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 ぶっふ〜〜

 彼女は飲んでいたコーヒーを吹き出した。

 「な、何よ、コレは…」

 わなわなと震える手で見つめるのは一つの図面。

 遠く人々の喚声とざわめき,音楽が聞こえてくる同じ敷地内にしては閑静な教室。

 『科学実験室』

 三年の校章を胸に付けた彼女はしかし、体型的には小学生にも見えなくもない。

 しかし、今のこの表情は決して子供が出来るものではなかった。

 「次元破壊装置…生徒会,いや、陣内。何をやろうとしているのか」

 呆然としつつも、彼女は本能的に体を動かしていた。膝の上に広げるはノートパソコン。

 トトトトトトトトト…

 優雅に、踊るように彼女の指がキーボードの上を滑り始めた。

 「…起動済み,でも希望はまだあるな」眉をしかめて、液晶ディスプレイを見つめる彼女。

 彼女は懐から一枚のFDを取り出す。

 「あの娘に使いこなせるかどうか…賭けてみるのも悪くはないね」

 苦笑とも思われる笑みを零し、彼女はFDを読み込む。

 「接続は0.001sec,この学園のネットワークを孤島にするとはね,なかなかどうしてやるじゃないの,力天使とやら」

 トン!

 彼女の人差し指が、軽快にノートパソコンのリターンキーを叩いた。

 鷲羽 涼子,HNは…




 2−C

 結構繁盛している喫茶店に一人の少女が飛び込んだ。

 「おや、菜々美ちゃん,誠ならいないよ」

 口紅が不気味すぎる女装の怪物・尼崎が肩で息する彼女にそう告げる。

 不気味度が午前中のおよそ3倍程度アップしていた。

 菜々美はジロリ,彼を睨む。そして…

 「死ね、怪物!」

 「ぐほぉ!」

 グラップラーなボディブローを炸裂! 尼崎は口から泡を吹いて倒れた。

 「何なの? ここはウィザードリィの迷宮?!」

 小さく痙攣する彼を見下ろし、菜々美はしばし考える。

 「ここにいないとすると…そう言えばイオノなんたらとかの発表をするって言ってたわね、場所は…中庭裏!」

 菜々美ははっと顔を上げ、教室を走り出る。

 そんな彼女と、倒れた尼崎を交互に、2−Cクラスメートと客は呆然と見守っていた。




 風が動く。サクラの落ち葉が彼女の胸の上でさらり、吹かれて再びその身を空に戻した。

 「う…」

 彼女は僅かな殺気を察知し、本能的にその身を転がす!

 ガキン!

 硬い金属がコンクリートの床を叩く音。

 「ちっ!」舌打ち一つ。

 「?!」彼女は痛みと驚きに目を覚ます。

 先程まで彼女が寝ていた屋上の床にバタフライナイフを突き立てる少年の姿があった。

 「何奴?!」

 先程、暗殺者に食らった脇腹への一撃はじっくりと彼女の内部にダメージを与えている、過激な運動は体が悲鳴を上げて拒否していた。

 大事には至っていない様だが、未だその痛みは抜けない。

 少年は彼女を睨み付けると、ニタリ,笑う。

 「死んでもらうよ、ファトラ王女。我が主が確実に王となる為に…」

 白刃が空を舞う!

 ピッ,ピピッ!

 的確にナイフを振るう少年,よろけながらも後退を続けるファトラ。

 例えファトラがイシエルからダメージを負っていなくとも、少年の技量の方が彼女を勝っていたであろう。

 秋風に裂かれたファトラの服片が舞い、それに混じって僅かな血の飛沫が散る。  “…コイツ,これは勝てぬ!”

 ファトラは小さな傷を次々に作りながらも冷静に判断する。

 少年の目には一片の曇りもない。

 先程のイシエルとは異質の確固たる意志がそこには宿っていた。

 目的の為にファトラを殺す,その為だけの強い意志が。

 トン!

 「しまっ…」

 ファトラの背にフェンスが当たる。これ以上は下がれない。

 少年の振るうナイフは、あまっちょろい勝利の宣言なしにファトラの喉元に真っ直ぐ走った!




 盛況だった。

 「ひやしあめ、一つな」彼女は小銭を、彼女(?)に手渡す。

 「はいどうぞ…って鷲羽先輩」

 素っ頓狂な声を上げるはウェイトレス姿の水原 誠。

 ジト目で彼を睨んでいるのは彼の先輩に当たる三年の女性だった。

 「小坂ちゃん,この子借りるよ」

 グィ、彼女からの代金を受け取った彼の手を掴み、鷲羽は誠をカウンターから引きづり出した。

 「先輩,そんないきなり…」小坂の非難を背に聞きながらも鷲羽は誠の手を乱暴に引いて行く。

 「どないしたんですか,そんなに急いで」

 引っ張られながらも二人は教室を後に。ほどなくして2人は中庭裏に出る。

 校舎を挟んで丁度反対側からはメタル同好会のライブが大音響で聞こえてきていた。

 そちらに観客が取られ、人通りの滅多にないここ中庭裏。

 そこには誠の作るイオノクラフトが置いてあったりする。

 鷲羽はイオノクラフトに腰掛け、目の前の女装の彼を睨みつけた。

 「アンタ,生徒会から頼まれて作った代物,憶えてるかい?」

 「ええ」そんな鷲羽の態度に戸惑いながらも誠ははっきりと答える。

 「何に使うのか,知ってるか?」

 「いいえ,設計図通りに組んだだけですから」彼に彼女はその設計図を突きつけた。

 「一定周波数を発振する5つの装置とその周波数は全て揃う場所に置かれた一つの台。何か分かるか?」

 「さぁ?」即答,直後…

 メキィ

 鷲羽の拳が誠の鳩尾に炸裂した。思わずくの時になる誠。

 そんな後輩にわざとらしい溜息一つ。鷲羽は説明を続けた。

 「5つは五芒星の形で配置され、その中心に集約機と思しき装置が置かれる。発振される周波数は高周波,それはお前は専門外とは思うけど、人の精神に感応し得る周波数だ」

 誠は言われながら、設計図を見つめる。

 何をそこから察したのか、次第に顔色が青くなって行く。

 「これって…もしかして」恐る恐る顔を上げる誠。鷲羽は大きく頷く。

 「人の精神を食ってエネルギーに変換する,私も初めてこんなのを見るよ」

 苦々しく呟き、彼女は続けた。

 「さて、この機械を使って生徒会は何をやろうとしていると思う? そしてそれを実行する為に他に必要な要素は、何か?」

 問う鷲羽の後ろから、駆け寄ってくる一人の少女の姿があった。




 1−A

 そこに黒スーツの彼女と杖を手にした女性が訪れていた。

 「ここに誠がいると聴いたのだが」

 杖を手にした女性・イシエルが売り子の彼女にそう問うた。

 「さっき鷲羽先輩に連れて行かれましたけど」思い出して憮然と彼女,小坂は答える。

 「何処行ったか分かるか?」赤毛の黒スーツが続けて訊く。

 「多分…科学部の出し物のある中庭裏じゃないでしょうか?」

 「サンキュ!」シェーラは小坂にそう手を振ると、イシエルを伴って教室を走り出て行った。

 「何かしら??」小坂は首を傾げながらも、売り子を続ける。

 誠が去った後も、ひやしあめは盛況だった。




 「終わりだ!」気迫と共に吐かれる少年の声。

 「くっ」思わずファトラは目を瞑る。

 突き刺さった白刃が赤く塗れ、熱した鉄棒が喉に押し込まれたかのような感覚が…

 ………なかった。

 「?」目を開けるファトラ。

 ナイフを振り上げたままの体勢の少年がいた。

 手はロープなようなもので巻きつかれ、微動だにしない。

 ファトラは身を横に投げる! 途端、ロープは外れて少年はたたらを踏んだ。

 「くそっ!」少年からいまいましげな文句が吐かれる。

 ファトラはロープを,鞭を手にした救いを見た。

 「ミーズ先生…?」

 少年に目に見えるほどの殺気を飛ばすは白い仮面の女性。しかし仮面などしていてもその正体は見れば分かる。

 ファトラの担任,ミーズ=ミシュタルだ。

 ピシィ!

 「クッ!」

 ミーズの振るう鞭が、少年の手の中のナイフを弾き飛ばす。

 カランと軽い音を立てて、白刃はファトラの後ろに落ちた。

 「形勢逆転ね,ナハト…」

 凍りつく冷たい声が、白い仮面の内側から放たれる。




 鷲羽先輩の後ろから飛び出す様に現れたのは…

 「まこっちゃん,お兄ちゃんが、お兄ちゃんとディーバ先生が!」

 「菜々美ちゃん?」

 長い距離を走ってきたのだろう、菜々美は誠達の前まで来て膝に手を付いてしまう。

 ぜぇぜぇ、大きく息をしてやがて落ちついたのか、顔を上げて言った。

 「付き合ってるのよ!」

 「「はい??」」訳が分からない展開に首を傾げる誠と鷲羽。

 「っと、じゃなかった,なんかまたバカな事を企んでるのよ」

 「バカな事って?」やっぱり征服だろうな,それも鷲羽に怒られたこの装置が絡んでいるに違いない,思いながらも誠は尋ねた。

 「えっとね、ディーバ先生の世界とこの世界を繋げて、先生の配下をこっちの世界に呼ぶとか呼ばないとか…」

 「ああ、やっぱり!」誠は頭を抱える。

 「中央に設置するこの装置は次元破壊装置,これには莫大なエネルギーが必要だものね」ぽりぽりと頭を掻きながら、思ったとおりの推測に鷲羽は誠ほどは驚かない。

 「でも!」

 誠は思い直したように顔を上げる。

 「次元破壊ちゅうても、精神エネルギーだけやのうて、物理的なエネルギー,例えば膨大な電力エネルギーが必要やで」

 「すでにこの学園のネットワークは何者かに占拠済みだよ」

 冷酷な答えが、誠の希望を打ち砕く。

 「ほ、ほな、早くネットワークを奪還せんと!」きょろきょろと左右を見渡しながら誠。端末を探すつもりなのだろう,しかしそれは鷲羽の一言で制止される。

 「もうやってもらってる,多分…間に合わないが」

 「やってもらって…?」訝しげに誠。その隣では付いていけないのであろう,菜々美が困った顔で二人を眺めていた。

 「そんなことより、高周波が発振された時のことを考えなきゃいけないな」

 言いつつ、彼女はイオノクラフトの横にいつ置かれたか,40Wスピーカーの付いた装置を誠の前に置いた。

 そしてスイッチON。

 リィ…

 僅かに耳に届く、キンとした音が放たれた。

 「これは?」

 「発振される高周波と対を成す波長を放出している。半径20mはこれで安心だよ。しっかし短時間でこれを2個も作っちゃった私って、やっぱり天才?」

 「菜々美ちゃん,この学校の地図って持っとるか?」

 「う〜ん、持ってないなぁ」

 「聞いてよ…」無視された鷲羽は一人寂しく呟いた。

 誠は鷲羽をあしらいつつ、頭の中に学園の地図を描く。

 精神エネルギーを収束する次元破壊装置は設置された五芒星の中心に置かれるはず。

 その中心は…




 曲はクライマックスを迎える。

 観客達はノリにノッて歓声を上げていた。

 ”電力は確保した。そろそろやるか,プログラム『Godeye.EXE』起動!”

 ジャァアァァン…

 ギターの裂音が巨大なスピーカーから鳴り響く。

 それを合図に、学園を取り囲む様にして五芒星の形に設置された五つの装置が起動した。

 ジャァァン…♪

 数瞬後、スピーカーからはギターをかき鳴らす力天使以外の音は消え去っていた。

 「これからが本番だ!」

 倒れ伏す観客とバンドの仲間達の中、彼は一人ギターを鳴らす。

 雲一つなかったはずの青空に、灰色のそれが渦巻く様にして形成しつつあった。




 バチン,そんな何かが切れる音が校舎中に響き渡った気がする。

 「??」

 一瞬、部屋の蛍光灯が消えるが、予備電源にでも移ったのか,すぐに灯りを取り戻した。

 「何かしら、今のは?」

 「この東雲町全ての電力が奪われたんですやろ」

 「え?」

 クァウールはあっさりと言うアフラの言葉を疑う。

 『 管理者用パスワードを入力して下さい 』

 アフラは暗号解析プログラムを実行,容易くパスワードを解析しネットワークに侵入する。

 「アフラ…何か様子がおかしい…」

 「話かけんといてや,クァウールはん」アフラはモニターを睨み付けながら肩を叩く彼女に応え、指を動かす。

 クァウールは小さく諦らめの溜め息を吐いて、辺りを見渡す。

 3台のスーパーコンピューターは主にファンの音であろう,重い音を空間に響かせていた。

 この3台のコンピューターによってこの東雲高校,大学,そして隣接する東雲図書館は電源やセキュリティ,その全てが制御されている。

 だからここを占拠するということは学園を占拠したことにもつながるのでガードもしっかりしているはずなのだが…ましてや今年の春に無名のハッカーによって占拠され、それ以来警備が強化されたと聞いている。

 リィィィ…耳障りな音が部屋を満たしている。これは何の音だろうか?

 そんなことよりも,クァウールは思う。

 先程まであれほど祭りで騒がしかった校舎は、今はシンと静まり返っていた。

 ここの防音が完璧なのだろうか? それとも何かあったのだろうか?

 クァウールは前者であることを祈りつつ、アフラを横から見守った。




 どくん…

 「ぐっ…」

 「がはっ…」

 ファトラとミーズは胸を押さえる。

 己の心音が妙に大きく聞こえた。

 「な、何だ,これは…」

 「力が…抜けて行く…」

 まずはファトラが膝を付き、すぐに耐えかねたようにその場に倒れ伏せる。

 後を追ってミーズもまた、両膝を足元のコンクリートに付けた。

 力を失いつつある彼女の目の前には、懐から2本目のナイフを取り出したナハトの姿ある。

 「形勢逆転,天は僕の味方をしているんだね」ニコリ,彼は微笑む。

 「一体何をした…」霞む目でミーズは迫りつつある死神に問う。

 しかしナハトは答えない。

 リィ…そんな小さな音が、ナハトの懐から聞こえた気がした。

 ミシィ

 何かが裂ける,そんな音が遥か頭上から聞こえる。いつしか青かった空はどんよりとした灰色に変わっていた。

 「さよなら、おばさん」白刃が、ミーズの視界に広がる。

 バキャ!

 そんな破壊音がミーズの目の前で鳴った。

 ナハトの小さな体は真横に吹き飛び、ボイラー質の壁に激突,そのまま気でも失ったのか動かなくなった。

 「??」

 朦朧とした意識の中、ミーズは目の前に立つ背中を見つめる。

 「愛のムチだ,反省しろ、ガキんちょ」苛立った男の声。

 「…藤沢先生?」

 振り返る彼のそんな面影を眺めながら、ミーズはファトラと同様、その場に倒れ伏せた。

 「ミーズ先生,それにファトラ君」

 男,藤沢は屋上で倒れた2人を見渡しながら己もまたその場に膝を付く。

 「一体何だってんだ…力が抜けて…行きやがる…」

 フラリ,彼はそのままミーズに折り重なる様にして倒れた。

 彼等4人の頭上には、灰色の雲を引き裂いて一つの巨大な両開きの扉が現われつつあった…




 ギシィ!

 軋むような、そんな音が学園全体に響いた様な気がする。

 「ん?」

 「始まったよ!」鷲羽が緊張を以って叫んだ。

 装置『五芒』が起動したのだ。

 「「誠!」」同時に校舎からそう叫んで現れるは二人の女性。

 「シェーラさんにイシエルさん?」

 「イフリータが!」口にするイシエル。

 「あ、お兄ちゃん!」それを遮って、菜々美は一点を指差して叫んだ。

 誠達は一斉にその方向に振りかえる。

 ザザザ………水が流れ落ちる音が彼らの視線の中途にあった。

 中庭裏には真ん中に池と小さな噴水がある。誠のいるここからまるで反対側に陣内とディーバが現れたのだ。

 そして彼らの目の前には誠の組んだ装置の一つがある。

 人と一人が乗れるくらいの、モニターの付いた教壇のような台。

 「止めるよ,誠!」鷲羽が駆ける!

 「あ、うん…」誠も慌ててその後を追った。

 「え?! お、おい、一体何が?」シェーラもまた慌てて彼の後を追う。

 その時である!

 ガゴン!

 「「?!?!」」

 何かが拓く音が、頭上からした。

 すぐ近くからメタル同好会の耳障りな音楽が聞こえてくる。

 そんな嵐のようなBGMを伴って、青かった空はいつしかどんよりとした灰色の厚ぼったい雲に覆われていた。

 「何でぇ、ありゃ…」シェーラは掠れた声で頭上に展開する事態に呟いた。

 雲の隙間に、巨大な扉があった。




 全ての柵を力ずくで砕きつつ、死の天使は奥へ奥へと侵入する。

 経過において、これまで力天使が行ってきた実行命令が彼女の手に伝わってくる。

  学園全権掌握,セキュリティシステムを無効にします

  東雲市役所サーバーに介入,東雲町電力供給システムの権限を移行しました。

  東雲町電力供給を学園第3ブロックへ集約します。

  プログラム『Godeye.EXE』を起動しました。

  プログラムスイッチ ar- aa 120 336

  プログラム『Godeye.EXE』,第一段階完了。

  プログラム『Godeye.EXE』,第二段階に移行します。

  ハードウェア『五芒』を検出。発振します。

  充填中…5%…25%…56%…80%…100%。エネルギー充填完了。

  プログラム『Godeye.EXE Part.2』に移行します。

  プログラムの停止は実行則第4−3項を参照下さい。

 “何をやっている? 力天使?!”

 死の天使は急ぐ。嫌な予感が、彼女を包む。

 ダイレクトに彼女はこのサーバーにアクセスしている。先程よりも実行速度は飛躍的に増大はしているが、いかんせん,すでに力天使が支配するフィールド。

 “勝てるか…?”

 自問,冴えた頭の彼女には的確な一つの答えしか返ってこない。しかしそれに反する希望を持たざるを得なかった。

 “赤き巫女の例もある,勝機は何処かにあるはず”そう,彼女はある噂を思い出した。

 あらゆるプログラムを破壊する『秘剣・明星』を携えた上位ハッカー『赤き巫女』。

 完全な愉快犯の彼女は米国FBIサーバーにて完全に包囲されたと聞く。

 その際あらゆる制約が掛けられた、がんじがらめの電脳空間においてその制約ごと叩き切って脱出したという噂。

 “コツでもあるんやろか?”

 思いつつ、彼女は分厚い黒い壁に遭遇。

 “…ともあれ、第2ラウンド、開始どすぇ!”そして彼女は最後の壁を打ち砕いた。

 「来たな,手遅れではあるが」待っていたのだろう,機械の天使はそう微笑む。

 彼の目の前に、白い死を纏った天使が虚空より出現する。

 HN・死の天使,上位ハッカー。

 「何をした? 力天使とやら」死の天使は椅子に座る彼に問う。

 その椅子こそ、この学園のみならず、東雲の電脳世界をコントロールする王の椅子,そう言って良い。

 「この学園の全ての権限を奪い、何かのプログラムを実行したのは分かる。東雲町の電力供給を全て必要とするプログラムとは何?」

 「ほぅ」力天使は感嘆の息を漏らす。

 「そこまで調べがついているか」

 「ここに至るまでにそれくらいのことはすぐにでも分かるわ。一個の町の電力は相当なエネルギー量おます。それを…」

 「必要としているのは電力エネルギーだけじゃ、ないがね」

 「?」力天使の余裕な言葉に、死の天使は怪訝な顔をする。

 「ここまで入り込んだ貴女に敬意を払って。我々は人の精神エネルギーも頂いている」

 「人の精神エネルギーやて?」

 椅子から立ち、腕を鳴らしながら死の天使に向き合う力天使。

 それが合図かの様に、彼の背後には様々な虫型の攻性プログラムが姿を現した。

 サーバーのマシンパワーは彼の行動を全てサポートしている,この空間においては力天使が犬と言えば猫でも犬になる。

 死の天使もまた指を鳴らして攻性プログラムを召喚。

 “2体のみ…か”自らの身を守るようにして現われる風の乙女に舌打ちし、死の天使は身構えた。

 「もっとも東雲学園にいるであろう,貴女が今どうして精神エネルギーを奪われることなく、実体の方が無事なのか不思議ではあるが…」首を傾げながらも余裕の表情で力天使。

 「そりゃ、そうさ」

 「「?!」」

 それに応えるは死の天使ではない。

 「誰?」死の天使は声の元を探る。

 表面上のネットワーク介入ならば可能であるという制約が力天使によって掛けられている。

 しかしこんな深部にまでアクセス権を持つことなど,ましてや支配者である力天使が気付かないとは考えられないことだ。

 2人の間に一匹の小さなカニが這っていた。

 赤い、掌に乗りそうなほど小さなカニ。それが偉そうに胸を張って喋っている。

 ピッ,右のはさみを力天使に向け、カニは告げる。

 「人を音叉に例えて精神を共振させ、力を取り出すアンタの装置,『五芒』とか言ったか,それは対波長の音波を出してやれば、打ち消されて効果範囲外に逃れられるのさ」

 「何者だ,お前は?」

 呆れたような,驚いたようなそんな雰囲気で力天使は死の天使と同じく問うた。

 そこには姿を見て感じたのであろう,相手に対する軽視も含まれている。

 だがそれはこの世界においては愚かな判断だ。姿形など、あってなきもの,それが電脳世界。

 「さぁ、死の天使,私からのもう一つの贈り物だ」力天使を無視。

 カニの姿が歪む,粘土細工のように長く伸び、それは一振りの両刃の剣となる。

 赤い、まるで血が霧の様になった刀身の剣…

 反射的に、死の天使はそれを掴んだ。

 死の天使の掴んだ右手が、剣が染み込んだように赤く染まる!

 同時に身に纏った風の乙女達が全身赤く染まった!

 「何を得ようと、俺のフィールドで勝てるつもりか?」

 力天使が右手を振り上げる。

 それを合図に、虫達が一斉に死の天使に襲い掛かった!

 「行け,シルフィード!」声に応じ、2体の風乙女が駆ける。

 多勢に無勢…

 「んな!」驚きの声を上げるは死の天使。

 風乙女の放つ破壊の白風は赤き奔流となって虫達を飲み込み…そして

 「消えた…?」呆然と力天使。

 彼の攻性プログラム達は空間の闇にカケラすら残さずに消えていた。

 対する死の天使は、狂ったように空間を飛びまわる2体の風乙女を制御せんともがく。

 「何どす? この凶悪な破壊のルーチンは…」風乙女の一体を強制終了させて消すと、死の天使は残る一体の制御をどうにか掌握。

 血の如く赤く染まったシルフィードを盾にするように、己の前に据え置いた。

 力天使は試すように再び虫の大群を襲いかからせる!

 死の天使の剣であるシルフィードは反射的に翼を広げ、羽ばたく。

 シュ…

 まるで虫除けスプレーを食らったかのように攻性プログラム『バグロム』達は空間の闇に消え去った。

 「厄介なことになったな」力天使は小さく舌打ち,空間に手を広げた。

 ゴゥ,大きな重力のようなものが死の天使を押さえつける!

 はずだった。

 死の天使はその実行命令自体を赤く染まったその右手で断ち切っていた。

 空間の闇が、彼女の払った手の形に切れる。

 「これは…」死の天使は剣を見つめる。

 プログラムの末尾にこうあった。

 『攻性ルーチン「明星」 Programed By Wasyu』

 「あのカニが伝説のハッカー? いや,Wasyuっていうのは…一体どうして?」

 死の天使はしかし小さく頭を横に振って目の前を見据える。

 今は倒すべき相手がいる,余計な考えは後だ。

 「さすが噂に聞こえた死の天使…行くぞ!」

 機械の天使は大きな腕を振るって、その手にした斧を振り上げた…




 城の門のような、両開きの扉。高さは20mはあろうか…

 その門扉が地面を向いている。

 扉の真下は…

 ゆっくりと見えざる力に引っ張り上げられる装置。そこに乗るはディーバ。

 「させへんで,陣内!」

 誠は叫び、幼馴染みを睨みつける。その彼の声に陣内は上空に仰いでいた視線をゆっくりと下に下ろす。

 彼の前にはウェイトレス姿の誠,黒スーツに男装したシェーラ,鷲羽が鋭い視線で睨みつけていた。

 菜々美とイシエルはイオノクラフトの前で呆然と空を見上げている。状況に付いて来れていないようだ。

 陣内は彼らを見遣り、鼻で笑う。

 「遅かったな、諸君」

 胸を張って言い放つ彼を鷲羽は立ち止まり、ビシィ、指差した。

 「陣内,ディーバの乗るあれがこの世界と異世界を繋ぐ接合装置,もしくはあの門扉を開く鍵を搭載したものだろう」

 彼女の目つきは厳しいが、しかし何処かこの状況を楽しんでいる感もある。

 対象がなんであれ、面白いものには興味を示す彼女の悪い癖を誠から良く聞かされていた陣内は、鷲羽のそんな態度にニヤリ,微笑んだ。

 「そこまでお見通しか、さすがはあのストレルバウ校長の秘蔵っ子だけはあるな」大仰に空を見上げ、陣内。

 「だが、もう遅い。ディーバは鍵を手に向かったわ」

 と、そのディーバの乗る装置に向かって輝く光弾が襲いかかった!

 「何?!」陣内はいきなりの出来事に絶句。

 神具『神鳴る杖』を用いて雷撃を食らわせるはイシエル=ソエル。

 「あれを落とせばいいっしょ!」

 「うん、遠慮なしにやっちゃって,ええと…」

 「イシエルよ」

 「イシエルさん!」菜々美に応援され、二弾、三弾と続けて命中させるイシエル。だが…

 「効いてない…」イシエルは息を呑む。

 雷撃をもろともせずに、ディーバは余裕の笑みを浮かべて浮上する装置に佇んでいた。

 「やめな、変わった姉ちゃん!」鷲羽が叫び、言葉を続けた。

 「あれの周りには高周波に乗って精神エネルギーが溜まってるんだ。そんなエネルギーの塊をぶつけたって、相手に力を貸してやってるだけさ」

 「ご名答」しかし実際はどうなるのかはやってみないと分からない,陣内は僅かに流した冷や汗を袖で拭う。

 鷲羽は空を見上げ、隣の青年を睨んだ。

 「だから直接乗り込むしかないのさ,誠!」

 「へ?」名指しされ、戸惑う科学部部長。

 鷲羽は指差す先にはイオノクラフト。

 「あれ使いな! あれでディーバを追え!」

 「でも…多分飛ばへんで」

 ゲシィ!

 問答無用のローキック。

 「やる前から結論づけんじゃないよ! 科学者なろうってんなら理論じゃなく実践だよ!」

 「は、はい!」尻を蹴られながら、駆け戻る誠。

 「させるか!」慌てて陣内は身を翻した誠と鷲羽を追う,が。

 「無駄だよ」彼の行く手を遮ぎる黒スーツのシェーラ。

 思わず、陣内は彼女の前に立ち止まる。

 「ここは任せな、誠」

 振り返ることなくシェーラは後に言い放つ。そして目の前の青年を挑戦的に睨みつけた。

 「ここでノしてやるよ」ペロリ、舌で唇を濡らして彼女は呟く。

 シェーラに陣内は無言のまま、懐に手を忍ばせる。

 「余裕だな,シェーラ」怯える様子もなく生徒会長。

 「お前がアタイに勝てるとでも思ってるのか?」

 「負けは、せんよ」

 バチィ

 「?!」

 火花が陣内の右手から漏れた!

 スタンガン,それも…

 「20万Vか、厄介なものを持ち出しやがって」舌打ちするシェーラ。

 革のコートの上からでも相手を気絶させる事が可能な危険極まりない代物だ。

 シェーラが一発叩きこむのが早いか,陣内がシェーラに触れるのが早いか,それで勝負が決まる。

 「本気か、テメェ…」構えながら、彼女は搾り出す様に言った。

 「愚問だな,今や貴様は我々の敵に他ならないのだぞ」

 身を低くし、シェーラに向かって駆け出す陣内!

 振り上げられる陣内の右腕,身を引く事でシェーラは電撃をかわす。

 横凪ぎの一撃も後にたたらを踏んで再びかわし…

 チッ

 スーツの裾が僅かにスタンガンに触れた。瞬間、その部分の黒がより黒く焦げる。

 「クソッ!」構えなおしてシェーラは舌打ち。

 どうしても触れられたらお終いと思うといつもの動きが取れない,否…陣内の動きがいつもと違う。

 「私もしょっちゅう貴様に殴られていただけではないぞ。動きくらい読めるわ! ひゃ〜っはっはっは!」哄笑しながらスタンガンの攻撃を続ける陣内。

 「世界征服まであと僅か、貴様は私の前に転がる邪魔な石の一つとして我が陣内伝説の中に名を残してやろう!」叫ぶ陣内の攻撃は適確にして早い。

 「ほらほらどうした? 貴様も武器を使ったらどうだ? その二丁は飾りではあるまい!」

 「素人相手に使えるかよ! 青びょうたんがぁ!」繰り出される陣内の突きを全て紙一重で交しながら、彼女は反射的に懐に入った腕の動きを止める。

 ”くそっ,マジで厄介だぜ”

 思わずそんな呟きが漏れそうになった。




 カチャリ、電源装置からコードがイオノクラフトに直結された。

 「OKよ、水原!」鷲羽はクラフトの上に立った誠に叫ぶ。

 そう、軽量化を謀るが故、このイオノクラフトは有線なのだ。

 「まこっちゃん」

 「? 菜々美ちゃん」誠は菜々美に目を向ける。

 「…無茶しないでね」

 ディーバを見上げ、彼女は困った様にそう告げた。

 「わかっとる!」電源スイッチをON,イオノクラフトはグラッと一動した。

 「イオノクラフト,GO!」

 誠の言葉の後、音もなくイオノクラフトは浮上した。

 …地上10cmだけ。

 「「ダメじゃん!」」菜々美とイシエルのツッコミ。

 「電力が足りないんや! っつうか、単一電池一個じゃな」地上の電源装置を睨みつけながら誠。

 「「たった一本かい!」」今度は鷲羽と菜々美のツッコミ。

 と、その電源装置を杖で叩くイシエル。

 「電力か、任せるっしょ!」笑顔で誠にそう答え、

 ダン!

 電源装置に杖で触れた。そして…

 「地電流よ!」

 杖の先端が蒼白く光る!

 途端、

 「うぁぁぁ!!」

 イオノクラフト、急上昇!

 「イシエルさん?!」

 「地電流,か?」

 菜々美と鷲羽は力を込めつづけるイシエルと、上昇しつづける誠を相互に見やった。




 ディーバは台の上のモニターを見つめる。

 機械の瞳が映っていた。

 そして今度は上空を見上げる。

 巨大な扉が迫ってくる。あの扉の向こうに、彼女の故郷があるのだ。

 「そろそろやるかな…」モニターに視線を戻し、彼女は懐のFDを取り出す。

 中に入った実行プログラムを己の掌で開始。

 次の瞬間、彼女の手には金色の鍵が生まれていた。

 そしてそれをモニターの瞳に…擦り抜けるようにして彼女の褐色の手がモニターに入り、瞳に金色の鍵が解け込んだ。

 鍵の柄を持って、彼女はゆっくりとそれを右へと廻す。

 カチリ,音がモニターの中、そして頭上で響く。

 彼女は再び頭上を見上げる。

 ゆっくりと、扉が開き始めていた。

 扉の向こうには懐かしい彼女の故郷…配下であるバグロム達の住む居城が段々と姿を顕わにする。

 「陣内殿とともにこの世界を征服…か。征服、良い響きよのぅ」

 うっとりと、彼女は呟いた。




 「むぅ…」力天使はその腕を止める。

 「どうした!」

 死の天使の赤き一閃が、彼の機械の腕を吹き飛ばす!

 しかし力天使はそれに動じた風もない,くるりときびすを返すと東雲の椅子に戻ろうとした。

 「待て!」

 「それどころではない!」一喝。死の天使は攻撃の腕を止める。

 「帝王の奴…この計画は中止だな」

 「??」

 力天使は規約に沿ってプログラム『Godeye.EXE』に中止命令を出す。

 「一体どうしたと言うの?」

 「このプログラム発案者との意見が合わなかった,それだけのことだ」

 テキパキとプログラム中止の指令を出す力天使に、死の天使は拍子抜けしたように立ち竦む。

 『プログラムの中止は受け付けられません』

 「何だと…」愕然と力天使。そのアクシデントを悟った死の天使は赤い剣を抜いた!

 「どいて,これで!」

 力天使は死の天使の意図を理解し、その場を飛び退く。

 ゴゥ…

 赤い旋風が東雲の椅子を断ち切った!

 空間が砕け、その奥に現われたのは…

 「機械の目?」

 「神の目だ。異世界との通路を作り出す,な。俺達と帝王はただ異世界を見てみたいと、それだけだったのだが…」苦い顔で力天使。

 「あいつ,とんでもないこと考えてやがった」

 「私にしてみたら、アンタもその帝王とやらと同罪だよ」

 「違いない」

 死の天使は赤い風を振るう!

 それは神の目に吹きかかり………そよ風となって消え去った。

 「効かない?!」

 「別フォーマットにでもなっているのか?!」

 どよめく2人の前で、神の目がゆっくりと閉じた瞳孔を広げて行く…

 爆発するような光が、2人に降り注いだ!

   『管理者・力天使はログアウトされました』

   『ユーザー・死の天使はログアウトされました』




 誠のイオノクラフトが徐々にディーバの乗る接合装置に近づきつつあった。

 「させるか!」

 「あ!」

 陣内はシェーラの隙をついて脇を駆けぬける!

 「逃がすか!」追うシェーラ。

 「こんの、バカ兄貴ぃ!」

 バキィ!

 「うげ!」

 菜々美の威嚇の投石がイオノクラフトの電源装置に向かって駆け寄る陣内のこめかみにジャストミート!

 「このぉ!」

 シェーラはその彼の襟首を掴み、渾身の拳を鳩尾に食らわせる!

 陣内はのけぞりながらも手にしたスタンガンを…

 「くそ…」

 バチィ! シェーラの肩に火花が炸裂する。

 「うぁ!」ビクンと身体を震わせ、彼女は気を失った。

 陣内とシェーラは折り重なる様にしてその場に倒れ伏す。




 「じ、陣内殿!」

 地上の様子を見取ったディーバは慌てて飛び降りる!

 その彼女の背には、カゲロウのような透明な羽が羽ばたいている。

 地上に降り立った彼女と入れ替わる様に、誠が装置に到達。

 イオノクラフトから飛び移った。

 「っしゃ!」ガッツポーズ,チラリと上を見上げる。すぐ真上に異界の扉が黒く口を開いていた。

 「ここからが僕の腕の見せ所…やなっ、て??」装置に目を戻した誠はそこまで言って硬直。

 モニターには機械の瞳が映ってはいるのだが、キーボードも何もない。

 「ええと…」

 下を見下ろす。

 学園中で人が倒れていた。彼の組んだ装置によって精神力を吸い取られ、昏睡状態に陥っているのだ。

 陣内が仕組んだとはいっても、装置は誠が組んだ。

 知らなかったとは言っても、こんなものを作ってしまった彼の責任である。

 ”イフリータは…無事やろか”不安が心によぎる。イシエルと一緒に来るといっていたはずなのに、どうしてシェーラとイシエルが一緒だったのか?

 そう、この倒れた人々の中にイフリータもいるのではないだろうか?

 思えば思うほど、不安と苛立ち,怒りと孤独が交錯した。

 「…くそ! こんなもの!」

 誠はモニターに向かって全身全霊の拳を叩き込む。

 人を叩かない拳からは血とモニターのガラス片が飛び散る。

 それでも誠はお構いなしにモニターを,装置を叩き続けた。




 クァウールは慌てていた。

 アフラはモニターに向かい呆然としたままだし、3台のコンピューターからは変な音がしだすし………

 「どうしましょう、どうしましょう…」

 クァウールは右に左に、うろつきながら考える。

 そして、はた,足を止めた。

 「そうですね,こうしましょう!」

 ポン,掌を叩いて彼女はコンピューターから延びるある線を目で追った。

 3本のそれはやがて1つにまとまり、壁のコンセントに。

 クァウールは壁際の電源コンセントまで駆け寄り、コードを手にした。

 その手に力が篭る。

 「えい!」

 カシュ!

 コードを,電源コードを抜いた。

 ウィィィイィィイィィン…

 3台のコンピューターからの音は小さくなり、やがて無音となる。

 「これで安心…だと思うんだけど」




 バシュ!

 モニターから火が噴き出した。

 誠は腕に火傷を負いながらも沈黙して行く装置を見つめる。

 不思議と手の痛みは感じなかった。

 「止まったんか?」

 呟き、上を見上げた。

 次第に閉じて行く異界の扉。

 「陣内殿、陣内殿!」よろめきながら立ちあがる彼に、ディーバは地上に降りたって慌てて駆け寄った。

 「…ディーバ,お前」呆然と、陣内は彼女を見つめる。

 「よかった」ホッとディーバは胸を撫で下ろす。陣内は胸を押さえつつも大怪我をしているわけではないようだ。

 「心配させるな」優しい瞳で彼を見つめる彼女に、しかし陣内は強い非難の色でディーバを睨んだ。

 「征服者としての心構えがまだ出来ていない様だな,ディーバ!」

 「陣内殿?!」陣内の一喝に、ディーバは一歩後ずさる。

 「目の前の小事に大事を失ってどうする? これで…」

 陣内は空を見上げた。扉はもぅ、今回は開かないだろう。

 「計画は失敗だ」苦笑する。

 「すまぬ、陣内殿。しかしわらわにとってお主も…大事なのだよ」

 ディーバは躊躇い、困った様にそう告げた。

 「まだまだ甘いな、お前は国をその背に背負う者,己の感情に流されてはいかんぞ」

 「…分かった」ディーバは彼の言葉に、小さく頷いた。

 陣内は人差し指を上空へ向ける。

 「行け」

 「え…」意味が分からなく、ディーバ。

 「帰るのだ、お前の世界へと」鳩尾に手を当てて、苦しげに陣内は言い放った。

 それはシェーラの攻撃を受けた為か、はたまた内部から痛む為かは分からない。

 「お兄ちゃん!」その会話を聞きつけた菜々美が非難の声を上げるが無視される。

 「人には居るべき世界というものがある。私はこの世界を、お前はお前の世界を統べるのだ」陣内はディーバを真っ直ぐに見つめ、伝えた。

 「陣内殿…」

 「その時、また会おう。楽しみにしているぞ」苦しげながらも微笑む陣内。

 「ちょっと、お兄ちゃん!」

 ディーバは目を瞑る。大きく息を一回、二回吸い、そして目を開けた。

 「ああ,陣内殿。また、会おう!」強い意志と心からの微笑を浮かべ、ディーバもまた陣内にそう返す。

 彼は彼女に右手を差し出す。

 ディーバはその右手を強く握り返した。

 「お別れだ」

 「しばしの…であろう?」

 薄いディーバの羽が、開く。

 細かく振動。

 ゆっくりと彼女の身体が浮上する。

 「必ず統べてみせる,私の力で」

 真摯なディーバの瞳に、陣内は満足げに頷いた。

 「私もだ。それが出来たその時、私はお前を統べに行こう…」

 二人の手が離れる。

 ディーバは背中に闇を背負って、遥か上空へと消えて行った。




 「どうしてか分からへんけど、何とか止まった様やな」

 上空へと飛び去るディーバを眺めながら、誠は呟く。

 ガクン、急に接合装置の高度が下がり始めた!

 「あかん!」

 慌てて誠はイオノクラフトに飛び移る、同時に接合装置は急速に落下,学園の中庭裏にある池に派手な飛沫を撒き散らして落っこちた。

 「ふぃ…危ない所やった…あれ?」

 ガクン、イオノクラフトもまた高度を落とし始める。

 「何でって…げ!」

 何かの拍子で接合装置が落下の際にケーブルに引っ掛けたのだろうか,発電装置とのケーブルが途中で切れていた。

 「ひぇぇぇ!!」誠の絶叫が響く!

 「イ、イシエルさん,まこっちゃんが!」

 「あらら…」イシエルは菜々美の叫に地電流を一端止めると、落下速度を増して行くイオノクラフトを見上げた。

 「誠,行くぞ!!」

 イシエルは神具に気合一閃,吐息と共に電力の光弾をイオノクラフトに向かって発射!

 「「おお!」」

 ちゅど〜ん!!

 それはイオノクラフトに命中。

 「あ〜〜〜!!!」

 誠は絶叫を残して急上昇,急降下を断続的に繰り返し始めたイオノクラフトにしがみついている。煙を吐いたそれは裏山の方へと跳んで行った。

 「あっちゃ〜」笑って額をペシ、叩くイシエル=ソエル。

 「「撃墜してど〜する!」」一同のツッコミ。

 やがて風に流される様にしてイオノクラフトは裏山へ,落ち葉の目立つサクラの木に向かって激突した。




 「電源を落としたか,そういう手があったのだな」

 喚声のないステージの上で、パワーは空を見上げる。

 開きかけた天空の扉が、閉じつつあった。

 その閉じつつある扉に向かって、一つの小さな光が飛び込んで行く。

 「まぁ、実験結果は成功,ということだ。それを手土産にするとするか」

 ギターを肩に担ぐ。

 彼は気を失った観客達に小さく頭を下げると、ステージをゆっくりと降りていった…




 「…あれ?」

 「目が覚めた? 誠?」

 気が付くと僕はサクラの木の根元で背中を抱かれていた。

 そっと上を見上げる。

 深い紫紺の瞳に僕だけを映したイフリータがいた。そのさらに向こうには木に引っかかったイオノクラフトが燻った煙を上げている。

 「ええと、確か僕は落っこちて…」

 彼女の腕に抱かれながら、僕は直前までを思い出す。

 「大丈夫」耳元にイフリータがそう囁いた。

 「え?」

 「ここにいる限り、私はお前を守る事が出来るから」

 「そか…」

 昔から、僕はこの場所が好きだった。

 サクラの木を背に本を読む,宿題を片付ける,物思いに耽る…

 いつも、ここに来ると何かに守られているような、そんな気がした。

 そしてそれが一体なんだったのか,今この時、彼女に背中を抱かれたこの時に全てが分かったような気がする。

 コツンと地面に手を付く僕の手に、何かが触れる。

 ”何や?”目を移す。

 赤い石の嵌った古い古い指輪だった。

 「まこっちゃん!」

 「生きてるか〜」

 遠く、そんな声が聞こえてくる。

 「ともあれ、お疲れ様、誠」疲れきった声で、イフリータは囁く。

 「うん」

 僕はイフリータに、イフリータは僕にその身を預ける。

 秋の風は適度に涼しく、心地好かった。

 その風に乗ってメタル同好会共催のダンスパーティ開催を告げる放送が流れてくる。

 「イフリータ,そろそろ行こか?」

 「ああ」

 僕は立ちあがり、彼女の手を取る。驚くほど、彼女の体は軽かった。

 心なしか、顔色が白く見える。

 「誠? 私の顔に何かついているか?」

 「あ、いや…そうや、イフリータ,これからダンスパーティとかいうのがあるらしいんやが、僕と踊ってくれへんかな?」流れ始める音楽を聞きながら、僕は無意識にそう尋ねていた。

 イフリータは…喜んだ様に見えたかと思うと困った顔をする。

 「嫌か?」

 「いや…踊らせてくれたら、な?」苦笑いの彼女

 言葉の意味は直後に理解した。

 「いたぞ!」

 「イフリータもいるじゃないのよ」

 「あれ??」

 背後から皆が姿を現す。

 「イフリータ,こういう時はどうするか、知ってるか?」

 彼女は小さく首を横に振る。

 僕は掴んだ彼女の手を引いた。

 「逃げるんや!」

 「あ…」慌てて僕を追うイフリータ。

 「あ、逃げたぞ!」

 「水原,私のお説教は終わってないわよ!」

 「元気そ〜じゃん」

 天高く晴れ渡った青空の下、脈略のない鬼ごっこが始まっていた。



25 三叉路 了 




 『東雲祭の集団睡眠事件は原因が究明されないまま捜査は打ち切られる事となりました。周辺住民の証言では空に巨大な扉が映っていた,などがありましたが結局のところは謎のまま。東雲不思議物語にまた一つ、エピソードが加わりそうですね。次のニュースです。東雲市は区画整備問題に関して東雲博物館を東雲図書館脇に創設する草案を議会で合意,来春にはオープン予定を計画…』

 イフリータはチャンネルを変える。

 PM6時30分,この時間帯はどこもニュース番組が放映中だ。

 『エルハザードの王女ルーン=ヴェーナス氏が来週早々にも女王に就任する事が決定いたしました。王の死後、五年は喪に服す習慣があるにもかかわらず3年でこの決定が下されたのは婚約者であるガレス=ナインハルト氏が第二王位継承者ファトラ=ヴェーナス氏の暗殺を企てていたことによるものであり…』

 「誠、なんかTVで身近なニュースしてるぞ」イフリータはぼんやりと画面を眺めながら、台所で食事当番の誠にそう声を掛けた。

 「そか? 地方ニュースなんやないか?」

 『法廷での映像を入手致しましたので御覧下さい』

 画面はぱっと移り変わる。

 被告席には若い青年の姿,原告席には若い女性の姿。

 ともに気品をその身から漂わせていた。

 タンタン、裁判長と思しき老人がハンマーを鳴らす。

 コホン、小さく咳一つ。鷹揚な声でこう被告に告げた。

 「被告人・ガレス=ナインハルトに懲役250年を言い渡す」

 「「わぁ!」」ざわめく観衆席。

 タンタン、そのざわめきを鎮めるかのように何度も裁判長はハンマーを鳴らした。

 被告人・ガレスは二人の警官に引かれながら、原告席の彼女をキッと睨む。

 そして…

 「行き遅れ」ぼそり、呟いた。

 女性の額に怒りの菱形が生まれる。

 「冷たい壁に囲まれて己の非力を知ることね」

 「陰湿なババアめ」

 「何よ、ロリコンホモ野郎!」

 「うるせ〜, シスコンババア!」

 法廷は騒然とする。

 裁判長のハンマーの音が虚しく鳴り響いていた。そこで映像は途切れる。

 『…案外お似合いのカップルだったのではないでしょうか? また、これに順じてエルハザード首脳部が一新されるとのこと。で、では次のニュース…』

 しどろもどろのアナウンサーを眺めつつ、イフリータは再びチャンネルを変えていた。




 誠とイフリータ,菜々美にクァウール。藤沢にミーズは見送りに空港へとやってきていた。

 「しっかし急な話だな」

 「そうでもないのですけどね」藤沢のぼやきにミーズが言葉を挟む。

 「ファトラはんは悪く言えば生き餌として日本に来たさかいに」

 「アフラさん、悪く言いすぎですよ」

 「いや、その通りじゃ」ファトラはそんな誠に苦笑した。

 現れるのも突然だが、去るのも突然だった。風のような御人や,誠は後にそう述べている。

 ファトラに姉のルーンから帰国命令が下ったのである。

 何でも彼女の力が急遽必要になったとか…今、エルハザードは一人の有力貴族のクーデター未遂に揺れているのだ,王族である彼女とその一行の帰国はやむを得ないことだ。

 「もっともわらわとしての目的はクァウールを連れ帰ることであったが」

 チラリ、とファトラはアフラの隣に立つ同級生を見た。

 彼女は小さく肯くのみ。

 「まぁ、確約は取れたから善しとするわ,修学旅行に行けなかったのは残念じゃがな」半分満足、半分不満げに一人納得してたりする。

 「クァウールさん、あんな悪徳王女と何を約束したの? 人生棒に振っちゃうわよ」菜々美がそっと耳打ち。

 「いえ、大学まで卒業して、ちゃんと知識を身につけてからファトラ様のお手伝いをすると約束したのですけど」

 「それが問題なんだってばさ」

 「こら、そこそこ、何をコソコソわらわの陰口を叩いておるか!」当の悪徳王女が非難を上げる。

 「でもシェーラさんとアフラさんまで帰ることはないんじゃ」

 不思議そうに誠はアフラに尋ねた。彼女は小さく首を横に振る。

 「今回の黒幕がダレス候でなければ問題はなかったんどすが。結構、奴の息のかかった要人は多いんどす」

 「特に私やシェーラくらいの体術に長けた人間が一人でも必要な時っしょ」

 「イシエルも行くのか?」イフリータは不思議そうに尋ねた。

 「ああ。いつでもコイツの命を狙えるからな」冗談なのか本気なのか,イシエルは言ってファトラを見た。

 「ああ、恐い恐い」茶化す様に、ファトラは言って隣に立つ2人の双子に視線を移す。

 そんなファトラとイシエルの間に入り込みつつ二人はファトラに告げた。

 「ファトラ様の身の安全はアタシ達にお任せください!」

 「姉さん、今の僕たちの格好じゃ、全然説得力がないよ…」

 アレーレとパルナスはともにギブスをはめたり、所々に包帯を巻いたりと、かなり痛々しい。

 そんな二人にミーズがしゃがみ、頭を撫でた。

 「でもしばらくは無理してはだめよ。逆に足を引っ張りますからね」

 「「おばさんに心配されてもな〜」」思わずつぶやきが口に出る双子。

 撫でた手がアイアンクローとなって2人を掴み上げていた。

 「「ぎにゃ〜!!」」

 「ミーズ先生ミーズ先生!」無駄だと思いつつも藤沢が止める。

 それに苦笑しながら、シェーラはミーズから距離を取る誠に話しかけた。

 「なぁ、誠」

 「はい、何でしょう?」

 「あのな、一段落したらエルハザードに…」

 「エルハザードに遊びにきておくんなまし、誠はん」横から入り込むはアフラその人。

 「はい、ぜひ!」誠は彼女に嬉しそうに頷いた。

 「アフラ、てめぇ…」しかし彼女は物言いたげなシェーラを無視。

 「それと」アフラは誠の腕を掴むと、グィと引き寄せ耳元に囁く。

 「イフリータを救えるのはアンタだけさかいに」真顔のアフラ。

 「…はい」

 神妙に肯く彼の肩をポン、と軽く叩き、アフラはシェーラに振り返る。

 「ほら、シェーラ。誠はんに言うことあるの違います?」

 ニヤリ、微笑む死の天使。

 「何か? シェーラさん?」

 途端にシェーラは顔を真っ赤にさせる。怒っているのか、はたまた…

 「なんもねぇよ! どちくしょ〜」あさっての方向へ駆け去っていく。

 「ど、どこいくんですか。、シェーラさん!?」

 「トイレだよ!」

 「…いらんことしてもうたかな?」アフラはシェーラの後を追う。

 と、思い出したように誠に振り返った。

 「誠はんさえ良ければ、エルハザードの大学院は歓迎すると思いますえ」

 「え?」

 「まだまだ先のことどすが、考えてみておくんなまし」

 ウィンク一つ、アフラはゆっくりとシェーラの後を追った。

 「大学院…ねぇ」

 「おい、誠」腕を引っ張られ、誠はそちらに意識を戻す。

 「何です? ファトラさん?」

 「みやげ物をちと買い忘れた。付きおうてくれ」

 「え…はい。でも菜々美ちゃんやイフリータの方が感性はええで」

 「良いのじゃ!」

 誠は王女に問答無用で引っ張られて行く。

 「誠?」

 その姿を追おうとしたイフリータの前に、イシエルが立ちはだかった。

 「?」

 「ま、今はあの王女に誠を貸してやってくれないか?」

 「…誠は私のものではないが」困った様にイフリータ。それにイシエルは苦笑い。

 「ああ、その通りだ。ま、取り敢えず今は二人きりにしてやってくれ」

 「??」

 イシエルは首を傾げるイフリータの手を引いて皆の所へ戻って行った。




 「36500円になります」レジの若者がそう告げた。

 「またえらくたくさん買いましたね〜」

 「まぁな。姉上はみやげ物にはうるさいのじゃ」

 手提げ袋を受け取り、ファトラは苦笑する。

 「ニュースで法廷の映像やってましたけど…いつもあんな感じなんですか?」

 「わらわもあんな姉上、初めて見たわ」

 待ち合いロビーへ戻る道すがら、二人はニュースの映像を思い出していた。

 同じシーンばかり放映されるので本人を知らない誠は、あれがルーンその人なのかと思ってしまいがちだ。

 ふと、誠は隣を歩いていたファトラが居ない事に気付く。

 「どうしたんです? ファトラさん」

 誠は後で立ち止まるファトラに振り返った。

 彼女は窓の向こうを見ている。

 右手には滑走路を一望できる一面のガラス張り。

 1F,2F,3Fと吹き抜けになっているこの通路は国を出て行く者,やって来る者、そんな者達が交錯する異国の香りのする場所だった。

 ゴゥ…轟音を響かせて飛行機が飛んで行く。

 「広いと思わんか、誠」

 「?」誠は窓の外を見つめるファトラを見る。

 彼と同じ容貌の彼女はしかし、やはり彼とは本質的に異なっていた。

 「ここから世界に飛び出す事が出来る。果たして戻って来れるか,いや、旅人は戻る事は考えてはならぬであろうな」

 「ファトラさん、一体どうしたんです?」突然の言葉に、困った顔で誠。

 「生きている限り、また会える,そうは思っても会えるとは限らぬ。その時その時を大切にしなくてはいかぬぞ」そう言って振り返るファトラは誠よりも数歳、大人びいて見えた。

 「はい…」言葉の意味は分かりつつも、何故そんな事を言うのか理解できない,そう言った表情で誠は頷いた。

 「この手から次々に零れ落ちる『時』は、決して元に戻るものではない,だからといって、零れ落ちるものを止める事はできぬのじゃ,じゃからしっかりと今を味わわなくてはいかんのだ,後悔せぬ様にな」

 しかし誠は小さく首を横に振った、それは否定ではないが。

 「零れ落ちるという事は、新しい『時』をその手に注いでいるからでしょう?」

 「…ああ」

 「なら、その新しい時にも目を向けるべきじゃありませんか?」

 「そうじゃな」優しく微笑んでファトラは頷いた。

 『エルハザード行き 102号に御乗車のお客様。ゲートより御入場下さい』

 アナウンスが響く。それはファトラ一行が乗る機だ。

 「さ、ファトラさん,時間ですよ」

 誠は軽く微笑んでファトラに背を向ける。

 と、彼の上着が軽く引っ張られた。

 「ん?」

 トッ…

 背中に、ファトラの額が当たる。

 トサリ,彼女の手にしたみやげ物の入った手提げ袋が、床に落ちた。

 「ファトラさん?」

 「…でいい」

 「え?」

 「今だけで良い,今だけは、わらわの事だけを想ってはくれまいか?」

 きつく、彼の背中に顔を埋めて王女は呟く。

 「…ファトラさん」

 ゴゥ,真横をジェット機が飛びさって行く。

 永遠の一瞬。

 「なぁんてな!」

 ドン

 「うわ!」

 背中を突き飛ばされる誠。たたらを踏んで慌てて後ろを振り返った。

 「何すんです!」

 「冗談に決まっておろうが,エルハザードが王女ともあろう者が、お主のような下賎を相手にするとでも思ったか!」

 ニタリ,無理な笑みに左右非対称な表情の彼女。

 その瞳は赤く潤む。

 「…さようなら、ファトラさん」

 「ああ、さらばだ」

 似て異なる二人は僅かに目を合わせる。

 ついと目を逸らした女の方は男の脇をゆっくりと歩いて通りすぎ…

 やがて彼女は半ば走る様にしてゲートで待つ仲間達の元へと戻って行った。

 「旅人は戻る事を考えぬ…か,でもな、ファトラさん」

 男は振りかえる事もないまま、左手のガラス張りの向こうを眺める。

 飛行機が一機、離陸する。

 「戻るところがあるからこそ、旅人なんやで」




 その日、ファトラ王女は帰国。ルーン女王の命により外務官長として就任したという記事が翌日の新聞を飾っていた。

 彼女の晴れ姿を飾る写真は僕の知るファトラさんではなく、一国をその小さな背の後に控えた強い女性のものだった。

 そしてそんな彼女を支える様に、黒服姿のシェーラさん、アフラさん,そしてイシエルさんの姿も映っている。

 遠い世界へ行ってしまった,そう思う。

 きっと僕達の道が再び交わる事なんてないだろう。

 あるとしたら…それは余程数奇な運命でなければならない。

 「フラリとここに立ち寄った旅人なんやな」

 僕はそう呟いていた。寂しいとは思うが、それだけだ。

 ファトラさんの言う通り、僕達はその時その時をしっかりと感じて過ごして来たから。

 だから懐かしいこの想い出を抱きつつ、もっと大切な今を感じて生きていこう,そう思うんだ。



2 Autumn 終 



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