粉雪と桜吹雪を身に纏い、紅の着物に身を包んだイフリータは透き通った微笑みを誠に向けている。
「イフリータ…君の命は…」
「初めて誠と出会ったのは…寒い冬の日だったね」
誠の言葉を柔らかに遮り、イフリータは遠い昔を思い出しながら言葉を紡ぐ。
誠もまた、遥けき昔を思い出す。そぅ、この東雲市に引っ越してきたのは彼が4,5歳の頃だった。
「ああ、陣内と、菜々美ちゃんと、それに…確かここでかくれんぼかなにかをしとったっけ」小さく、寂しげに微笑み誠は呟く。
「最後まで誠は見つからなかったな」
「この木に登っとった。今思えば、あの時イフリータ,僕を葉で隠してたんやないか?」
誠の疑問に、イフリータはクスクスと笑う。肯定のようだ。
その笑みのまま、彼女は誠の瞳を見つめる。
深いアメジストの瞳の奥に、彼の姿を刻み込む様に。
「永い時間を生きていた。その時間の中で、お前と伴に過ごした時間は一番輝いていたよ。特に直接、お前と言葉を交わせた一年にも満たないこの時間…私はこの為だけに生きてきたと言っても悔いはない」
「やめや!」叫び、誠はイフリータの手を取る。冷たい、氷のような冷たい手だった。
誠は両手で凍った彼女の手を解かすように包み込む。
「暖かいな」屈託のない笑みでイフリータ。
「戻ろう」
首を横に振る。彼女の微笑みはいつしか消えた。
「もぅ、立っているのが精一杯だよ」悟ったような言葉だった。
彼女は桜の木を,この小高い山を見渡す。
「私の門出に、この山の木々が力を貸してくれている…季節外れの桜を咲かせる力までおまけに付けてな」
「門出…なんか?」誠の問いにコクリとイフリータは頷いた。
「幸せすぎたよ。これ以上の幸せは、バチ当りさ」
「そんな…」誠は口を開きかけ、しかしイフリータの表情の奥に潜むもの…ひとたび表に出てしまえば決壊した堤防の水の様に決して止まらない、溢れそうな気持ちに気付き、口をつぐむ。
その気持ちを彼女から少しでも引き出してしまえば、イフリータは悲しみのまま消えてしまう,誠は己の無力を改めて知った。
彼は頭上を見上げる。
桜が雪をパートナーに夜空を舞台として北風をBGMに踊り狂っていた。
「素敵なクリスマス・プレゼントや。ありがとな、イフリータ」
「本当は、クァウールに編み物を教わっていてな」イフリータは苦笑。
誠に懐から出した毛糸で編まれた何かを手渡す。
「?」誠はそれをしげしげと見つめた。白い、手袋だった。
ただし右手のみ。
「なかなか、な。もう片方は正月にでもと思っていたが…残念だ」本当に、心から残念そうに彼女は溜息。
「ありがたく、受け取っておくわ。暖かそうやな」誠は微笑み、手にはめる。
毛糸のちくちくした感触が、彼に現実を与えた。
「僕からもクリスマス・プレゼントがあるんやで」
「え?」
誠はポケットから何かを取り出す。
それは赤い宝石のはまった指輪だった。磨き上げられたようなそれは、雪の白を反射する。
「それは…」
「僕も芸がないわ」誠は苦笑い。イフリータの右手を取り…その薬指に通す。
新しい銀のリングには『ifrita』と刻まれていた。
赤い,生命の源と謳われた宝石イフリータに、同名の彼女の顔が映る。
イフリータは顔を上げ、目の前の青年を見た。
彼女でない彼女がかつて体験した、彼女でない精霊が見守った、あの時の光景と現実が重なる。
だが、僅かに重なったにすぎない。
『今』は過去ではなく、主人公は誠とイフリータなのだから。
誠の真摯な黒い瞳に、自分でも喝を入れたいくらい弱々しいイフリータの姿が映っていた。
”誠…”イフリータは押さえ込んでいた気持ちが手に負えないほど大きくなって行くのに気付く。
菜々美と話していた時、押さえ込むことを決意した気持ち。
頭では理解していたその気持ちは、現実では理解できないほど大きいものだった。
「イフリータ」
誠は呟く。
”だ、だめ…言わないで…せっかく納得したのに…菜々美,気持ちを交わすと、お互い傷つくじゃない!”怒りの方向を変えてみるが、無駄だった。
溢れてくる痛いような、熱い気持ち。
「僕はイフリータ、君が……………
ゴゥ!
凍て付く冬の風が、誠の言葉を舞い散る桜ごと街の彼方へと運び去った。
だが、その言の葉は確かに彼女の心に届く。
「…あ」
イフリータは己の頬を伝わる暖かいものに気付いた。
彼女の胸に愛しさ、切なさ,嬉しさと悲しみが満ちる。それが溢れたかのように、彼女の瞳から涙が零れ落ちた。
誠は彼女の両手を力強く掴む。決して放さぬ様に。
「誠…」
アメジストの瞳に映る誠の姿が大きくなる。
イフリータは誠の胸に飛び込んでいた。
「…辛いものだな、人の心と言うのは」彼女の涙は止まらない。
彼女の胸から溢れてくる気持ちの様に。
「遙の気持ちを知りたいと、昔は思っていた。知ったつもりだった。でもそれはこうして実際に感じると…辛いものだ」
消え入る様な彼女の声を放さぬ様、誠はイフリータを強く、強く抱き締める。
「辛いと思えるのはな…」
誠は囁くようにして言う。
「楽しかったから、辛いと思えるんや」
イフリータは彼の胸の中、小さく頷く。
楽しい事、辛い事、その全てが大切だった。
消えたくない,誠と一緒にずっといたい,その気持ちもまた、押さえる気持ちではない。
『好き』というのは、こういうことなのだから。
イフリータは己の気持ちを全て、受け入れる。
しかし、彼女は思う。
誠はどうなのだろう?
「私は私がここに居た事を、お前に覚えておいてもらいたい。でも…」
顔を上げ、イフリータは呟く。
「でもそれはお前にとってひどく重荷になるかもしれない、それが恐い」
「そう思うんやったら、ずっとそばにいてや」少し怒ったような、誠の顔がすぐ近くにあった。
「ごめん…」彼女はそれしか言えなかった。
「君は満足なのか? 僕は納得できへん」
「…納得など、するものか」悔しそうに、イフリータ。
「しかし…ダメなんだ。もぅ、私には力が残されていない」
イフリータは悔しさで叫びたかった。その彼女の背を、誠は優しく叩く。
「忘れへんよ。こんな無責任な子、忘れへんわ」
イフリータが見上げる誠の顔は、涙で歪んで見えた。僅かに視界に靄がかかる。
涙のせいだけではないようだ。
「私がお前と出会えたのは、消え行く私に神様が与えてくれた時間なのかもしれないな」
涙のまま、桜の精は精一杯の微笑みで告げる。
「さようなら、誠。皆に出会えた事、何よりお前に出会えた事を、誇りに思うよ」
「…イフリータ,でも僕は納得してへん。君を何とかして救い出すわ」
「誠…」イフリータは誠の頬に触れる。
ぼやけた視界には分からなかったが、その頬は濡れている様な気がした。
イフリータは上を見上げる。つられて誠もまた、満開の桜を見上げた。
「桜を咲かせる力が残っていて…良かった」囁き、イフリータは誠の胸に己の全てを預けた。
「こうしてお前の胸に抱かれて消えて行けるなんて…私は幸せだよ」
「必ず…必ず助け出すさかい!」強く抱き締められた桜の精は、青年の言葉に力なく首を横に振った。
だが、彼女の表情は満足そうだった。
「今この時を、私はずっと求めていたのかもしれないな」
イフリータは誠の顔を見つめ、僅かにつま先立ちになる。
「好きだよ、誠」
桜散る木の下、二人の男女の唇が重なった。
北風が、吹き抜ける。同時に桜の精は姿を消していた。
「イフリータ!!」誠の悲痛な叫びが、雪と桜を伴って夜空に舞う。
12/24,イフリータは誠の唇に余韻を残して消え去った。
32 別離 了