6−4


 三日月と星々が天高く輝くその晩、僕はミースに連れられ二人、小さなボートでアジトを発った。
 「しばらくシリウスに向かって漕いでね」
 波の静かな海、僕はやっぱり慣れない手付きでオールを漕ぐ。僕の正面では眼帯を外したミースが揺れるランタンの灯りの下で海図を眺めている。
 「はい、ここいらで右旋回」 
 「ま、まだ?」 
 「漕ぐの遅いよ」 ミースの呆れた声が返る。だったら代わって欲しい…
 そしてアジトを出て二時間程、延々と漕ぎ続けた頃だった。
  ―――月の光、海の囁き,貴方は今どこにいるの?
  私は水、形なきもの。この姿を変えて、時すらも越えて
  きっと貴方の元へたどり着くわ。だから待ってて、そして探して。
  伝えられなかった言葉を伝えたいから―――

 ふと漕ぐ手を止める。竪琴の音と供に聴く者をひきつける歌声が聞こえてきた。
 「これは…呪歌だね,人魚かな」 
 「元も子もないわね。あんたには芸術を慈しむ心はないの?」 しかし微笑みながらミースが言った。
 聞こえてくる歌は魅了の歌――旋律の中に魔力を込め、聴く者を虜にするという呪歌に属する魔法だ。
 あいにくミースの言う通り、僕にはそんな心がないので効かない。
 「まぁね、でも人のこと、言えないだろ」 
 「ごもっとも」 肩を竦めるミース。
 「でも、悲しげな歌だね」 同じような雰囲気を僕は思い出す。
 そう、アスカの笛の音もこんな感じだ。今頃何をやっているだろう? まだ魔族に捕まったままなのだろうか? もしそうならば逆に無事には違いないが。
 そして歌の元――海に突然浮き出た小さな岩礁にたどり着く。
 雲一つない三日月の明かりの下、目を閉じ竪琴を弾きながら歌う一人の人魚を囲むようにイルカ達がゆっくりと泳いでいた。
 「?」 その横顔は何処かで見たことがあるような気がする。金色の長い髪に端正な顔立ち、青い尾ビレに同じ色の薄青い上着を羽織っている。
 人魚は僕達の気配に気付き、瞳を開く。そして視線は僕の前――ミースに止まった。
 「久しぶり,ミース! 御無沙汰だったじゃない」 
 「フフフッ、色々と忙しくてね。アーシェも元気そうで良かったわ」 年頃の娘に相応しい笑顔を見せるミース。アーシェと呼ばれたこの人魚はミースとかなり仲が良いようだ。
 人魚の視線が僕に向いているのを感じて目を向ける。彼女は何かを考えているようだったが、ふと手をポンと打った。
 「ミースの彼氏か、その人」 
 「違うわよ」 ミースの即答。ちょっと虚しさが僕の心に流れた。
 「この人を水の祠まで連れて行って欲しいのよ」 彼女のその言葉にアーシェは困ったような顔をする。
 「ミースは知らないのね。5年くらい前にある人間が荒らして以来、私達の街には人間は入れないの」 
 「知ってるわよ,そこをなんとかならないかしら? 途中で見つかろうが捕まろうが、アーシェは逃げてくれれば良いから」 こらこら、心の中でツッコむ。
 「そこまで言うのなら良いわよ。元々断わる気はなかったし」 僕から視線を移す。
 「あら、どうして?」 不思議そうにミースは尋ねた。
 「私の呪歌に引っ掛からない男なんて、やっぱり気になるじゃない。それになんか私の六感に引っ掛かるし」 再び僕を見つめながら彼女は言った。
 「私はアーシェ,貴方は?」 尋ねる人魚。
 「僕はルーン=アルナート。よろしくアーシェさん」 
 「よろしくね♪ じゃ、行くわよ」 言って岩場から海に飛びこむアーシェ。
 「さ、これを飲んで」 ミースは小さな瓶を取り出す。
 僕は掌を広げると残り一粒の黒い丸錠――人魚薬を受け取り一気に飲み干した。
 「効能は半日,それから海の民の言葉も話せるわ。決して下では共通語を使っちゃ駄目よ,いい?」 
 「OK,人間であることがばれなきゃいいんだろ?」 
 「そゆこと。明日の昼にここで待ってるわ。じゃ、がんばって」 
 「サンキュ」
 言っている間に僕の体に変化が起こる。足が尾ビレに変わり、首筋にはエラが、指の間には薄いヒレ代わりの膜ができる。
 「さて、行くか」
 そして僕は黒い海面を見つめる。何もかもを飲み込んでしまいそうな、沈んでしまえば浮かんでこない――そんな錯覚を覚える。それを振り払い、飛び込んだ。
 「ズボンを忘れないでね」 ミースの声が海上から聞こえてくる。
 「あ、息できる」 当たり前のような、しかし普段はそうでない事実に多少の混乱。
 「ちゃんと泳げる? 行くわよ」 ただ暗いだけの水の中、アーシェの金色の髪が月の光に照らされ、僕の目を闇に馴染ませる。
 「泳ぎは何とか…でも暗くてどうにも」 
 「馴れるわよ,付いてきて」
 海の底へ向かって先行するアーシェを僕は馴れない泳ぎで追う。ふと海面を見上げると去って行くミースのボートの底が見えた。
 「半日…何とかなるかな」 暗闇に馴れてきた目で、僕はアーシェの青い尾ビレを追って海の底を深く、深く沈んで行った。



<Camera>
 彼は異様に苦い紅茶の入ったカップを片手に、新聞を読んでいた。その新聞の端、誰もが読み流す小さな記事に眉を細めている。
 『占星術師マチルダ=ナムチ、自宅にて自殺』 と題されたそれは、決して彼の知る人物ではない。
 が、彼は気が付いている。最近多くの占星術師を中心とした占い師達が狂気や自殺に走っているとを。
 それも実際に力のある術師達が、である。こういった職業はペテンが大部分を占めているので気が付く者でないと気付かない。
 「何かが起こるな,とんでもないことが」 彼は誰ともなく呟いた。
 真昼の暖かな光が中庭に面した部屋の中を包み込む。梅雨を知らせる湿気を帯びた風が吹き込み、その場にいる四人の間を吹き抜けた。
 「何が,アル?」 その彼の隣で新聞を覗くようにしていたエルフの女性が尋ねる。
 「カンムリッジ天文台の天球儀が何の前ぶれもなく砕けたそうよ」 静かに、こちらはコーヒーを口にした女性だ。ショートカットの黒髪を僅かに揺らせて、フレイラースへ王子に代わって答えた。
 天球儀とは天の星座図を球として表したものだ。カンムリッジ天文台はアークス西部にある学術機関であり、星とそれが地上に及ぼす影響を調べている有名な建物だ。
 そしてそこで使われる直径10mの天球儀もまた、星の動きを学ぶ者ならば誰でも知っている。
 「天が語っているのだ。滅びを」 新聞を読む男の横で同じように腰を下ろすフードを目深に被った男が、低い声で合槌を打った。
 「だろうな,シリアとイルハイムはこの件に関して調べてみてくれないか?」 
 「内密に…かしら?」 カップをテーブルに置き、中庭に出るシリア。青空を見上げ、眩しげに目を細める。
 「ああ、シシリアの動きが気になる。何か隠していそうだからな,気を付けろよ」 
 「隠しているとすれば、それは悪いことだろう,我々が知りたくもない、な。あの方はなるべく他に迷惑が掛からないように事を処理する」 
 「ほぅ、イルハイムらしくないな。人をかうなんて。まぁシシリアはそういう奴だかから…しかしあいつの周りの人間はそうとは限らない……」
 厳しい目で彼は新聞を見つめた。そこから見えない答えを導こうとでも言わんばかりに。



 彼女は羽ペンを紙の上に置く。
 ガートルートの復興はこの短期間に驚くほどの成長を遂げた。それは元々この土地が通商上の要地であったことにも起因するが、法をかなり甘くし、税を軽くしたのがその原因の主なところかも知れない。
 それに比例して治安も下がってきてはいるが、それに関してはガロンやケビンといった者達がいるので落ちるところまで落ちるということはないだろうと、彼女は踏んでいる。
 今、最も彼女の不安材料であるのが同僚の状態であった。
 セレス=ラスパーン――アークス王家御用足しの商家ラスパーン家の長女,もとい次男として復讐の為に騎士になった親友。そのセレスが彼女に対して一通の置き手紙を残してこの地を去ったのである。
 「セレス…一人でできることには限りがあるのよ」
 カーテンすら閉め切った暗い部屋。
 彼女――ローティスは残されたその手紙を懐から取り出す。そしてそれを蝋燭の炎に近付けた。
 一瞬、明るい光を放つとそれはゆっくりとその形を白い灰とし、この地上から消え去った。ローティスはそのまま蝋燭の炎を見つめ続ける。
 「貴方の行く道に幸あらん事を…」 
 そしてもう一つ。ブレイドは彼女が守らなくてはならない。戦いは戦いでも剣での戦いではなく、駆け引きの戦い。
 「…ブレイド」
 彼女は思い出す。あの時、死を恐れたのはブレイドの優しさを知ったから,自分に向けられるそれを失いたくはなかったから――だから『死』を恐れた。
 「馬鹿ね、私は」 寂しく微笑み、両手で自分の肩を抱く。
 突然、暗い部屋の扉が勢い良く開かれる!
 「ローティス,飯食いに…」 
 「ノックくらいせんか、ボケェ!!」 燭台が扉を開けた青年の顔面に炸裂する!
 「…ここまでやるか」 額から赤いものを流しながら、青年――ブレイドは呻きながら額を押さえた。
 「やっぱり女性の部屋なんですから、ノックはしないと」 その後ろでキースが諫めるように言う。先に言わない辺り、彼らしい。
 「しかし何でまた…あら、もうお昼ね」 扉からの日の光に、眩しそうに目を細めて彼女は呟いた。
 「氷室が先日城を出て行きましたよね? 何でも下町でウェイトレス始めたそうで、安くするから是非とも来てくれって」 キースは立ち上がるローティスに告げた。
 「へぇ、あの娘がウェイトレス…やっていけるのかしら?」
 ローティスは彼女の無表情な顔を思い出す。あの顔が笑っているところを見てみたい気もする。
 「それじゃ、行きましょうか。団長殿のおごりで、ね」 
 「そうですね」 どさくさ紛れのキース。
 「おいおい、ワリカンだぞ,聴けよ、こら!」 ブレイドはさっさと行ってしまう二人の背を追った。



 セレスは馬を止め、振り返る。復旧を遂げたガートルートの城壁が彼女の目の前にそびえ立っていた。
 「…さようなら」 無表情なその横顔に一瞬陰りを見せ、彼女は城壁を背にする。
 「ハッ!」
 彼女は南に向かって馬を駆る。その砂煙の後にはアークス騎士副官の襟章が主を失い、地面の上で輝いていた。



 「お待ちしておりました、社長」 眼鏡を掛けた中年の男が彼らを出迎えた。
 商業国アンハルト公国――列強大国の境にあるその小さな国は、微妙な立場を利用して自立し続けてきた商人の集う国である。
 その首都・ロンには多くの商店が立ち並ぶ。彼ら二人はその数多くの商店の内のついこの間、新しく居を構えた商店へと足を運んだ。
 アルマ運輸――魔道によって確立された情報網を利用して設立された多くの仮想会社の一つ。その創立者であるオラクル=フラントは数ヶ月前、会社を現実世界へと移したのである。
 とは言っても、やはり現実に商品や金が目の前で行き来することはなく、専ら会社のオフィスにはネットに参加するための端末,及び伝票が置いてあるだけではあるが。
 「首尾はどうだい? アラムス」 
 「公国が帝国に対し、経済封鎖を始めております。まだ声明は発表されておりませんが」 アラムスと呼ばれた中年は答える。
 「そうか。あ,ハルモニア、君は実際には会ったことはなかったよね。紹介しよう,アルマ運輸の副社長さんだ」 馬車から下りて、オラクルは隣の少女に中年男を紹介する。
 「お初にお目にかかります,アラムス=リーバと申します」 
 「ハルモニア=シーレです。お名前は仕事上お聞きしておりますわ」 
 「私もです。思っていた以上にお美しい……ですがお二人とも、ここでは実名をお使いにならない方が宜しいでしょう。盗賊ギルドの目は鳶の様に鋭うございますから」 
 「そうですね,あら、後ろにいらっしゃるのは?」 ハルモニアはアラムスの後ろで様子を伺っている影を見つけて、尋ねる。それを聞きつけたのだろう、『彼』は姿を現した。
 「お初荷お目にかかりますです。イーザ=ガランといいますです」 
 「君が…イーザさん?」 オラクルも会うのは初めてなのであろう,多少驚きながら尋ねた。
 「はい,宜しくお願いしますです」
 トカゲの頭とシッポを持ったリザードマンの彼はそう、おそらく微笑んだのであろう,人間にとっては慣れない笑みを浮かべて答える。
 「さ、中へ。イーザ,馬車を頼みます」 
 「はいです」 アラムスに答え、イーザは馬車に乗り込むと建物の裏へとひいて行った。
 「どうぞ,客室を用意してありますので」 アラムスに導かれ、二人はアルマ運輸の三階建てビルへと足を踏み込んだ。



 暦の上では春を向かえてはいるが、ここザイル帝国首都は内地にある為、まだ残雪すら残っている。
 ザイル帝国国王死後およそ二ヶ月が過ぎ、ようやく王族達の間にあった冷たい氷は消え去ろうとしていた。
 氷のように冷たい、幾多の血を吸ってきた王城の石畳を黒い鎧に身を包んだ第五王子ガルダ=フラグマイヤーは踏みしめる。
 その後ろからは白い仮面を付けた黒の魔女レイナと、この場に似合わない熊のぬいぐるみを抱えた七才くらいの幼い少女が付いてくる。
 やがて騎士は石畳の先の大きな両開きの扉の前に行き着く。
 途端、その扉は開かれ、騎士や文官達が両側に並ぶ赤い絨毯が一つの玉座へと導いた。
 黒き騎士ガルダはその様子を一瞥し、真っ直ぐと玉座へと向かうとそれに腰を下ろす。
 そしてその両脇には付いてきた二人の女性が控えた。
 ガルダは彼の前に跪く数百の騎士,文官を見渡すとよく通る声で告げる。
 「レード虎軍将軍,貴公に虎軍2000を与える。南部タスタリアで陣を構える反逆者ブラッド=フラグマイヤーとその一派を殲滅せよ」 
 「ハッ!」 前の方に控えていた騎士の内の一人がそれに立ち上がり、部屋を出て行く。
 「ナーカス=リー,お前を宰相の職に命ずる。アンハルトと壊柔せよ。それができぬのならばここから去るが良い」 その言葉に白い髭を蓄えた初老の男は立ち上がる。
 「仰せのままに。必ずやよい結果を陛下に」 そして再び跪く。
 「うむ、後の者は命のあるまで待機せよ,私の為ではなく、このザイルの為に大いに働いてもらうぞ」 
 「「はっ!」」 その様子をガルダは満足気に見渡し、席を発った。



 玉座の後ろにある会議室――そこにはガルダと少女、仮面の魔女及び中年の騎士と黒いマントを羽織った青年が集まっていた。
 「では、お前達が消すことができなかった血族はあと2名いるということか」 ガルダの感情のない言葉に騎士と青年は敬礼したまま硬直する。
 「オラクル=フラントとハルモニア=シーレ。男の方は生かしておいても害はなさそうだが、女の方は血が濃い。必ず始末せねばなるまい。ゼナ,お前の部下を使っても駄目だったのか?」 問われ、マントの青年は顔を上げる。
 「ハッ…精鋭を三度に分けて放ったのですが…その全てが全滅致しまして」 
 「グラハよ、お前の部隊を第二王子ロアーを消す為に送りこんだろう? その際にこのハルモニアもいたと報告されているのだが」 それに対して中年騎士は弁解するように答えた。
 「事前にご報告したと思いますが、我々が向かった時にはすでにロアーは…」 彼らが手を下すまでもなかったのである。すでに踏み込んだその地は赤く染まっていたと報告を受けている。
 「ではこの二人に強力な何かが憑いているということか? 名のある騎士達を一瞬にして屠り、神さえも恐れると言われた『暁の暗殺団』を一蹴するほどの!」
 自虐的な笑みを浮かべ、彼は机を叩きつける。それに二人は沈黙した。
 「ガルダ,あたしがやってあげようか?」 無邪気な笑顔で少女は騎士に尋ねた。
 「…やってみろ,エルーン」 
 「うん、じゃ,まずはこのハルモニアって娘から…」 ガルダの手から二人の似顔絵が書かれている紙を少女は受け取り、代わりに熊のぬいぐるみを彼に渡す。
 少女は青い瞳でハルモニアの似顔絵を凝視する。やがて彼女の瞳に蒼い光が宿り…
 「!」
 不意に少女の小さな体が見えない何かに突き飛ばされ、そのまま石の壁に叩き付けられた! 悲鳴をあげる余裕すらなく、少女はうずくまる。
 「…あながち何か憑いているというのは嘘ではないようだな。エルーンですらこうならば、人間を挽き肉にするくらい……訳もない」
 壁を背に一人咳き込む少女を見ながら、ガルダはゼナと呼ばれた男に視線を移す。
 「オラクルという男を殺せ,お前の考え得る最も惨い方法でな。ハルモニアを精神的に追い込むのだ。できれば生かして連れて来い」 有無を言わさぬその命に青年は無表情に頷き、部屋を出て行く。
 「では私は?」 グラハが言う。
 「アンハルト公国にザイルの騎士が無断侵入する訳にはいかんだろう?」 
 「そ、そうでした」 畏まる騎士グラハ。
 「それに、もうお前には用はない」 
 「は?」 その言葉に呆けた表情のまま、騎士の首は床に落ちた。
 ガルダは懐からハンカチを取り出し、剣を拭う。その様子を魔女レイナはテーブルに腰かけながら冷たく見つめる。
 「恐ろしい人ね、本当に。ハルモニア姫を捕らえてどうする気かしら?」 
 「強い者には強い血が必要だ。違うか?」 
 「違うわ,自然の摂理はそうは言っていない」 
 「ほぅ、君が自然崇拝者だったとは初耳だ」 剣を納め、ガルダは微笑む。
 「エルーン姫の魔力をも跳ね返す強力な力を、貴方に押さえることができて?」 
 「私にできないとでも言うのかね?」 それに魔女は首を横に振る。
 「力を押えつけるのは力だけではない,それは人にも言えることよ」 冷たく言い放ち、レイナはその姿を虚空へと消して行った。
 「行くぞ、エルーン」 虚空から視線を外したガルダは残る一人に告げる。
 「う…ん」 おぼつかない足取りで立ち上がるエルーン。白い額に掛かる金色の長い髪の間から、一筋の赤いものが伝わっていた。
 「…」
 ガルダは少女に歩み寄る。それに少女は笑みを作って見せるが、無理をした幼い子供の演技でしかなかった。彼はエルーンを抱き上げる。
 「ガルダ?」 思いもしない行動に、戸惑い顔を赤くするエルーン。
 「じっとしていろ」 
 「うん…」
 目を閉じるエルーン。そして彼らもまた、騎士を一人残したまま部屋を後にした。



<Rune>
 「こっちよ」 アーシェに腕を引っ張られ、僕は神殿のような建物に連れてこられた。
 「貴方、何か武器持ってる?」 
 「え、あ、うん。短剣を一振り」 言って僕は懐の短刀を見せた。氷室に貰ったものだ。
 なおイリナーゼはアレフに預けてある。水の中では剣は振れないと判断した為だ。
 「ま、いいわ。まず門番が二人いるからそれぞれ気絶させるわよ。OK?」 
 「OK…」 良いのか、強硬突破して?
 「神殿は女性だけが出入りできるの。だから強硬突破な訳。それとも女装する?」 顔に出ていたらしい。僕は慌てて首を横に振った。
 物陰から一階建ての神殿入口を見る。そこには二人の三又の矛を構えた女性人魚がいた。しかし遠目で見ても欠伸しているのが分かった。
 「私は右,貴方左ね。行くわよ」 分かれる僕達。そして…
 ゴキ,メキ!
 物陰から速泳,そのままみぞおちに短刀の塚を食いこませる。
 「ナイス!」 微笑むアーシェ。白目を向いた人魚が二人、海中に漂う。
 「じゃ、行くわよ」 再び僕はアーシェの尾ビレを追って神殿に侵入して行った。



 入るとそこは大広間。アーシェはさらに奥へと進み、10mはあろうかという巨大な、水の神を形どった石像を祭った祭壇のある場所までやってきた。
 「水の祠よね、用のあるのは?」 振り返り、尋ねるアーシェ。
 「ここがそうじゃないの?」 てっきりこの神殿自体が水の祠と呼ばれるものであると思っていたのだが…?
 「ここは水の神殿よ。祠はこの石像の裏にあるの。関係者以外は知らないのよ」 言って祭壇を突っ切り、石像の裏へと回り込むアーシェ。僕もそれに倣う。
 するとどうだろう,祭壇の向こうからでは分からないように石像の後ろには下へと続く階段があったではないか。
 「? でも何で階段なんだろう? ねぇ、アーシェ?」 基本的な疑問。
 「さぁ? 何でかなぁ,そんなのどうだって良いじゃない。さっさと行くわよ」
 ふと思う。アーシェはさっき関係者以外知らないと言った。だとすると、彼女はこの神殿にとってどういった関係なのだろう?
 僕達は階段をひたすら下りる。ちょっと狭めのその階段は、やがて神殿を入ったところよりも広い大広間へと出た。が…
 「この先は空気があるの。ちゃんとズボン履いてね」 アーシェの言う意味が分からず、大広間に踏み込もうと手を出す。すると、
 「この先は海水が入っていないのか……一体??」
 階段から先の大広間に差し入れた僕の腕の感じるものは空気そのものである。この先には結界のようなもので海水が入ってこれないようにしているようだ。
 「足をイメージすれば一時的に元に戻るわよ」 アーシェは何やら呪文を唱えると結界内に踏み込む。途端、申し合わせたように彼女の尾ビレは消え、スカート姿の足が生まれる。人魚の間の呪語魔法のようだ,地上に上がるときに使うのだろう。
 ふと彼女を見つめる。足が生えたその姿,やはりどこかで会ったことがあるような気がしてならない。彼女は気を利かせてくれているのだろう、向こうを向いている。僕は元の姿をイメージし、大広間に踏み込んだ。


 「そ、そんな馬鹿な?!」 走り寄り、それを確かめる。間違いない,しかしそんなはずはない。
 大広間の奥には壁一面の巨大な両開きの扉があった。そしてその扉――いや壁は数mの氷の層に覆われており、扉の中央に位置する所に『彼女』は氷の中で眠っていた。
 ショートカットの金色の髪はまるで瞬間的に凍結されたように一本一本広がっている。閉じられた瞳に端正な顔立ち。青い神官着を纏い、アーシェと同じ青い尾ビレを持っている。そしてふくよかな胸の前に両手で抱えたフリスビー大の鏡―――
 「アーパス…?」 そしてアーシェにも似ている,いや、アーシェがアーパスに似ていたのだ。
 「どうして姉の名を知っているの?」 アーシェが不思議そうに尋ねた。
 「姉?」
 「そう、姉だ」 そして答えは背中からやってきた。
 「?! アーパス,どうやってここへ?」 声の主はいつもの男装のアーパス――慣れ親しんだ姿がそこにいた。
 「最後の忠告だ。アスカを捜すな,諦めた方がお前の為だぞ」
 やはりこいつは僕が水の祠へ行くことではなく、目的であるアスカを捜すことを止めさせようとしていた。
 「残念だが、それは無駄な忠告だよ」 短刀を構える。アーパスが剣を抜いたからだ。
 「問う……お前はお前とアスカの命を犠牲にすれば多くの者が助かると言われれば、その命を差し出すのか? それとも多くの者を見捨て、自分達は生き残るのか?」 抜き身の剣で一歩踏み出すアーパス。
 「答えろ,ルーン」 
 「新たな方法を見つけるさ」 一歩踏み出し、僕は答える。
 「新たな方法だと? それが結果、共に滅ぶ道だったらどうする?」 
 「用意された方法より、自分で決めた方法ならば後悔はしないだろう? 違うか?」 
 「…それで皆納得するとでも思うのか」 
 「そんなことは関係ない,見ず知らずの奴の為に喜んで命を差し出す程、僕は人間ができてないんでね」 あの〜、という背後からのアーシェの囁き。取り敢えず無視。
 「俺はお前の命を差し出させるように動かねばならない。遥か昔から……お前がアスカを捜し、かつその考えを貫きたいのなら……俺はお前を倒さねばならない!」
 切り掛かってくるアーパス,僕は彼の太刀を間一髪でかわす!
 「何でアーパスと戦わなくちゃいけないんだ?!」 短刀で剣を受け、僕は叫ぶ。
 「お前は光を紡ぐ者――世界のほつれを塞ぐことのできる創世の力を持つ者だ。俺達、闇に属する水の守り部は、光を紡ぐ者に『水』と称される力を提供できる存在。我らと相反する性質を有したお前を見定め、場合によっては始末する義務がある!」 
 「何言ってるのか、さっぱり分かんないよ!」 言って、アーパスの剣を受け流す。
 「こういうことだ」 言って彼は指を鳴らす。途端、僕達は他の景色の中にいた。
 「一体これは?」 アーパスから僕は飛び退く。
 暗雲立ちこめる空が、途中で何もない空間へと変わっている。灰色の何もない空間――それは虚無……。
 まるでシャボン玉のようなこの世界を、外から破るように虚無が急速度で広がって行く。
 その中で、僕は宙に浮いていた。アーシェも、そしてアーパスもまたすぐ側にいる。
 「ルーン,これは一体?」 問うアーシェ。これは映像だ,おそらくアーパスの作り出したもの。音はない、映像だけの展開…それは余計に虚無の不気味さを増す。
 「これは水の記憶だ。決して忘れられることのない、遥か遠い日の記憶――千年王国が生まれてから滅ぶまでの丁度最中までの時を遡った記録だ」 アーパスがそう呟いた。
 「素直に500年って言えよ」 殴られた,コイツはやっぱりアーパスだ。
 そして彼の背後が何もない虚無に飲み込まれる。
 迫り、次々と拡がって行く虚無。まるで流れ出したら止まらない、死に至る血のように。
 が、それに向かう四人の姿があった。
 「あれは…」
 見たことがある人物の姿が一つ。いつもの微笑みはそこにはなく、剥き出しの敵意と感情が彼にはあった。そして他の人物も…どこかで見覚えがある。
 「ラダー? そっくりだが…」
 そしてドワーフとファレスの男,人間の女性。ラダーとドワーフは手にした何かを構え、呪文のようなものを唱え始める。
 と、その二人からは膨大な魔力が生じ始めた。まるで炎と地の精霊力そのものを。
 そしてそれを吸い取り、さらに自ら力を集めるようにファレスの男が両手に闇の糸を,女性が光の糸を作り出す。それは折り重なるようにして次々と虚無の中へと吸い込まれて行く。
 空白の空間に線を引くように伸びていく光と闇の糸――それは虚無の中で折り重なり、拡がりを持ち、虚無によって空白になっていく部分に新たな空間を作り出す。
 破壊と再生……延々とそれが続くように思えた。実際にはほんの数瞬だったに違いない。
 やがて虚無は威力をなくし、次第にその形を消して行った。すでに炎と地の力は尽き、光と闇の力だけがまるで絞るように大きな虚無を埋めて行く。
 不意にファレスの男が力を失い倒れる。
 と、それを待っていたかのように、虚無は膨脹する。
 叫ぶラダー,しかし彼もまた力を使い果たしたのだろう、その場に膝を付く。
 「………」 光の糸を止め、倒れる仲間達を見渡す女性。彼女は何かを彼らに告げ、そして……
 何らかの呪文を唱えると彼女の体は上昇して行く。悲痛の叫びらしきものを倒れたままファレスの男は発したようだった。
 それに彼女は寂しく微笑み、虚無の中へと消えて行く。
 数瞬後、何もないはずの虚無が眩しく輝く!
 そしてその光が消える頃には虚無もまた消え、先程の出来事が嘘のように、青い空だけが広がっていた。
 だた、人間の女性の姿がその場になかったことが、先程の戦いが嘘ではなかったことの証明でもあった。
 どれくらいの時間が流れただろう?
 「…」 声は聞こえないが何かを呟くと、よろよろと起きあがったファレスの男は肩を落として一人去って行く。
 そしてラダーも,ドワーフも、それぞれ一人で別々の方向へと散って行った。
 ここで回りの風景が元の石壁に戻る。
 「虚無はこの世界の外側からしか塞ぐことはできない。それも光もしくは闇一人では不十分だ。二人外に出て塞ぎ、初めて『ほつれ』は閉じることができる」 
 「じゃあ、さっきの女の人が塞いだのは?」 アーシェの声。
 「世界のへそ――それがほつれであり、先程の光の子アッティファートが一人で塞いだものだ。それが不完全だった為、再びほつれ始めた……」 答えるアーパス。
 「世界もまた、再び希望を託しお前を遣わした。二代目の光の子ルーンと闇の子アスカ――俺達守り部もまた、万が一の虚無の来襲に備え、遣わされた一族だ」 
 朗々と語るアーパス、僕は思わず呟く。
 「大変だねぇ」 
 「人事じゃないだろうが,それに…緊張感を阻いだな!」 あ、怒ってる。
 「大体、遣わされたなんて言ってるけど、一体誰に? それに僕もアスカもそんな救世主だか、生け贄のようなものになる覚えはないよ」 
 「…まぁ、確かに誰がルーンなんかに世界を負わせるような馬鹿な賭を仕掛けたかは分からん。だからといって!」 
 「そう、だからといって無視したりはしない。だが言う通りにする気もない。アーパス,君のその呪縛は僕が断ち切ろう!」
 僕は言い放ち、氷の扉に向かって短刀を投げ付ける。それは深く突き刺さり、氷の中の女性の持つ遠見の鏡を打ち砕いた!
 「運命なんてものは創作中の人物が言うものだ,もしもこの世が神による創作ならば、僕がこの手で引っかき回してやるよ」 アーパスに言い放つ。
 アーパスはしばし茫然とし、そして微笑みながら剣を投げ捨てた。その微笑みは氷の中の女性の微笑み。
 「大きくなったな、ルーン。嬉しいよ」
 彼,いや彼女はそう言うと、一瞬にして水滴と化し消え去る。追随するようにゴゴゴという低い音――そして扉の前の氷が一気に解け、水が流れる!
 同時にその両開きの扉が開き、中から水が押し寄せてきた!
 「どわっっ…て、溺れないんだよね」 僕は尾ビレをイメージして人魚の姿になると、押し寄せてくる水を受け入れた。
 とっ
 何かが胸に当たる。空気の泡が視界を奪う。胸に当たった何かは人?
 柔らかな感触は視界が戻る頃にはなくなっていた。
 「ルーン、大丈夫だった?」 流されたのだろう、後ろからアーシェが僕の隣へやってくる。
 さっきのはアーシェ? …いや、違う。
 ”ルーン,ですね” 心に直接声が響く。開いた扉から、それは現れた。
 身長5mはあろうかという透明な女性だ。姿は尾ビレを有した人魚のようにも見える。
 そして彼女の傍らには氷の中にいたアーパスの、恐らく本体の姿があった。
 ”我は水の精霊王――我ら水が属は貴方を認め、その力となりましょう” 言ってその存在は微笑みを見せた。無意識に僕は右手を差し出す。
 精霊王は僕のその手にやはり右手を乗せると、僕の手に温もりを残して消えて行った。
 扉がゆっくりと閉まってゆく。しかしそれは先程のまるで鍵が掛けられていた状態ではなく、来るべき時まで閉まっている状態―――
 女性姿のアーパスがゆっくりと近づいてくる。そして意を決したように顔を上げ、僕の瞳を見つめる。
 「俺の名はアーパス=ブレッド,水の守り部としてお前の力となろう」 
 僕はそんな彼女の恥ずかしそうな視線を捉え、意を決して疑問をぶつけた。
 「一体どういうことだ? 急に『女装』なんかして」 僕の言葉に彼女のアッパーが飛ぶ。
 「もともと女だろうが! ったく」 憮然と彼女。やはり変わりない。
 「お前が俺と思っていたのは遠隔操作した人形だ。ここの鍵にされてから身動き取れなかったからな。男装していたのはそっちの方が都合が良かったこともあったんだが」 ブスッとして答える。なるほど、だから怪我もしなかったのか。
 「性格な直さないの?」 今度はブローが飛んできた。
 「でも、鍵って……一体いつからあんな氷の中にいたんだよ?」 それにはアーシェが答える。
 「鍵は代替りするの。姉さんは数十代目の鍵――かれこれ五十年は鍵として氷の中にいたわよね」 海の民は人間の年令の四倍であるとされている。
 するとアーパスは人間年齢で言うと六、七才頃から氷の中にいたことになる。
 「何故そんなことまでして…苦しかっただろ?」 しかしアーパスは首を横に振る。
 「ここは水の転移点――これくらいの封をしないと悪しき者に力を奪われかねない。それにさっきも言ったがな、外の世界を水を介して見てきたから閉じ込められているということは、余り感じなかった。でも」 言って彼女は自分の手を見る。
 「やっぱり自分の体が動かせるのは良いな」 言って、彼女は思い出したように僕に何かを投げた。一つは氷室からの短刀,そしてもう一つは魔剣イリナーゼ。
 「そう言えば外の世界を見てきたと言ってたね?」 男のアーパスの姿として昔から世界を渡り歩いていたのだろうか? 腰に剣を括りながら僕は彼女に尋ねる。しかし反ってきた答えは趣がかなり異なっていた。
 「ニュアンスが少し違うんだがな,この水の転移点には世界中の『水』の見ている情報が集う。それこそが遠見の鏡の所以でもあるんだよ」
 彼女は小さく何かを呟く。すると何もなかった両手に先程割れたはずの鏡が水面のような輝きで現れた。
 「同時にこの鏡によって水の精霊力を御する事ができる――故に神具とも呼ばれるんだ。ま、取りあえずルーン,当初の目的を果たすべきじゃないのか?」 鏡を見せ、僕に言う。
 すると鏡は映るべき僕の顔から何か他の景色を映し始めた。
 そこは何処かの森の中を走る街道。新緑に色づき始めた木々の間に四人の旅人の姿が見える。その四人の内、一人がふとこちらに振り返った。
 ザッ!
 瞬間、鏡の映像は灰色と雑音に満ちあふれる。
 「何、これは……水を伝って何かが、来る!」
 アーパスの警告。そして彼女の手にあるその鏡の映像が灰色から白と黒に,その白と黒が一つの形を取った!
 「お初に御目にかかる,ルーン=アルナート」 雑音が収束し、それは言った。
 金と銀の瞳を持った黒い長髪の青年。
 歳の頃は僕よりも二つ三つ上であろうか,背には一対の翼を持っている。人…である,映像を通してもなお、その溢れるばかりの生気が感じ取れた。
 「誰だ、お前は」 鏡の中の青年に危険なものを覚え、僕は魔剣を抜いた。
 「これは失礼した。私はカイ=ルシアーヌ,破壊の後の再生を望む者だ」 
 「ルシアーヌ…? まさか」 忘れるはずのない名。
 「フフフフフ……まぁ、それはいい。今日は君を同志として迎えに来たまでだ」 映像が手を延ばす。
 と、翼を持つ男は鏡を通って、僕の前に立っていた。
 「そんな,そんなことができるなんて!」 アーパスが驚きに呟く。アーシェも青年の異様さに距離を取っていた。
 「私と伴に来るのならば、お前とお前の仲間達には決して手を出さないことを保証する。変わるのはお前には関係のない、愚かな者達だけだ。光の子としての使命など捨てることができる。当然、アスカも助かるのだ」 僕に右手を差し出すカイ=ルシアーヌ。
 しかし僕は剣で彼の手を払った。
 「気にくわないな、そういうの。お前、何様のつもりだ?」 
 「私の目を見て分からないか?」 右目に金,左目に銀色が光る。
 「金銀妖眼――破滅をもたらす者か? 俗説を信じているのか?」
 金銀妖眼を持って生まれる者は常にこの世に四人いると言われている。その特徴を持つ者は類い希な力を持ち、その能力が故に人から恐れられる。
 しかしそれは俗説であり、実際はどうなのか分からない。例え希にそのような特徴を持って生まれてきても、片目を潰したり眼鏡などで隠し通したりとするに違いない。
 カイは不敵に僕に微笑んだ。
 「俗説ではあるが、確かなことだ。私には全てを滅びへと導く力がある。そして全てが滅んだ後、作り替える再生の力をも手に入れた」 ギュっと、右の拳を強く握るカイ。
 コイツは危険だと、僕の中で警報が鳴る。理由はない,生命としての感覚がそう全力で告げている。
 「ならばここでお前を倒し、それを止める!」 剣を喉元に突き付ける。カイはしかし、不敵な笑みを崩すことはない。
 「ルーン,運命は私と伴にある。運命に逆らうことはできない。人の一生など言ってしまえば、すでに製本された一冊の本のようなものだ」 
 「運命に逃げる者の言葉など聞く気はないな,運命とは歩んできた道を振り返って、初めて語られるものだ」 
 「それはお前の考えに過ぎん。実際はこうだ」
 カイは僕の剣を無造作に手で払い除け、僕に周りを見るように目で告げる。その時初めて僕は僕自身、全く違う場所にいることに気が付く。
 遥かに高く並べられた書物の森――薄暗いその空間は仄かに香る磯の香りはなく、書物特有の紙と粉臭い匂いが鼻に届く。
 「何だ? ここは…いつの間に?!」 アーパスとアーシェの姿はない。本の森に僕と堕天使カイだけが、迷い込むようにいた。
 「ここはバベルの図書館――生まれ、滅びゆく国の歴史や起こりうる事件,そして全ての生きとし生けるものの一生を綴る無限の情報の集う場所」 言いながら彼は本棚にある一札の本を手に取る。
 その背表紙には『セイル=クライス』という人の名が記してあった。
 「この本にはセイル=クライスという今、現在生きている男の一生が記してある。これだけではない,これら書物のほとんどが同じだ」 
 「……そしてそれらの最後のページには何が書いてある?」 その問いにカイは微笑む。答えは反ってこなかった。
 「で、僕の本は調べたのか?」 カイの微笑みは止まる。冷たい瞳が僕を貫く。
 「最後にもう一度聞く。私と伴に来い」 手にした本の最後――真っ白になったページを開き、彼は小さく尋ねた。
 僕の答えは…そう、決まっている。
 「そうか,ではこの瞬間から私とお前は敵同士ということだ。せいぜい頑張って私を止めてみると良い」 彼はそう言い残すと本棚の影に溶け、消えて行った。
 「カイ=ルシアーヌ――何がお前をそうさせている?」
 振り返る。ここは変わる事なく本の森――一体何処なのか分からないが、抜け出さなくてはならない。
 「確かバベルの図書館とか言っていたな,聞いたことがあるようなないような…」 僕は一人、本の森をさ迷い歩く。しかし凄い量の書物だ。
 「本当に全ての生きるものの一生が書いてあるのか?」 カイの言葉を思い出し、僕は立ち止まり一冊の本を棚から取り出す。題名にはイルハイム=プラットとあった。
 ”書いてあるわよ” 不意の言葉に僕は辺りを見回す。
 ”私よ、私” 思い出し、僕は腰の自分の剣を見る。
 「何か久しぶりだね、近頃出てこなかったじゃないか」 
 ”…眠っていたのよ、暖かな貴方の心に包まれながら” 意味あり気に言う,もっとも詮索する気はないが。
 ”それはそうと、どうしてこんな所にいるの? バベルの図書館でしょ、ここ”
 「ああ、そう言っていた」 無論彼女に説明はいらない。僕の心を読んでくれるだろう。
 「しっかし、本当に人の一生なんて…」 僕は手にした本の表紙に手を掛ける。
 ”書いてあったとしたら、貴方はどうするの?” 彼女の言葉に僕は手を止めた。
 「そうだね、僕は未来を垣間見ることも、他人の一生を見てしまうような権利はないね」 そして本を元の位置に戻す。
 ”バベルの図書館とは過去から未来,全ての瞬間という時間を繋ぐ時に出来た次元の観察所。故にその起源は一つであり、その数は無数でもあるのよ”
 「時間論かい? そういえばその分野で聞いたことがあるんだった,バベルの図書館って」 学院の授業が思い出される。
 そこではバベルの図書館というものがこの世の何処かに存在し、全ての情報が置かれているという。
 だが、ここで彼女と時間論について論議している暇はない。
 「何処かに出口はないかな」 視線を腰の剣に移す。
 ”…ないわ”
 「そうか、ないか…って,どうすんだよ!」 
 ”知らないわよ!”
 「これはこれは珍客が二人も迷いこんでいようとは」
 突然のその声に僕は振り返る。
 黒いローブに身を包んだ黒い長髪の男,いや女か? 中性的な感じを匂わせる20代後半の人間がこちらを見つめていた。
 「あなたは?」 僕は近づく。
 「私は月読。ここの管理人ですよ、ルーン」 言って彼は微笑んだ。



<Camera>
 水の鏡はただ暗黒のみを写していた。
 「どういうこと、姉さん?」
 「この世界にいないということだ」 
 「じゃ、死んだって事?!」 
 「そう言うことではない,他の次元…にいるのか?」 アーパスは苦い顔をする。その横顔を見てアーシェは何故か微笑む。
 「何だ?」 
 「姉さんがそんな顔するの、初めて見たから。鍵になる前からずっと無表情だった姉さんがね」 
 「…そうでもないだろう」 水の鏡を操作しながら、彼女は振り向かずに答えた。
 「姉さんはずっとルーンのことを見ていたんでしょう?」 
 「見ていたのは世界だ,全ての情報が入ってくる……」 やはり黒い鏡に彼女は溜め息を付く。
 「アスカって人を捜すなって言った時の姉さん,本当に捜して欲しくなかったのよね」 
 「気が散るから話かけるなっ!」
 アーパスはアーシェを黙らせる。しかしアーシェは暇なのであろうか、アーパスの表情の変化を楽しむかのように続けた。
 「私もルーンと一緒に行こうかな」 
 「お前にはこの神殿を守るという役割があるだろう」 
 「『一つのものに縛られることなかれ。全ては混沌に帰せよ』ってのが水の教えじゃないの,姉さん。忘れちゃったの?」 
 「何でも良い方に解釈するな」 
 「ふーん,でも素敵よね、人間と人魚の恋物語」  
 「誰と誰のことを言っているのかな,アーシェ?」
 凍るような眼光をアーシェに向けて、アーパスはそう呟いた。

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