーン」 アーパスが目を細めて言う。西の港町サマートまでの街道,その途中で僕達は木陰で一休止していた。
 日は沈み駈け、早く出発しないと宿場街まで間に合わなくなってしまう。
 「ここはすでに西の鷹公国に入っていますからね。この地方は海に面していまして南から来る暖流のお蔭で冬も比較的温暖なんです。だから春が来るのも早いと」 
 「堅すぎるぞ,ラダー…」 隣ではアーパスとラダーが何やら言い合い、それをアレフが呆れて見ている。
 「お兄ちゃん,眠そうだね」 僕の顔を覗き込むようにクレアは僕の隣に座った。変わることのないその笑顔は僕を昔から安心させてくれるものだ。
 「ん? ああ、ちょっと今までのこと,思い出してたんだ。色々あったなって、思ってね」 僕は答える。
 確かにこの数ヶ月間エルシルドの学院では決して体験できない数多くの事を学び、そして聞いた。もっともそれだけ危険な目にもあったが。
 「ねぇお兄ちゃん,前から直接聞きたかったんだけどさ、お兄ちゃんは何で旅をしてるの? どうして遠見の鏡なんて捜すの?」 クレアは騒ぐ三人衆を眺めながら尋ねた。そう言えば彼女に鏡を捜す目的を話した覚えがない。
 「ある人を捜してるんだよ。僕が不甲斐ないばっかりに魔族にさらわれた人をね」 
 「その人は…生きてるの? 魔族にさらわれたんでしょう?」 言い難かったのだろう,しかし当然の疑問に僕は真実を言うべきかどうか迷ったが、口に出た言葉はこうだった。
 「生きているよ、間違いなく。僕はそう信じている」 理由も何もない説明だった。だがクレアは長年の感からであろう,何かを読み取りにっこり微笑む。
 「うん、私も生きているって信じることにする。お兄ちゃんがそこまで想っているんなら。でもお兄ちゃん,アスカさんってどんな人?」 尋ねるクレア。って、ちょっと待て!
 「どうしてクレアがアスカを知ってるんだ?!」
 「ソロンに聞いたの。で、後を追っかけて行ったら一緒に行動しているって。探しているのはアスカさんなんでしょ、お兄ちゃん?」 見事なほどの情報収集能力と推理力だ、感心してしまう。
 僕は苦笑。素直に彼女の質問に答えることにした。アスカってどんな人か、か…。
 「どんな人…かな? 言葉じゃ言えないなぁ、普通の娘のような気もするけどやっぱり普通じゃないし、そうそう、何だか昔っから側にいたような気のさせる娘だよ」 
 「…それじゃ、どこが好きなの?」 その時の僕はクレアを見ていかなった。そして気付くべきだったかもしれない。いやもし見ていても敢えて気付かない振りをして、この問いには答えなかっただろう。
 「どこって、アスカがアスカだってところかなぁ」 クレアは僕のその答えに、寂しそうに呟く。
 「私も小さい頃からお兄ちゃんの側にいたよね? どうしてお兄ちゃんは私をそのアスカっていう人と同じようには見てくれないの? やっぱりお兄ちゃんにとって私は、ずっと…妹なのかな?」 
 「クレア?」 話の意図が分からず彼女を振り返る。
 そこには見慣れたはずの笑顔はなく、頬に一筋の涙が伝わっていた。それに僕は言葉を失う。
 「私はお兄ちゃんが好き。だからアスカっていう人には渡したくない。絶対にお兄ちゃんの目を私に向けさせるからね!」 吐き出すようにそう言うと、クレアは勢いよく立ち上がり街道を走る。
 「出発しようよ! お兄ちゃん,みんな!」 遠くから手を振り、クレオソートは元気良く叫んだ。
 ともあれ旅の再開である。

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