6-3
ぽくぽくぽくぽく…馬車が揺れる。
「ハルモニアぁ~,何か食べるもの取ってくれ~」 御者を務める青年・オラクルは馬車の奥にいる眼鏡を掛けた女性・ハルモニアに馬を制しながら言った。
「は~い」 幌付きの荷台からは明るい声が返ってくる。
彼ら二人はザイル帝国首都からまずは北へと抜け出し、アークス南公国へ入る。そして東公国周りアンハルト行きの街道を使って、北からアンハルト公国へと考えていた。
そう、彼ら王位継承権をもつ2人は亡命したのだ。現王が寿命により死去し、あからさまな身の危険を感じて、である。
アークスへ逃げることは読まれているだろう,今の状況から経済的に圧迫を掛けてくるアンハルト公国は軍事的にも中立地帯であり、治安もしっかりとしている。
最も何処へ逃げたところで彼ら二人を狙う刺客は消えたりしないのだが。
彼らが城を抜け出して早2~3週間が過ぎていた。その間に運が良いのかはたまた彼らを狙うほど余裕がないのか、二人を追う刺客の姿はなかった。
その為もあってか、彼らは西の公国最南端からアンハルト公国にようやく入ろうとしたところにまでたどり着くことができた。
「はい、あ・な・た」 ハルモニアの言葉にオラクルは荷台から転げ落ちそうになる。
「な、な、何言ってるんだよ」 顔を赤くしてオラクル。
「さっきの宿屋で夫婦ですかって聞かれて、そうだって答えてたじゃないの」
輪切りにしたフランスパンに野菜とハムを挟んだ簡単な料理をオラクルに手渡して、ハルモニアは頬を膨らませて言った。
「そう答えた方が色々怪しまれないだろうが」 オラクルは言い訳のように返す。
「…そう」 溜め息を付き,そして彼女の視線が街道脇の茂みへと鋭く走った。
「オラクル,止めて」
「どうした?」 ハルモニアに答えて、馬車を止めるオラクル。彼女は馬車から下りる。
「ちょっと」
「ん,何だ、トイレか」 呟いた彼の左頭に石が直撃した。
茂みと小枝を掻き分け、ハルモニアは街道から森の中へ数十m移動した。オラクルからは到底見えない地点で足を止め、不意に眼鏡を外す。
途端、あるはずの森の息吹きが止まった,正確に言えば彼女を中心としてかなりの範囲が無音地帯となったと言える。
その彼女に向かって幾筋もの手投げ剣が飛来した。が、それは彼女にぶつかる寸前に中から爆発するように全てが弾け飛ぶ!
彼女はそれらが飛来した方向、彼女を取り囲むようにして包囲した刺客達を見渡した。
「!!!」 音もなく,いや音が出ずにその一人が先程投げた手投げ剣のように中から破裂する!
予想もしない出来事に刺客達にどよめきが起こるが、それすらも無音のままだ。
刺客達が攻撃,もしくは逃げる選択をする前に、ハルモニアは行動に移る。彼女は彼女を囲む彼らに向かって、その金と銀の瞳を向けた。
「クワォクワォ!」 オラクルはその音にハルモニアの消えた茂みを見つめる。
「何だ、カラスか。お、戻ってきたな」 茂みを掻き分け出てくるハルモニア。
「さ、行きましょ」 しかしオラクルは彼女の顔色が青いことに気が付く。
「大丈夫か? 近頃時々お前、青い顔してるぞ。調子悪いのか?」 心配そうに尋ねるオラクルの隣に彼女は腰を下ろす。
「いいえ、そうじゃないの、オラクル」 彼女は馬を走らせようとするオラクルを眼鏡越しに見つめる。
「どうした?」 手を止めて、オラクルは尋ねる。
「ん、何でもない,何でも」 頭を振り、彼女は視線を下に向けた。
「? そうか」 優しげな視線をオラクルは彼女に向け、そして手綱を手に前を向く。
そしてハルモニアもまた街道の先を見つめる。きつい上り坂の向こうに街が広がるように、彼女はいつか全てを明かせることができる自分がいることを信じていた。
<Aska>
月のない、星明かりのみが地上を照らす中、笛の音が山の中に吸いこまれるようにして響く。
風の精霊が、私の横笛の音に呼応するように辺りでダンスを始める。
村外れ、周囲の山々を見渡せる崖に腰かけて私は風にふかれ、笛を吹く。
曲目は…忘れてしまった。ただ、森の恩恵と風の自由を讃える曲であったと思う。
笛を奏でるのは私の趣味の一つだ。もっとも故郷では余り歓迎されはしなかったが。
この曲は私が一番気に入っている曲で、吹いていると今は特にルーンとともに旅をしていた頃を思い出す。
アークスに入る前の、とある宿場街の宿屋のテラスで一人、こうして笛を吹いていたらルーンは何も言わず私の横で聞いていた。
吹き終わると一言,いいね、と言ってくれたのをつい最近のように感じる。
幼い頃、一人きりだった私が唯一心を開いた、近くて遠い優しい人。そして再会して私に新しい世界への一歩を踏み出させてくれた人――ルーン。
不意に私の後ろに気配が現れ、マントか何かが私の肩に掛けられた。私はそれに笛を吹くのを中断する。
「暖かくなってきたとは言え、風邪をひきますよ」 彼,イーグルは優しく微笑みながら言った。
彼には目深のフードは必要がなくなり、今では精悍なディアル系の顔を露にしている。先日の風の精霊門を開いた際、発生した全てを解除する力によって、彼の中から吸血鬼の魔力が消えた為である。
「うん、ありがと」 私は貰ったマントを胸の前で合わせる。冬が終わったとは言え、まだまだ冷気の精霊がこの地に力を残しているのは確かだ。
「笛…趣味なんですか?」 星の光にその金の髪に不思議な光彩を放つイーグル。
「うん、あんまりうまくないけどね」 私は彼を見上げながら、そう答えた。
「俺がかつて仕えていた方も、笛が唯一の趣味でした」 遠く、山々を見ながら彼は思い出すように言った。
「それって、昔いたっていうザイルのお姫様のこと?」 かつてイーグルの噂を聞いたとき、耳に挟んだ情報の一つだ。
「ええ、心も美しい人でした。しかし…結局、俺は彼女を救えなかった」
「…」
私は再び笛を口に寄せる。私が知る数少ない曲の内の一つ,思い出と供に消えゆく人へと贈る曲を……
私は風の転移点で風の扉を開き、風の精霊王に私の闇となる力と存在を認めてもらった後、同じく光に属する炎に認めてもらう為、炎の転移点へと向かっていた。
四大精霊は光と闇より生まれたとされる。光の分子である風と炎,闇の分子である地と水、私は対立するこの二つの精霊に認めてもらうことで真の闇の力を持つ者――闇を紡ぐ者になれるのだと、父カルスより受け取った知識にある。
もっとも私にとっては光も闇もどうでもいいことだ。自分が闇の子として認めてもらうのも本当にどうでもいいこと。
が、認めてもらえれば私は強くなれる。そうすれば母と父を救い出せる。そして行き着く先に必ず現れる――彼と決着をつけねばならない。
それ以上に私はルーンだけは死なせたくない。私達二人がこれからおこなおうとしていること――彼がそれを知ればどうするだろう? どれを選んでも死が待つだけなのならばこの私が……
かつての光の子の気持ち,彼女が何故そんなことをしたのかが今となっては良く分かっていた。
ルーン――幼い頃、いつも一人きりだった私の心を明るく癒してくれた人――
「ちょっと、アスカ,なにぼぅっとしてんのよ!」 肘で脇腹をこずかれて私は我に返る。隣には相変わらず行き遅れを演じる(?)ネレイドの姿がある。
私はアルバート,ソロンらに別れを告げた後、南のササーン王国にある炎の転移点へと足を向けていた。
現在、私達はアークスの熊公国南に位置するアンハルト公国と呼ばれている商業国へと入るか否かの地点にいる。この周辺は山地で、街道はあるのだが結構きついものがある。
が、そんな疲れをもろともせずにイーグル,さらに少年エリアスは足取り軽く私達の後に付いてくる。私はともかく、魔族であるネレイドがへばるのはおかしいと思うが。
なお、ネレイドが魔族であることはイーグルはもちろん、エリアスにもばれている。だが彼らは彼女に何も聞かなかった。
そして私も彼女には今まで記憶を失っていた私の相棒であったように、これからもそうあって欲しいと思う。
とん、私は鼻柱を先を進んでいたイーグルの背中にぶつけた。
「ふみぃ、どうしたの?」 尋ねる私。しかし彼は答える事なく右手に広がる鬱蒼とした森を睨付けている。
「死臭ね。エリアスとアスカはここで待っていなさい」 ネレイドもまた鋭い表情で言うと、イーグルを伴って茂みの中へと入って行った。
「死臭? エリアスは気付いた?」 しかし少年は首を横に振る。
「僕は魔獣召喚以外、普通の人と同じだから…特別な感覚はないからね」
「普通そうよね」 比較的早く、二人は茂みの中から戻ってきた。心なしか顔色が青い。
「どうだったの?」
「行きましょう、アスカ」 イーグルは一方的に言い放ち、私の背を押す。
「ちょ,ネレイド、一体何が?」 私のその問いに、彼女は小さな声でぽつりと呟いた。
「しばらくハンバーグが食べられそうもないわ」
「聞いた私がバカでした」
こうして私達は小さなことには構わず一路、中継点であるアンハルト公国目指して再び歩き始めたのであった。
<Camera>
龍公国首都アンカム。央国首都アークスより南に70kmばかり行ったところにある全体的に優雅で華やかな造りの都市である。
ガートルートの城塞都市とは対照的であるこの都市では、その印象にはそぐわない戦士や傭兵,そして必要以上の騎士達が集まっていた。
都市の北側にそびえる剛健優雅な城――そこに現在の龍公は腰を下ろしている。
若干四歳の第四王子ゲラルドとその母親である王妃リラ,そしてそのリラの弟であるゲラルドの叔父フラッツ。現在の執権はフラッツとリラにあると言えた。
そのフラッツはかつては前龍公が腰を下ろしていた執務室の主となって、その似合わない口髭をいじりながらリラを前にして頭を痛めていた。
「まずい、まずいぞ,何でお前はブレイドに暗殺団を仕向けたんだ!」
「あのブレイドは次期龍公になる資格を持っているのよ,熊公国をご覧なさいな、ヌーガンシュ殿の娘とか名乗る遠縁の者が次期熊公に就任したじゃない! ザイル帝国にあれだけの侵入を許した私達を、アークス王が放っておく訳がないでしょう?」
「アークス王なぞ問題ではないのだ,あの方は我々には介入してこない。謀反を起こしたわけではないからな! 私が恐れているのはローティスのことだ」 言って三十代後半の男は頭を掻いた。
「あんな小娘に何ができるの? あんたはあの娘を買いかぶりすぎよ。現にドライクすら守れなかったじゃない!」 なお、第一から三までの王子はリラの子ではなく、先妻オーフィの息子であった。
「守れなかったのではない,見捨てたのだ。ドライクのことだ、無茶な用兵をしようとしたのだろう。それに現に、アラート様もあの娘の忠言を聞いていれば死ぬことはなかったはずだ」 アラートというのは前龍公のことだ。頭は固いが、豪胆で部下思いの人柄であった為、慕う者は多かった。
しかしフラッツの言葉にリラは軽く失笑する。
「いくら求婚してフラれた相手だからって、そこまで買う必要はあって? 所詮は小娘一人、どうということは…」
「ローティスはアラート様が自ら出向いて士官させたのだ。しばらくドライクの下にいたのもアラート様への一応の忠義だろう。その女が自ら進んでブレイドの下に就いたのだぞ,ブレイドを守る為ならどんな手でも使ってくるに違いない」
「なら、やられる前にやればいいのよ。簡単なことね」 言い捨て、リラは執務室を後にする。
「まて、姉さん!」 しかしフラッツの言葉は閉じられた扉に届いたに過ぎなかった。
熊公国首都ブルトン――その公王の椅子には一人の二十代前半の女性が腰を下ろしていた。
名をティターナ=アントラント――前熊公とは遠縁の者であると言うが定かではない。
青い瞳にこの地に住まうスーフリューの民族である証明と、そしてそれ以上にその強気な表情,全体から醸し出される気品はヌーガンシュ以上の器の大きさが感じられた。
実際、旧・新の熊公臣下のほとんどは彼女に絶対の忠誠をすでに誓っている。
そしてその前にはアークス騎士団のクラール=シキムとシュール=アイセの二騎士団長が跪いていた。
「この度はお世話になりました。アークス本国に対し、このティターナ=アントラントは忠誠を誓いましょう」 本国と言う辺りに彼女のアークスへ対する態度が現れている。
「では我々はこれにて」 クラールが立ち上がる。そして彼女の脇に控える若者に視線を移した。
「ところでライナー殿はいつ本国へお帰りになられるのですかな? 御父上から何度となく帰還命令が来ていると聞き及んでおりますが」 聞かれて虎公第二王子・ライナー=アルフレアは微笑んで答えた。
「それはおそらく聞き間違いでしょう。私は隣国であるこの熊公国が安定するまでティターナ殿の力になるよう、命を受けておりますので」 北の民族ユーイに特有の茶色の髪を掻きあげ、ライナーは言う。それはクラールの予想した通りの答えだった。
「そうですか、それでは」 二人は下がる。そしてティターナもまたライナーと供に、部屋を後にした。
「クラール殿、先程は何故あのようなことを?」 剛身の女騎士シュールはクラールに尋ねる。
「ライナー殿のことか…知っておるだろう?」 しかしシュールは何の事だか分からず首を横に振る。
「ライナー殿の父上――現虎公だが、ライナー殿がこっちで仕事をしている間に勝手に縁談の手続きを進めていたようなのだ。相手はライナー殿も良く知る者ではあるそうだがな」
「ほぅ、それで?」
「彼としては本国に帰ればおそらく、あの性格からして断わり切れずに結婚させられてしまうであろう」
「いいのでは? もう二十五歳と言うし、あれだけの才能と容姿があるのだ。そろそろ腰を落ち着けたほうが良かろう」 しかしシュールは実際他人ごとなので軽く答える。
「まぁ、この国に来られる前までならそれで良かったかも知れぬが…」
「何かあったのか?」
「…あんたなぁ、あれだけ二人の側にいて気付かなかったのか?」
「何を?」 呆気なくシュール。
「まぁ、そういうことで大変だなぁということだ」 語尾を濁すクラール。
「しかし公家同士の結婚は固く禁じられているぞ」
「分かってんじゃないかよ! だから大変だなと言っているんだ」
大きな勢力を作ることを防ぐ為、公家や王家同士の繋がりは暗黙の了解の内に禁じられている。だがクラールは2人の男女を、今回の件で良く知って知ってしまった為に、何とかしてやりたいと思っていた。
おせっかいというか……もっともこんな人間らしい一面が、彼が部下に慕われる一因でもある。
「何だ、そんなことか」 あっけなくシュール。
「そんなことで済むことなのか?」
「ああ、そういうものはなるようになるもんだ。放っておけば良い」
「…まぁ、俺達がどうする訳でもないんだが」 しかし、まぁ所詮は武闘派の二人だった。
左手に海を一望できる崖を、右手に切り立った岩壁を手に当てながら二人は細い岩肌の道を行く。晴れ渡った空の下、燦々と夏を思わせる日差しが照り付ける。
サマートより半日北に歩いた森の奥、海に面した標高2000m程の岩山と、それに連なるように緑に乏しい山々が続く。その岩山の山頂付近まで彼らは到達していた。
「大丈夫か? クレア」 黄色い神官着を来た前を行く女性に男は声を掛ける。
「平気よ、何度か来たことあるし」 そう言葉を紡ぎ出した途端、突風が吹き付ける!
「危ない!」 アレフはクレアを崖に叩き付けた。豪快に彼女の額が岩にめり込んでいる。
「ぬぁにすんのよ!」 風が止んだ途端、クレアはアレフにボディブローをかます。
「お、お前は……もういい,早く行こうぜ」
やがて道は平坦なものとなり、木々が辺りを囲むようになった。
「植えられたもんだな、この木は。こんな岩だらけの山頂にあるはずねぇ」
「規則正しく植えられているのよ,木の結界ってとこかしらね」 クレオソートは付け加えた。と、音もなくその首筋に槍が突き付けられる。
「動いたらあかんで,そこの戦士。動くとこの娘の命がないと思ぃや」
どこから現れたのか、薄紫色のゆったりとした神官着を着こなした、十代前半であろう,はっとするような美しさを備えた女性が、手にした槍をクレオソートの首筋に突き付けてアレフに警告した。
「?! いつの間に?」 隙あらばとアレフは懐の短刀に手を掛けるが、彼女に一分の隙もない。
紫紺の瞳に同色の腰まで流した長い髪。神官着の上から装着されたいぶし銀色の胸当ては龍の彫り物の意匠が施されている。
真一文字に結んだ唇と険しい瞳を見つめたクレアは小さく苦笑。その隣で額に汗する盗賊との対称がなんだか情けない。
「私の名はクレオソート=マイア,そうゾラ様に伝えてくれれば分かるはずよ」 槍に突き付けられながらも、クレオソートは平然とそう言う。
「…ゾラ様の名を知る者? ここで待っとき」
しばらく女性は考えた後、槍をクレオソートから放し、木々の奥へと駆けて行った。
「何なんだ、この俺が気配を感じないなんて」 肩を撫で下ろすアレフ。
「まぁ、あの人は人間じゃないし。仕方ないんじゃない?」 クレオソートは別段驚くでもなく、彼に言う。
「人間じゃない? どういうことだ?」
「人の娘,ゾラ様がお呼びや。この先を真っ直ぐ行きぃ」 再び、今度はアレフの背後を取る女神官。戻ってくるのが妙に早い。
「じゃ、そういうことで。待っててね、アレフ」 片目をつむり、クレオソートは木々の間の小道を歩いて行った。
「お、おい、待てよ!」 追おうと足を踏み出そうとするアレフの胸に槍が突き付けられる。神官のものだ。
「あの娘だけやさかい。あんさんはここで待っててもらうわ」 一方的な、しかし絶対のものを含んだその言葉に、アレフは仕方なしに従うしかなかった。
すぐにクレオソートの後ろ姿は木々の間に見えなくなってしまう。
「…しょうがない,で、君、名前なんて言うの?」 態度を一変させて、アレフは槍を突き付けられているにも拘らず、女神官に妙に馴れ馴れしく尋ねた。
「は?」
「君のように美しい人に出会えるチャンスなんてそうないから。迷惑だったかな」 憂い顔でのたまうアレフ。完全に街中ナンパモードに突入している。
「美しいって…あんさんなぁ」 呆れたように女神官。しかし槍の先は未だアレフの胸の前である。
もっとも当初の理由から違うそれへとすでに変わっているかも知れない。
「でもまぁ、そう言われて嬉しくない女性はおらへん。ウチはメイセン,尊師ゾラ様を御守りする青龍が一族の女や」 小さく微笑みメイセンと名乗る彼女は言った。
「メイセンか、君に似合った可愛らしい名前だ……って青龍というのは?」 彼女の言葉をもう一度頭の中で反芻し、そしてアレフはじっと彼女の顔を見つめた。
クレオソートは木々の間を進む。彼女には見える。これらの木々が奥に住むものを守ろうという意志を持っていることが。
そして目の前に洞窟がぽっかりと口を開いていた。クレオソートはためらう事なくそこに足を踏み入れる。
不意に薄暗かった洞窟に明かりが灯る。広めの洞窟にそれは寝そべっていた。
「お久しぶりです、尊師ゾラ」 彼女は微笑んでそれに言う。
「遥々ようこそ、クレア。このワシに何か御用かな?」 魔法光を五つ、その周りに浮かばせて、体長8mはあろうかという歳老いた白き龍が優しさを伴ったその言葉でクレオソートに尋ねた。
「御聞きしたいことがあるのです」
「ほぅ、神語百遷を若くして難なく極めた御主でも分からぬことか。申してみよ」
「はい。光の子について教えて頂きたい」 クレオソートのその言葉に、白龍ゾラは澄んだその黒い瞳を閉じた。
「光の子…光を統べる存在,大いなる意志による力,滅亡と生成,人柱という名の英雄,試される存在,光を紡ぎし者,光と闇,四大精霊との調停,転換期,愛し、愛される者,全てを滅ぼし、全てを救う者,二つの魂の繋がり,そして自由…」 それだけ言うとゾラはその瞳を開く。
「数千年前の記憶だ,それも人伝えの。すでに私の記憶では断片的な単語しか残っておらん」
「ありがとう御座いました,尊師ゾラ。それでも十分参考になりましたわ」 言葉を裏腹にクレオソートの顔色は冴えない。
知りたいことを十分知れなかったからではなく、少なくとも光の子に対して良い評価はないことを知った為であろう。
「クレアや。御主の行く先には……いや、行こうとしている先にはおそらく多くの困難が待ち受けているであろう。その中でお前の愛する命をも多く落とされることだろう,それだけならまだ幸せかもしれん。少なくとも厳しいものが私には見える。それでも御主はその男に付いて行こうというのか?」 どこまで知っているのだろう,ゾラのその言葉にクレオソートは数瞬間を置き、そして頷いた。
「未来を作るのは自分自身ですから。私は自分の信じるところへと進み、全力を尽くしたいのです。それならば……後で後悔することもありません」 真っ直ぐな瞳でクレオソートはゾラを見つめた。沈黙の後、ゾラはその龍の瞳に微笑みを浮かべる。
「大きくなったの、クレアや。そして強く。もうワシの予知の瞳では御主を見出すことはできなんだ。御主にそこまで想われるその男が羨ましいのぅ」
「私にとって一番大切な人だもの」
「そうか。御主の行く先に必ず満足行くものがあることをここで祈っておるよ」 好々爺の瞳でゾラは少女を見つめていた。
「ありがとう,ゾラおじいちゃん。また…会えたらくるね」 クレアは言い、龍に背を向けた。その背に向かって白龍ゾラは告げる。
「メイセンを連れて行くが良い。世間知らずの若者だが、御主の力となるはずだ」
「メイセン? あの神官のこと?」 振り返り、クレオソートは尋ねる。
「ああ、青龍の娘だ。あの娘にも御主の行く道を見せてやってくれ」
サマートの船着き場に一人降り立つアーパスを、銀色の筒を陽光の下にさらした青年が笑顔で向かえた。
「ラダー,あとの二人は?」 暖かな海風に長めの金色の髪を掻きあげながら、アーパスは青年――ラダーに尋ねる。
「用事ができたそうで,今日中には戻ってくるとは思いますが。それにしても早かったですねぇ」 天頂で燦々と輝く太陽に細い目をさらに細めて、ラダーは答えた。
「ルーンは降りてこないようですが?」 いつまで経ってもやってこないもう一人の仲間を、彼は不思議そうに首を傾げる。アーパスはそれに彼の横を通りすぎながら答えた。
「海賊達の件はケリが着いた。水の祠なんだが、人魚薬が一人分しかなくてな,ルーン一人で行くことになった。俺達はさらに留守番って訳だ」
「そうでしたか……しかし、よろしいのですか? 貴方はあれほどルーンを水の祠に行かせたがらなかったのに。止めないのですか?」 剣士の後ろ姿にラダーは問いかける。それにアーパスは足を止めた。
「あいつはアスカを捜している。確かに水の祠にその手掛かりがある。旅の目的が確かである以上、俺はルーンを止めることはできない」
「結果、光と闇の饗宴という死地へ送り込むことになろうとも…それでも構わないと判断したのですね」 ラダーの自らへの問いかけにも似た呟きに、明らかにアーパスの表情が驚きのそれに変わる。
「ラダー,お前?!」
「まぁ、そんなところです。言ったでしょう? ルーンの光を信じてみたい、と」
「確かに仲間であるアーパス=ブレッドとしては止めることができなかった。しかし守り人として……試させてもらう。その結果に全てを委ねたということだ」
寂しそうに、アーパスはラダーの後ろ――永遠に広がる様に思われる広大な海を振り返って、そう呟いた。
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