6−6
<Camera>
魔王というものが存在する。
それは大抵はいつ如何なる時代にも一人くらいは登場する、言わば時代の風物詩でもあるといえよう。
そして今この時代にも、魔王は存在していた―――
清王朝の遥か北、リハーバー共和国の北東部に位置するシルバーン大山脈は、東へ行くほどに高く険しく変化していく。
シルバーン山系は清王朝の半ばまで及び、大陸で一位を誇る不死山という美しくも険しい山に終始するのだ。
不死山は樹海と呼ばれる亜人・魔物達の多く住む人間が立ち入らざる領域に囲まれ、霧の中に麓は青く、山頂付近は雪で白く生える、見る者に深い感慨を与える霊山である。
またその名の通り、山頂には不死の霊薬があるとされるがそこにたどり着く者が存在しないために真偽は定かではない。
だがしかし、そんな噂に近い話はこの一年に妙に信憑性を帯びてきた。
理由は簡単。
半年ほど前から不死山を拠点として魔王が発生したのである。
魔王『紅』――暗黒の肌を持ち、赤い瞳、赤い髪を紅蓮の炎の衣の中に光らせる美しき青年。
彼の細い腕の一振りで村は塵に帰り、一睨みで人の心は粉々に砕け散るとされる。
不死山にて何を発見したのかはっきりとはしないが彼の力は強力で、瞬く間に樹海の魔物を統率,亜人をもその支配下に置き、徐々に清王朝の領土を侵食し始めたのであった。
そこで時の清王朝の皇帝・慧錬帝は配下の七聖が一人,国家の武を司る剣聖・翔巴へ紅討伐を命ずることとなる。
剣聖の下に編成されたのは清王朝精鋭の侍・777名。
侍とは清王朝における戦士のことであるが、西の数ある王国のそれとは異なる。
主に「切る」ことを主体とした「刀」を用い、その刃に人の持つ生命力である「気」を込めることにより只ならぬ破壊力を放つことができる一騎当千の戦士なのだ。
故に古来より清王朝は他国からの侵入を独力で防ぎ続け、今では独特な文化を身の内に内包している。
侍のいでたちが『袴』と呼ばれるスカートなようなものであることと、長い髪を頭上で変わった形に結わえる『ちょんまげ』なるヘアスタイル,それだけでも十二分に独特といえよう。
それはさておき。
剣聖率いる討伐隊はしかし、その全てが樹海より帰らぬ人となる。
殺されたのか,それとも魔なる樹海に飲み込まれたのか,はたまた紅の闇に魅入られたのか?
以前より勢力の増大を続ける闇食王は徐々にその勢力範囲を広げて行く。
そこで慧錬帝はかつての知聖――今や現役を引退した、清王朝の知恵袋である先代の知聖・書院へ、力を授かりに己の足を以ってして赴いた。
現在の知聖・考規の立場はないが、彼自身がそれしかないと導き出した答えなのだから仕方ない。
先代の知聖の持つ『力』、それは異世界からの強い力を持った者の召喚である。
いわゆる救世主と言えば分かりやすいであろうか?
他力本願と言えばそれまでだが、圧倒的な部の象徴であった剣聖が消えた今、慧錬帝が頼ったのは易である。知聖が行った易によるとこうだ。
『遥かなる壁を越えた勇者,闇を蒔く悪しき者へ光を与えるであろう』
何とも簡潔,何とも単純。
この国最大の港街・河京の街外れに居を構える前知聖・書院は帝の指示に従い異世界から勇者を召喚した。
現れたのは一人の少年。
名を『前原 剣』という、わずか16歳のどこか頼りなげな男だった。
彼は帝のすがりつくような依頼に戸惑いつつも、持ち前の正義の心で承諾,魔王・紅討伐に向かったのである。
まず彼は不死山に向かう道中で、清王朝で最大の力を有した巫女であり帝の娘である少女・妃巫女を仲間に加えることとなった。彼女は不甲斐ない父に激怒し、異界の勇者の力となるために馳せ参じたというが…なんともはや。
次に樹海にて斧を振らせれば右に出る者はいない,ドワーフの老戦士・ヴァルダと意気投合する。彼は魔王に個人的な用件があるそうなのだが…これは別の物語に関わるのであって、この勇者の物語にはかかわってこないのだ。
数々の罠、魔物、策略を越えて、樹海の奥深くの洞窟で3人は見つけることとなる。
石と化していた剣聖・翔巴をだ。
妃巫女の祈りの力によって呪縛を溶かれた剣聖を仲間に加え、四人はとうとう魔王の座す、不死山の山頂へと辿り着いたのである。
鼻腔へ仄かに爽やかな香りが到来する。
「ふぅ」
老人は筆を止め、溜息一つ。
コトリ
湯気の昇る湯呑みが、ちゃぶ台の上に置かれた。
「何を書かれているのですか?」
琵琶を鳴らすような旋律で声がかかる。
「ふむ、以前召喚した少年の武勇談をまとめておこうかと思っての」
老人は湯呑みを手にし、一口。
熱くもなく、ぬるくもない。安茶のはずだが苦くない程度に極限まで茶の芳香が溶出されている。
「あの方ですか」
顔を向けた老人の言葉に微笑むは着物姿の女性。歳の頃は20代前半だろう,老人との関係と聞かれたら孫というのが的確だろう。図らずもそれは誤りではないのだが。
「乙音よ」
「はい?」
乙音は老人に首を傾げた。何故なら老人が珍しく難しい顔をしているからである。
老人の名は書院。傍らの乙音は、彼の作り出した人形――いや、生命体と言った方が正しいだろう。
「もしも運命というものがあるのならば……乙音よ、お主はそれを信じてはならぬぞ」
「剣少年のようにですか?」
「そうじゃ。異界の住人という不確定要素ではあったが、それにより皇女・妃巫女殿の運命も大きく変わった。そしてそれは……」
「清王朝の今後にも影響すると?」
コクリ、と老人は頷く。
「でもその『変わること』自体が運命であったとは考えられませんか? いえ、運命とは後から語られるものではないでしょうか?」
乙音の言葉に書院は目を細める。笑み、である。
「そう考えられるようになれば良い。フィースのトコのルーンのような、己自身で全てを決める,その心があればのぅ」
書院は満足げに頷いて、再び筆を取る。
魔王・紅は戦士・ヴァルダの命と引き換えに滅んだ。
これにより樹海の魔物は沈静化し、亜人と支配された村々に平和が訪れた。
剣聖・翔巴は以前にも増して強くなり、今後の清王朝の武は確たるものとなるだろう。
そして勇者・前原 剣と巫女・妃巫女は―――
<Rune>
光の子と闇の子は、世界を構成する縦糸と横糸を、己の命を削ることで四元素より生み出すことができる。
世界の『ほつれ』が大きくなった時、世界そのものがその身の内に住まう生き物より生じさせる、一種の世界保存機構の一つであると考えられるだろう。
では、もしも『ほつれ』が大きくなってしまったら、世界は一体どうなるのであろうか?
いや、それ以前に世界とは一体何なのか? ということを説明した方が早いだろう。
世界はまるでシャボン玉のように『無』の中に浮かんでいるのである。
無とは虚無/変化のないもの/何もないことであり、全ての構成元素の素粒子/生命の海/混沌でもあるという意見がある。
その実態は明らかではないが、無に包まれたものは同じ無となる。
『ほつれ』により無が世界を包む時――それは全ての終わりであり、また再び形あるものへと形成されるまでの準備期間に入るとも言えなくもない。
世界はそんな無の中に、光の縦糸と闇の横糸で織られた球体の中に存在しているというのが現在の論である。いや、正確に言うならば物質界とその裏面性を帯びた精神界が、である。
精霊界はこの薄膜である光と闇の布の間に存在しているのだ。
すなわち世界を流転する精霊力/魔力、そして我々生命たる素は無より精霊界というフィルターを通して世界に具現化しているのである。これこそ『無』が万物の素粒子とも考えられる所以だ。
とまぁ、そんな講釈が延々と流れ込んで来ていた。まるで学院で睡眠学習している時のようだ。
唯一違うのは眠いって入ても強制的に脳みそに叩き込まれるという点かな。
”む、難しすぎるんですけど…”
危うく欠伸を漏らしそうになり、僕は流れ来る情報を本のページをめくるようにスキップした。
いやね、「世界構成論」は学院で習ったんだよ、覚えていると限んないけど。
この『ほつれ』というのは異世界……とは言っても精霊界とかじゃなくて本当の意味での異世界からの何らかの召喚を行うことにより瞬間的に発生するらしい。
もっとも精霊召喚と全く違う意味を持つこの召喚――手順も全く異なり、現在では喪失技巧とされている。
遥かなる過去には『ほつれ』を故意に生じさせ、そこから無を取りだしエネルギーとしていたと言う何とも信じがたい伝説があるのだが……「世界構成論」が正しいとしてもそうでないとしても、そんな危なかしいことは知っててもやる気は起きない。
ともあれ、僕が光の子であるということはどこかに生じたこの『ほつれ』とやらを闇の子とともに埋めりゃいいということか。
さて、闇の子だが……僕の直感が正しければやはり彼女なのだろう。
そう考えればイリナーゼとレナード師の挙動、アーパスの行動と、全てが納得が行く。
もっとも裏で糸を引いているのが誰なのかまでは見当がつかないけれど。
っと! 危うく検索の意識を広げてしまって、抱えきれないほどの情報量に意識が沈んでしまうところだった。
取り直し、僕は前代の光の子について『特徴的な画像』という単語をイメージし、検索の意識を解放する。
僅かなタイムラグを伴って、僕は赤い世界に飛び込んでいた。
灼熱の地である。
周囲は岩壁で覆われ、ホール状のこの場所の真中には暴れ狂う金色の竜がいた。
すぐ近くには溶岩が流れている……とするとここは恐らく何らかの山の火口であろう。
つい、と竜の視線が一点に注がれた。そこには3人の戦士風の男女の姿がある。
まっすぐな瞳で竜を見上げる一人の女性。
彼女の傍らで歴戦のドワーフ戦士が膝を付く,その後ろでは黒い翼をその背に持った黒髪の美青年が目を回して倒れている。
「クロースターもヴァルダも休んでて、い〜よ」
にっこり笑う彼女。亜麻色の肩までの髪が溶岩から吼え上がる炎に赤く映える。
赤く燃えるその瞳には、えも言わぬ好奇心に満ち満ちていた。およそ戦いを前にした者の表情ではない。何かを楽しもうとした,まるでスポーツを前にした小犬のような雰囲気さえ覚える。
言い換えれば戦いに余裕を持ち込んでいるとも言えなくもない。
「ま,待て、アッティファート…無茶なことをするでない!」
ドワーフの戦士は慌てて彼女のズボンを掴もうとするが、彼の短い手は空を切った。
アッティファートは跳躍したのだ。
その高さはおよそ8m――人間の所業ではない!
「いっくよぉ、炎の番人,ラダーさん!」
彼女の細い腕が掴んでいるのはイガイガの巨大な球がついた凶悪な棍棒――メイスと呼ばれるものだ。
ラダー? ってあの竜が? 同姓同名…いや、違うな。
『燃え尽きろ!』
竜が『叫』ぶ。炎がその顎からほとばしった!
炎の先には竜に向かって落下中のアッティファートの姿,滞空状態では避けられない!!
彼女の隣にいた僕は思わず僕は目を閉じる。
「カァァッツ!!」
魂を揺るがす彼女の喝に、僕は思わず目を見開いてしまう。
彼女に炸裂する炎の吐息――僕は包まれるがそれは映像故に熱さは当然感じない。だがこのリアルな記憶は、そうであると認識していなければ熱を感じてしまいそうだ。
竜の瞳に勝ちを確信した色が映った。
数瞬後にそれは驚きに、そして敗北感に染まることとなる。
炎から抜き出たアッティファートは…無傷?! あちこち焦げてたり、墨を擦り付けた風に黒くなってるけど。
そのまま彼女は唖然とする竜の頭に向かって落下,握り締めたメイスで彼の頭を叩きつけた。
ごきん♪
『うがぁぁぁ!!』
一撃――
ただの一撃で竜はその巨体を熱き大地に沈めたのだった。
「私は人よりちょっと丈夫にできてるのよ、ラダーさん♪」
笑って彼女は目を回した竜の頭を軽く2、3度叩き、岩壁の一面を仰ぎ見る。
そこには祠と、そして大きな扉が一つ。
それが何なのか、僕には分かった。水の祠で見たものと同じだ。
感じるものは水の魔力ではなく、対極である炎の魔力ではあるが。
「ええと…」
アッティファートは何かを探すように辺りを見渡し…見つけたようだ。
やはり呆然とするドワーフの横をすり抜け、倒れた黒い翼の男に駆け寄った。
「ねぇ、クロースター?」
つん、彼の背中を突ついてみる。
返事はない。
「もぅ…」
やおらに彼の首筋を右手で掴んで持ち上げ、扉に向き直り…
ま、まさか?!
「寝てないで行ってこ〜い!!」
ぶぅん!!
高い魔力を有するブラックファレスであり、闇の子であるクロースターを炎の転移点へ向かって放り投げたのだ。
どべしぃ!
気を失った彼はノンバウンドでまっすぐ二十数mを飛び、祠を通り抜けて閉ざされた扉に叩きつけられる。
あ、首が変な方向に曲がってめり込んでるぞ、おい!!
そのままクロースターは扉の中に解けるようにして飲み込まれていく。
ややあって、
解放された炎の力が世界へと放たれたのだった。
―――っは!」
検索球から手を離し、僕は軽く頭を振った。
ここはバベルの図書館。
この空間を出るにしても、どうせなら1つ2つ分からないことを調べていってもバチはないだろうということで月読の力を借りて調べものをしていたのである。
さて、今の画像の他に己の意識下に集めておいたのは次の情報。
世界保存機構である光の子、闇の子,すなわちこれは紡ぐ者(エスペランサー)と呼ぶそうだが、これが発動したのはこれまでで一度きり。
前代の光の子、闇の子であるアッティファートとクロースターである。
二人は四元素の大転移点のうち2つの封印を解いた――火と地の2つだ。
封印とは精霊界から流れ出る精霊力の弁のようなもの。それは一度解かれると解いた者に力を送ることとなる。
もしも解いた者が死んだときは、再び封印が下りる。が、その封印は時が経てば経つほど堅牢なものとなるらしい。逆に言えば、一度解かれた封印は紡ぐ者以外の者でも解き得るということだ。
それはともあれ、二人は順番的には火を解いてから水,風と行って、最後にその当時の魔王に占拠された地のそれを解こうとしていたようだが、『世界のほつれ』の時間が迫っていたために火を解いた後に真っ先に地の転移点へと向かった。
もしも時間があったならば四つの封印を解くことができ、彼らの十分な魔力ならば世界のほつれを完全に塞ぐだけの力があったと、僕は思う。
何よりこのアッティファートさん,魔力以上に人並み外れた体力の持ち主だ。
性格は豪胆,姉御肌,論より先に手が出る活動家タイプ。
そんな彼女をクロースターは元より、無頼骨なドワーフのヴァルダ,今からは想像できない暴れ者だったラダーでさえ憧れとして見ていたようだ。
なお、アーパスが水の守り部であったようにラダーは火の,そしてこのドワーフのヴァルダというのも地のそれだ。ヴァルダは当時の魔王に転移点を叩き出されたそうな。どんな魔王だったのだろう?
いや、そんなことよりラダーの奴…竜だったのか? それも竜の中で最強とされる黄金竜――今の姿は人化の法か?
”分からないことが多すぎる”
思う。
調べれば調べるほど分からないことが増えていく。
見なきゃ良かったな、と後悔するが時すでに遅し。
…うん、そうだ!
これに関して調べるのはここまでにしよう,気になるけれどこれ以上はきりがない。
何より今はここを抜け出すことが先決だ。
精神体でなく肉体を持ってこの空間に紛れ込んだ僕は今の状況、非常にまずい。
バベルの図書館は全ての時代へと通じる「時間のへその緒」のようなもの。
普通ならばここへやってこれる幸運な者は精神体として訪れ、ここで経過する時間に左右されることなく万物の検索に耽る事ができるのだ。
だが僕には「ここでの時間」が流れる。
元の時代へ戻るには足がかりがない。例えるならば錨を降ろしていない船のようなもの。元の場所に戻るには果たして如何なる方法を取ればいいのか?
僕をここに放り出した魔法に達者であると思われるこの元凶・カイ=ルシアーヌ並みの魔力を有していない。
魔法による脱出は「僕である」ことで駄目なのだ,知識はあっても魔力がないからね。
今日ほど世界有数の魔法使いである親の血をひいていながら……と悔やんだことはない。多分後に先にもこれ一回だろう。もっとも一回と言えるのはここから出られればの話だけれど。
「ルーン,寄り道してないでさっさと方法だけでも探しなさいな」
腰の刀からそんな女性の『声』が響く。
「そうなんだけどねぇ」
僕は月読の机の上に置かれた『検索の宝玉』と呼ばれる、赤ん坊の頭大の黒い水晶球に再び軽く手を振れた。
この検索の宝玉は図書館の情報全てとリンクしており、調べたい単語をイメージするだけで振れた者の脳へとダイレクトに映像を送り込む。
余りにも広い幅の単語を調べると、おそらく膨大な情報量が流れ込んできて人格崩壊を起こすだろうという危険な代物だ。
先程の知識と映像は、情報としては少ないだろうと思われる『光の子』を試しに検索してみたのである。
この件に関して裏で糸を引いているのは誰なのか?という検索に対しては恐ろしいほどの情報量を感じたので中止。
はっきり言って、この検索機構は狭義の検索――要するになかなか見つからないものに関しては非常に有効だが、広義なそれは命取りという、とんでもない代物だ。
これを使うに当たって月読からは「死んでも知らないよ」と笑顔で言われたものである。
この月読さん、あくまでこの図書館の管理者であって、決して力を貸してくれない。閲覧者に対して不可侵が決まりだからと言うのだが、案外、無愛想なのも手伝っているんじゃないかと思う。
「じゃ、調べるだけ調べてみようか」
『バベルの図書館に肉体を有して入り込んだ者が元の時代に戻る方法』
とイメージ,水晶球に意識を展開する。
答えはやってくる、それはたった一つ。
”入り込んだ者の魂を想う、強い精神の力を錨として、転移の扉を己が心に開くが良い”
「どういうことかしらね?」
腰のイリナーゼが問う。
この一文でこの空間からの脱出は僕には分かった。だが一文である故にこれしかないと言うことは絶望的である。
脱出方法はすなわち――
「転移魔法が使えないと出ることができないみたいだね」
転移魔法とは空間を渡る高度な魔法だ。テレポートとも呼ばれる。
コイツは呪語魔法の中でも呪語のみでなく魔法陣、身振り、時には魔法の補助道具など、補佐動作も必要なのだ。召喚術に続く魔法センスと魔力、技術が問われる。
「月読さん…」
救いを求めるように僕は背後に立つ黒衣の女性(今は男性かもしれない)に視線を向けるが笑顔でスルーされた。
ここで餓死しても良いのか?!
”良いんだろうな、この人の感覚だと”
「転移魔法ねぇ…使えないの? 頑張ってみたら?」
「頑張ってできるようなものじゃないって」
思わず苦笑。月読さんの言うように気合も一理あるんだけれど、それは魔術を使える者は,である。
転移魔法は目的地のイメージを心に描き、その場所の生命の息吹を感じるまでの感受性が必要だ。
この場合はさらに目的地で術者のことを想ってくれている魂の声を足がかりに、空間だけでなく時間の壁を越える技術が必要となってくる。
僕に不足なものは時空間を越えるだけの魔力,転移魔法そのものの知識,そして待っていてくれる魂の声である。
「クレア辺りなら待っててくれて…いるかな?」
想像してみて自信がなくなってくる。今ごろ帰りが遅いとか言って宿で寝てるんじゃなかろうか??
「気合で何とかしてみなさいよ」
「何とかなってればやってるって!」
声を思わず荒げて答えてしまう。イリナーゼ流の喝の入れ方なんだろうが、いかんせん魔法に関しては僕はからきしダメなのだ。気合を入れて明かりの魔法とか、そんなんだし…
転移魔法は失敗すると異空間に投げ出されたり、何故か壁の中に転移して死んでしまったりするらしいが、僕にはそんな発動すらしないのだから情けない。
もっとも方法があるにはある。しかしそれは…
「月読さんが転移魔法を使えればなぁ」
思わず愚痴る。そう、他者に魔法をかけてもらうことにより脱出することも可能なのだ。
その場合は転移先のイメージをしっかりしているだけで良い,非常に他力本願だけれど。
僕は溜息を付き、思わずその場に座り込む。
「あら?」
イリナーゼのそんな声が上がるが付き合うだけの気力はなかった。
だから、僕の目の前にひっくり返った女性の首が現れた時には、古い表現ではあるが思わず心臓が止まるかと思った。
「?!」
目を白黒する僕の、背中からひょいと顔を覗き込むようにして笑みを浮かべているのは知っている顔だ。
「な…どうしてここに君が…」
己の声がかすんでいるのが分かる。
だが本能の何処かでは、こんな所で会えるのは彼女くらいなものだという得体の知れない納得感があるのは何故だろう。
「こんな所でお会いするなんて、奇遇ですね,ルーンさん」
「奇遇と言うかなんと言うか…先日はありがとうございました,ルーフさん」
ルーフ=サイデリア――アスカと行動を伴にしていた頃、温泉宿で彼女を追ってきたファレスのヤマトとヤヨイをあっさりと退けた女性である。
彼女はやおら、僕に頭を軽く撫でた。
途端、笑みの浮かんだ彼女の顔がそのままの表情で青く変化する。
「どうして実体でこんなところにいるんですか?」
引き吊った笑みの彼女。ふと思う。
僕は今、彼女の手を感じた。ということは……
「君も実体じゃないのか?」
逆に質問。
「そんなことはどうでも良いんです」
真剣な顔になり、彼女は僕に詰め寄る。有無を言わせぬ迫力を秘めていた。
「帰る方法は確保されているんですか?」
初めて感情を露にした瞳に押さえつけられ、僕はふるふると首を横に。
静かな感情の爆発を感じる。僕が彼女に何か悪い事をしたのだろうか??
「で、でも転移魔法さえ使えれば戻れるよ…多分」
付け加えたのは隠し事ができないと思ったからである。
…どうしてそう思うのだろうか?
彼女はキッと背後を睨む。その先には月読さんが佇んでいた。
彼(彼女?)は僅かに肩の力を落とすと、懐からチョークのようなものを取り出しルーフに手渡す。
”彼女の言うことは聞くのって、何か差別を感じない?”
イリナーゼの心への問いかけに僕はやはり心の中で頷いていた。
ともあれ、
ルーフは僕を中心に床へ魔法陣を描き出した。
陣形は僕の見たことのない――もしかしたら彼女のオリジナルなんじゃなかろうか?――セーマンを基調にした星型である。
「起立!」
「は、はい!」
ピシッ、思わず僕は立ち上がり背筋を伸ばす。
「ルーンさん,私が転移魔法で貴方をこの時空間より飛ばします。それからの手順は…分かってますね」
「え…ありがとう、ルーフさん!」
思わぬ助力に彼女に駆け寄ろうとするが右手で制された。
「陣から出ないで下さい。描くのにも魔力を使いすぎて疲れるんですから」
「あ、ああ」
「では、行きますよ!」
パン,手を叩く彼女。低い呪語の詠唱が図書館に響く。
同時に足元の魔法陣が次第に光を帯び始め、僕を包むように淡い光の壁が立ち上がった。
”いけるわね”
”ああ”
僕は腰の彼女に答え、光の壁に映り始める僕を思う魂に心を馳せる。
海が見える小高い丘――そこにはいつの頃からだろう天使の像が一体佇んでいた。
天使の彼女が見つめるのは遥か海の彼方。その先に何を見るのか…僕は知っていると思う。
『また私を置いて行ったりしたら…ううん、絶対追いかけるから!』
黄色い神官服の少女の声が、その辺りから聞こえた。これは…クレアだ。
それと同じくらいの大きさでこんなのもやはりこの像の辺りから聞こえてくる。
『アスカを探すんだろう? 早く戻って来い,ルーン。お前の生き様、私に最後まで見せてみろ』
口調は同じだが、今までより何処か柔らかいものがある。アーパスだろう。
その2つの声の合間でこんな声も。
『いつまでも遊んでないで早く帰ってきてくださ〜い』
『クレアをこれ以上泣かせたら殺すぞ、ルーン』
…能天気なのはラダーで、えらく怒っているのは…アレフか。アイツ、案外感情を表に出さないのかもしれないな。
そして隠れるように僅かに囁くような声。
『なんか分からへんけど…ルーンちゃん,はよ戻ってきてぇな』
女性の訛りのある声だ。……って誰だ??
ともあれ、皆、待っていてくれている。
それがとても、とても嬉しかった。
『…フェ…様』
5人の呼びかけを包み込むように、それ以上の存在感を持つ声が僕の『魂』に届く。
「これは…」
その声はアークス城でミアセイア王子と戦った際に受けた声にそっくりだった。
『ルシフェル様,どうぞご無事で…』
愛しむ、純粋な敬虔の心。
「僕は、ルシフェルじゃないよ」
『いいえ、貴方はルシフェル様です』
声の主,天使の像がそう告げる。
「前の君にも言ったよ。僕はルーン…」
『……ルーン、ですね』
天使の像は仄かに笑う。それはあのミカエルの香りのする、しかし明らかに別の天使だった。
『早く戻ってきてよ!』
『遅い!』
『さっさとしろ!』
そんな叱咤の声も、今は耳元で聞こえてくる。
『さ、貴方の光を見せてください、ルーン』
ラダーの声。彼はまるでこちらの気配に気づいているかのようにこちらに優しい瞳を向けていた。
天使がその両手を大きく広げる。
『貴方はルーン,捕らわれた私の主――ミカエルの心を受け入れてくれた優しい人―――』
ピシィ!
何かがはじける音が響く。
目の前の光の壁が砕けて永遠に続く光の道を作り出していた。
道の先には言うまでもなく彼らが待っている。
僕は視線をふと横に向けた。
微笑むルーフと、憮然とした月読の姿が光の向こうにある。
僕はある言葉を送った、それはしかし光の壁を通して向こうには届かない。
だがルーフは意味を理解し、彼女のアスカに似た形の良い唇が何らかの言葉を発した。
やはり僕のところには届かない。が、その意味は届いていた。
初めて会ったあの時から、彼女のことは本能で気づいていたと思う,だが確信などありはしなかった。
そりゃ、当然だろう。
彼女が僕の前に現れたのは、きっと将来僕が何らかのヘマをしたに違いない。
僕は右手を軽く上げ、しばしの別れ。
彼女も習って手を上げる。
僕はこう言った。
「いつもすまないねぇ」
それに彼女はこう答えたに違いない。
「それは言わない約束よ、お父さん」
僕は想いを胸に抱き、前だけを見つめて足を踏み出した。
歩を進めるごとに、胸に抱いた彼女の想いごと、手のひらに掴む霞みの様に消え去るのを感じながら―――
<Camera>
海が一望できる小高い丘に、5人は佇んでいた。
クレア,ラダー,アレフにメイセン、そして合流した女性姿のアーパスである。
アーパスを見るに当たって、クレオソートが驚きに目を廻し、アレフがつい言い寄ってしまったのは余談である。
「ねぇ、ラダー,どうしてここにお兄ちゃんが来るって分かるの?」
クレアは水平線の向こうに沈み行く夕日を眺めながら、いつもと変わらぬ笑みの青年に尋ねた。
彼等のいるのは史跡『凍れる天使の像の丘』。
いつの頃からか立っているのか分からない――その観光地として名高い天使の像の前に彼は現れると言ったのはラダーである。
この天使の像には、かつて万人を愛すべき天使である彼女が、たった一人の男を愛してしまったが為に天界より罰を受け、永遠に石として地上に落とされたものだと言う謂れがある。
石と化した彼女はこの地で愛した男に触れる事もなく、ただ見つめるだけの拷問を受けているのだというのだ。
もっとも別の説では、四大天使であるミカエルが天界より、その死に際に落とした懐刀であり部下である天使『アリエル』のなれの果てであるとか、芸術家アレクサンドル=マックイーンが酔った勢いで彫った像だとか、様々であるが……
ともあれ、ラダーはクレアの問いに答える事なくただただ笑みを浮かべるだけだ。
「も〜、帰って来たら今度は離れないんだから!」
ブツブツ呟き、クレアはトンと天使の像に額を当てた。
『今度は任務を放棄したくありません』
「え?!」
唐突に女性の声が彼女の脳裏に直接響く。
慌てて顔を上げると、天使の像は姿を消していた。代わりに地面には刃渡り20cmほどの銀の短剣が抜き身で刺さり、夕日を鮮やかに照り返している。
思わずクレアは短剣を手に取った。
光の神の神官である彼女は、剣などの刃を持つ武器の使用は禁じられているわけではない。地の神などは禁じているそうだが。
だから、彼女がそれに手を伸ばすのは当たり前のことだった。
「? なんだろう……変な感じ??」
短剣を抱くと、まるで気の合った友達と出会ったような――不思議な感覚があった。
「そんなことより!」
クレアは見つめ直す。天使の像が消えたのだ,一体どういう事なのだろうか?
と、唐突に背後に光! そんな疑問は霧散する。
振り返るとそこには眩い光があった。
その中、夕日と同じ光を放つ見覚えのある人型がある。
「あ…」
光が、消える。
同時に夕日もまた水平線の向こうに沈んだ。
「ただいま」
生まれた彼は、そう歯にかんだように言う。
クレアは駆け出し、次の瞬間には彼の胸に飛び込んでいた。
「ばか! お兄ちゃんのばぁか!」
彼は困った顔を浮かべ、アーパスを,ラダーを、アレフを,そして戸惑いを浮かべてメイセンを見つめる。
最後に胸の中の彼女の頭を軽く撫でた。
クレアは彼の胸の中、顔を上げて小さく笑う。
「おかえり、お兄ちゃん」
青年・ラダーは身に纏ったローブを翻す。
途端、巨大な竜が姿を現した。月明かりに冷たい黄金色が照り返す。
「行くのか、ラダー?」
ルーンは驚いた様子もなく彼を見上げ、尋ねた。
『ええ、火の転移点であるファレイラ火山へ』
「アスカ…だね」
確信を持った問いに、竜はコクリと頷いた。
「彼女は頼むよ、ラダー。僕は『地』へ向かう,『ほつれ』で合流しよう」
『気をつけてくださいね、ルーン』
「ちょっと待ったぁぁ!!」
そんなルーンとラダーの会話に飛び込むはクレオソートである。
「何何何?? 全然分かんないよ! 何で勝手に話が進んじゃってるの? ど〜してラダーが竜なの? それにアスカさんを頼むって、お兄ちゃん,彼女探してたんじゃないの?!」
「あ、ああ、そうだけど…どうせこの先で会う事になってるし」
面食らってルーン,そこにクレアは彼の態度が気に食わなかったらしく突っ掛かる。
「何よ、この先って!! それにこんなのほほんとした竜に任せちゃって良いワケ?」
『のほほんって…それはないですよ、クレアさん』
「まぁ、確かにのほほんだな」
「うむ」 相づちを打つはアーパスとアレフだ。
「しゃらっぷ! こうなったらアスカさんは私が責任持って守ってあがるから!」
「「へ?」」
胸を張って言うクレアに、全員から同じ反応が返ってくる。
その反応は、彼女の懐にしまわれた短剣からもあった事には誰も気付いてはいない。
「お兄ちゃん、安心してね。アスカさんは私が責任持って連れてくから,お兄ちゃんはやらなきゃいけないことがあるんでしょ。聞かないけど応援してるからね」
「クレア…?」
ルーンに振り返らないようにして、クレオソートは戸惑っているラダーの背に乗った。
「行くわよ、ラダー!」
「仕方ねぇな」
彼女の後ろにアレフも飛び乗る。
ラダーはしばしルーンと目配せし、やおらに取り残されたメイセンに視線を移した。
『メイセンさん,ルーン達を北へ』
「は、はい!」
ラダーに睨まれ、メイセンは一瞬にしてラダーよりはひとまわり小さい竜に変化した。
青い鱗を身を纏った、青龍である。
メイセンは目の運びだけでルーンとアーパスに背に乗るように告げる。
『では、また会いましょう』
クレオソートとアレフを背にしたラダーが黄金の翼を南へ向ける。
「ああ! クレア,アスカを頼んだよ」
「まっかせて!」
ルーンの声にクレアは力こぶしを作って応えた。
メイセンが、ルーンとアーパスを背にして北へと青き翼を広げた。
バサリ
バサリ
この日、主をなくした凍れる天使の像の丘から2体の竜がそれぞれの方角へと、暖めていた翼を夜空に羽ばたかせたのだった。
不死山の山頂は戦いの痕か、そこかしこに黒く焦げた痕が残っている。
その黒い焦げ痕から立ち昇る赤い影。
それはやがて人の形――黒衣に身を包んだ赤眼赤毛の美丈夫へと姿を変えた。
知る人は知るだろう,彼はかつて魔王『紅』と呼ばれていた事を。
「ふむ」
彼は手の届きそうな夜空を見上げ、風をその身に受ける。
そしてそのまま、視線を南西へと下ろす。
赤い瞳に何を見るのか、彼は僅かに微笑んだ。
「光よ、見せてもらおうぞ。汝の力をこのヴァルダ=マーナに」
風が一際強く吹きすさぶ。
次の瞬間には彼の姿は風に吹き散らされたかのように、跡形もなく消え去っていた。
〜 Promenade 〜
「お姉さんの物語って、たくさんの物語が集まってるんだね」
「なに言ってんだよ、お前。たくさんじゃないだろ? 一つじゃん」
コツン、眼鏡の男の子の頭を少年は軽くこずいた。
「私は2つのお話って感じがする。ルーンさんとアスカさんの2人のお話」
少女がそう呟いた。少年はさすが困った顔をしている。
シャララン♪
吟遊詩人は竪琴を軽く弾き流す。
途端に三人は彼女に視線を戻した。
「物語はね、聴く人の数だけあるの。だから貴方達が思ったお話は、貴方だけのお話なのよ」
歌うようなその言葉に、しかし子供達は首を傾げるばかり。
どうやら難しかったようだ。
吟遊詩人はそんな彼等にクスリと微笑み、再び物語を紡ぎ出す。
想い想いて遠く二人
されば心は近くなる
二人飾るは舞い散る悲劇
されど常に愛おしき………
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