6−5
「なぁ、ローティス,竜公の首都の治安が乱れているみたいだな」
ガートルートの城中にある執務室――青年はここで仕事をするもう一人の人物,参謀たる女性に尋ねた。
「? あら、どうしてです?」 机上の書類から目を放して彼女。拍子にズレた眼鏡を片手で直す。
ローティスに青年は一冊の冊子を投げ寄越した。
出来の悪い紙で作られた冊子,毎日届くそれは新聞と呼ばれるものに近い。
その二面辺りが開かれている。そこにはこう書かれていた。
*** 竜公国首都アンカム近辺,盗賊多数出没 ***
*** 仮にも公国首都にあるにも関わらず一向にその勢いを ***
*** 止めることのできない公国の首脳陣の無能さが伺える ***
「そのようですね」 あくまで聞き流すようにローティス。
そんな彼女に青年は大きく溜め息を吐いた。
「感心せんな,こんなやり方は」
「どういうことかしら? ブレイド?」
「お前の差し金だろう?」
「まさか。そんなこと、するわけないでしょう?」 僅かに怒気を孕んで、彼女はブレイドに言い返した。それに青年は口ごもる。
「…すまん,疑っちまった」
「…いいんですよ,それだけ勘繰れるくらいでないと生きていけませんしね」
「嫌な世の中だな。…これにしても、結局は困るのは普通の人間だ」 呟き、ブレイドは再び山と積まれた書類に目を移した。
ローティスもまた、仕事に戻る。
”まさか気づくなんてね”
内心、彼女はほっとする。ブレイドの予測は的を得ていたのである。
”この子のことだから、私がそんなことしてるって知ったら…許さないでしょうね”
真っ直ぐな青年を眺め、一人、苦笑い。
評判というのは市民から来るものだ。故にそれを落とすには直接市民に害の及ぶ出来事を起こしてやれば良い。
権力争いに勝つためには、体裁など構っていられない。例えモラルに反していようと、それはこの戦いにあっては反していない。
市民の立場に最も近い感覚のブレイドには理解できない世界だ。
利用できるものはどんなものでも利用する,それが野盗であろうと魔物であろうと…
彼女はそんな世界で今まで生きてきた。己の手を汚し、ある時は体をも汚した。
”汚い世界ね”
それ故に、ブレイドには気づかないで欲しい。
支配者には知らなくて良いこともある。汚れた仕事はローティス自身で片付けるつもりだ。
この若い指導者は、今はまだ理想を見つめていれば良い。一途な理想は、人を惹きつける付けることができるから。
”しかし” ローティスは目を細める。
ブレイドの感――それは武力による戦いのみに作用するものではないようだ。
こうして事務処理を体験させることで、彼は確実に今までなかった知識を吸収している。
例えば、新聞などこれまで読む習慣などなかったはずだ。
確実に大きくなるブレイド。
ローティスはそれを弟を見るような感覚で、楽しげに眺めていた。
所狭しと魔術用の器具が置かれた部屋で、彼は唸っていた。
黒い水晶玉を、開け放たれた両開きの窓の前にあつらえた机の上に置いている。
時は深夜――その水晶玉を中心に四本の蝋燭が消え入りそうな炎を上げながら、四方を囲んでいた。
ローブを頭から被った男・イルハイムの唸るような呪を前に、黒水晶が次第に中心から淡い光を放って行く。
その様子を後ろから眺めるのはアルバートとフレイラース。
そう、今、イルハイムは星占いを行っているのだ。
巷で占い師が自殺や発狂するという多くの記事を始め、最近の出来事から出た結果だ。
天球儀にしても、占いに大きく関連しているものだ。ならば実際占ってみようということだった。
「ハァ!」 イルハイムの気合いが放たれた。
四本の蝋燭の炎が急に勢い良く燃え盛る。
黒水晶の中に幾つかの光点が灯り…
何事もなかったように蝋燭の炎を始め、全てが消えた。
星明かりだけが部屋の中を照らす。
ポゥ
ランタンの明かりを灯すアルバート。
「…何か見えたか?」
「…」 無言のイルハイム。ゆっくりと振り返る。
心なしか、何とか見える口許が震えて見えた。
「どうしたの?」 と、こちらはフレイラース。
「…大いなる災厄がやってくる」 絞り出すように、彼はしわがれた声を出した。
「? どういうことだ?」
「天から大いなる災厄がやってくる。それも…」 最後は聞き取れない。
「災厄の1つや2つ,軽くあしらってやらぁ」 そんなイルハイムにアルバートは笑って答えた。
イルハイムは咳払いを一つ。そして先程の言葉で消えてしまった部分をもう一度言った。
「少なくとも3つの災厄が訪れる」
「手に余るわね」
「グゥ…」 フレイラースのツッコミに、アルバートは寝たふりをして誤魔化す。
すぐさまこめかみにエルフ娘の拳が決まったが。
「…ってえな! で、イルハイム,どんなものなんだ? その災厄って」 こめかみを押さえながら、彼は尋ねる。
「一つは確率の神による物質的な災厄。一つは人の心を崩壊させる精神的な災厄。そして一つは……織物の縦糸と横糸がほつれるような……世界そのものの災厄」
「「…」」 沈黙する2人。
最初に我慢しきれなくなって、口を開いたのはアルバートだった。
「結局、どういうことか分からんぞ」
「あ、私も!」
自分の無知を知られるのが怖かったらしい。
「………」
無言のイルハイム。その彼の気持ちが彼ら2人と一緒だとは、決してバレる事はないだろう。
三人はサマートへと帰ってきた。
「たっだいま〜!」
「おかえりなさい,クレオソート」
宿屋の一室、元気に飛びこんだ彼女を待っていたのは微笑む金色の瞳の青年だった。
「あれ? お兄ちゃんはまだなの?」
「ええ、もう少しですよ。相当きつい旅をしてきたんですね?」 ラダーは彼女の後ろの男を見て、そう感想を漏らす。
後ろの男・アレフの顔は痣だらけだったりする。
「ま、いつものコトよ」
「ああ、いつものことですか」
その後ろにいる人物を見て、ポンと彼は手を打つ。それにアレフは無言。
「紹介するね、メイセンよ。人間の女の子に見えるけど、竜なの……多分」 最後の多分というのは、実物を見ていないことからだろう。
クレアに言われ、メイセンはラダーの前に出る。
「初めまして,メイセン」
「!」 右手を出すラダーに、メイセンは慌ててクレアの背に隠れた。
「人見知りの激しい娘ですね」 出した手を引っ込め、ラダー。
「? そんな娘じゃないんだけど」 首を傾げ、クレアは彼女を見る。
「俺も道中ぶんなぐられっぱなしだったし」
「それはアンタが手を出すからでしょう?!」 そこまで言って、クレアは気がつく。
メイセンが小さく震えていることに。
”恐れて…いるの?” メイセンはおずおずとラダーに視線を向けている。
クレアはメイセンからラダーへ視点を移す。
「!」 背筋に寒いものが走った。
ラダーのいつもの微笑みの後ろに、例え様のない大きな威圧感を感じたことに。
「? どうしました?」
問うラダー。すでにそこにはいつもの、のほほんとした男がいるだけだ。
「ううん,何でもないの。何でも…」
と、ゆっくりとメイセンがラダーの前に歩み出る。
「メイセン=リーガルや,よろしゅう…」 小声で、小さく頭を下げるメイセン。
「ラダー=アクトルです。よろしく,メイセンさん」 答えるラダー。そこにクレアは芝居めいたものを感じざるには得なかった。
「ところで、いつ頃ヤツらは帰ってくるんだ?」 そんなクレアの気を知らずに、アレフはラダーに尋ねる。
それに彼は銀色の筒を肩に担ぐ。
「そうですね,そろそろ迎えに行きましょうか」
「どこへ?」
「凍れる天使の像――そこで待ちましょうかね」
にっこりと微笑むラダーの表情からは、何も読み取ることはできなかった。
時は日が天頂に望む頃。
ちゃぷ…
海面に2つの人影が浮かび上がった。
「おかえり、ルーン」 ミースはボートを漕ぎ2つの人影に笑顔を向ける。
一つは彼女の古き知り合い――人魚のアーシェ。
そしてもう一人はミースが笑顔を向けた男…だと思っていたのだが。
「? あれ?」 ミースには珍しい、歳相応の素っ頓狂な声を上げてしまう。
「何を驚いてんだ?」 そいつは美しい面に半眼を並べてボートに這い上がった。
「水よ、我が姿を仮そめに…」 精霊語で呟くと、そいつの藍よりも青い尾びれはスラリとした白い二本の足と化す。
アーシェに似ているといえば似ている女性だった。しかし纏う雰囲気は刃の様に鋭く目つきは険しい。何よりミースは彼女により良く似た人物を知っていた。
「アーパス?」 掠れた声で問う。
自然とミースは目の前の彼女の、海水で濡れて洋服のピッタリと張りついたボディラインに目が行ってしまう。
そこには男には決してない(一部あるヤツもいるらしいが)双丘があった。
「女装…アンタ、そんな趣味が?!」
「っつうか、なんで俺がここにいる事に驚かんのだ!」 怒りに顔を真っ赤にしてアーパス。
その後ろの海面でアーシェが小さく笑うが、キッと睨みつけられて慌てて黙ってしまう。
「あ〜、そうそう。一体どうなってんのよ? なんでアンタがここに? ルーンは? どうして女装を? ってか女装よ、女装!!」
矢継ぎ早に次々と疑問を並び立てるミースにアーパスは一言、「帰り道で教えてやる」 と答えて、アーシェに改めて視線を移した。
「水の転移点は光の子と水の精霊王の契約によって安定状態に入ったから、つけ狙うモノもいなくなるはずだ」
「だから?」 アーパスの言葉に、しかしアーシェは無表情で返した。
「守り人は契約が成された者を守り、補助する役目がある」
「今まで通り、転移点を通してバックアップすれば良いのではなくて?」
「直接、俺が出向くことで当社比10倍の力が出せる。人形を通してではこれから起こり得る戦いに対処しきれん」
しばらく見詰め合う2人の姉妹。
先に折れたのはアーシェだ。と言うより立場上、今の言葉を吐いただけである。
「…仕方ないわねぇ。今度ここに帰ってくる時には私に甥っ子を見せてね」
ぷち
何かが切れた音がした。
「光波斬!」 光の破壊波が海を貫く。
姉のそんな行動をある程度読んでいた妹は、クスクスと言う笑い声を残して海の中へと消えて行った。
ミースは首を傾げるばかりである。
アーパスは思ってもみなかったズシリとした感触の伝わる子袋を受け取った。
「これは?」 ミースを補佐する老海賊は無言で『取っておけ』と示す。
「ルーンに伝えておいてくれ。私は必ずこの海の覇者になる、とな」 ドクロの眼帯をつけた海の猛者達の首領・ミースは自信を持った表情で言い放つ。
静かな別れだった。見送りである2人以外はルーンとアーパスがここを去ることを知らない。
雇われている以上は別れはあるのだが、2人はこの海に馴染みそんな気配を微塵も感じさせなかった。悲しむ者は多いだろう。
「覇者か…。分かった。俺が言うのも何だが…エントランスって海賊には気をつけな。どちらかというと仲間に引き込めたら引き込んだ方が良いぜ」
「どちらかというと、な?」
専らそんな気はないのだろう、ミースは覇気の灯る左目でアーパスを見つめる。
「アーパス、お前もしっかりな」
「…ああ」 ミースの言葉の中にアーシェが含んだ内容も多分に含まれている様な気もしたが、彼女は素直に頷いた。
「幸運を」 告げ、アーパスは海賊のアジトから2人に背を向ける。
「海の清らかさ、常に汝にあらんことを」 老海賊の祈りが去り行くアーパスの背中に飛んだ。
<Rune>
月読と、目の前の男は名乗った。
そして僕の名前を知っている。
”…カイ=ルシアーヌの仲間か!”
僕は後ろへと飛び、さっとイリナーゼを抜き放つ。
そんな僕を、月読は何ら焦る事もなく涼やかな瞳で見つめていた。
「私はカイとは顔見知りではありますが、必ずしも味方ではありませんよ」
僕の心を見透かした疑問に対する解答。
その答えはしかし、必ずしも僕の味方でもないことを示している。
「その通りです。私は常に中立――人に関与することを許されないこの図書館の管理人」
ニッコリと、女性の声で答えた。
「…女性?」
「この次元では、ですよ」 疑問に答える彼女(?)。
「私は無数にいます。雄雄しい男性の姿を持った私、子供の私、いまの女性のような私」
「それは『もしも僕が目から怪光線を出して雄叫びを上げながらエルシルドの街を練り歩く』という次元が存在するってことに近いのかな?」
「…その解答はまさしくその通りですが、もう少しマシな例えはできないものですかね?」 月読は再び青年の顔で苦笑した。
つまりはそういうことなのである。
あらゆる可能性が世界にはある。そして僕の取捨選択によって歩んできたこの次元、この時間においての全ての情報がここには存在しているのだ。
カイの言った『運命は変わらない』的な事は正しいし、僕の主張する『運命なんてない』という論も正しい。時間は縦方向に連続であり、次元は並行的に無限な連続体なのだ。
…そんなことはどうでも良い、少なくとも僕が生きていく上でなんら役に立つもんじゃない!
僕は剣をしまう、月読は敵ではないと判断する。
「月読さん、僕はどうやってここを出たら良いんでしょう?」
「気合です」
即答される。僕はその意味を良く噛み砕き噛み砕き……はい?
「あの…だから…」
「気合です、ファイト」 涼しい微笑を投げかけられながら、真顔で言われた。
「えと、その…はい?」
「先のカイ=ルシアーヌも己が意志力のみで、どんな外的力も及ばないこの空間へとやってきます」
”そういうことなのね” イリナーゼが苦笑する。彼女の言う気合とは魔法――魔力のことだ。
「空間転移魔法ですか……でも僕はそんな高度な魔法なんて使えないしなぁ」
「もしも貴方がきちんと契約されたゲートを通ってこられたなら、こんなことはありませんでしたが」
「げーと?」 聞き慣れない言葉だ。
「ええ。知識の塔であるここへの入り口が外の世界には何ヶ所かあります。その入り口から来られたのならば、肉体は元の次元に置き、精神体でのみの入場となりますからここで時間を奪われる事もないのですよ」
なるほど、噂には聞いたことがある。バベルの図書館はこの世の何処かにあるという伝説。
それはおそらく転移魔法陣による精神体の転移なのだろう。精神でのみならば時間の概念がないので時が経たないのだ。
「でも僕は…」
「はい。実体で『ここ』へやって来られました。下手をすると外の世界が貴方のいない内に変化してしまうかもしれませんね」
下手をするとって…一体? 試してみたい気は毛頭無いけど。
ともあれ、カイとかいう男め。僕をここに閉じ込めておく気か? 何とかして戻らないと……
”方法は、多分たくさんあるんじゃないの?”
イリナーゼの声に、僕は目の前に立ち並ぶ無数の本棚を見上げた。
「探すのか? この中から戻る方法を…??」
僕は図書館に響く呆然とした己の声が、全く他人の声に聞こえた様な気がするほどだった。
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