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 イフリータの朝は遅い。

 「じゃ、出かける時は鍵をしっかり閉めるんやで」

 「まこっちゃん! 遅刻しちゃうわよ!!」

 「ほな、行ってくるわ!」

 「…いってらっしゃ〜い」

 駆け足で出て行く少年と少女の背を、玄関から見送るは一人の女性。

 大き目の青いパジャマを羽織るその肩口からは白い肌が露わに見えるが、隠そうとする気配もない。

 ボサボサの寝癖でからまったウェーブの掛かる長髪の間から、今にも閉じてしまいそうな二つの瞳が覗いている。

 バタン

 二人の背は玄関の戸が閉まる事で見えなくなった。

 「…ん〜」

 頭を一掻き。彼女はクルリと方向を変えると、庭先の見える縁側のある部屋へと向かった。

 ガラリ

 戸を開けると朝の清々しい風が彼女の頬を撫でる。

 燦燦と眩しいくらいの朝日が庭と縁側を照らしていた。

 彼女は縁側に腰を下ろすと、大きく背伸び。そして…

 コテン,縁側に寝転んでしまう。

 同時に規則正しい寝息が、スズメの囀りの中に溶けて行った。




 その日は朝から燃えていた。

 「負ける訳にはいかんのだぁぁ!!」

 朝のHR,担任の藤沢センセはそう、皆の前で絶叫。

 来る5月下旬に行われる体育祭。

 その出場種目の選手選定を行っているのだ。

 「何だか、すごいやる気ですね,藤沢先生」クァウールさんが小声で僕に尋ねる。

 「ええ、何でも隣のD組と勝負する約束したらしいですわ」

 「勝負?」そのキーワードに、やはり小声でシェーラさんが尋ねてくる。

 「D組担任のミーズ先生と。負けたら本格的に付き合うそうや」

 今朝、情報通の菜々美ちゃんから仕入れた情報を公開。こういうネタを菜々美ちゃんは何処から仕入れてくるのか不思議ではあるが、聞いておくと何かと便利なことが多い。

 「ああ、だから昨日、あんなに喜んでいらしたんですね」ポンと手を打ち、クァウールさん。

 彼女はストレルバウ博士宅にミーズセンセとともにホームステイしている。

 ミーズセンセとクァウールさん,そしてストレルバウ博士は遠縁に当たるそうである。全然似てないけど、というか似ちゃいけない,絶対!!

 「喜ぶって…そりゃアタイ等が負けるってことか?」怪訝そうにシェーラさん。

 「遠回しに…そうかもしれません」その気配に気付いたクァウールさんは遠慮がちにそう答えた。

 ドンドン!

 教壇を叩く音で僕達は前に向き直る。同じように他のクラスメート達も姿勢を正した。

 前には学級委員長の陣内。その隣では藤沢センセが云々唸っている。

 「ええ、まずは100mそうだが…」

 黒板に出場種目を列挙した学級委員の陣内は、傍らで騒ぐ藤沢を無視し黒板をモノサシで叩いた。

 「…出席番号順にテキト〜でいいな」サラリ、言う。

 「「待て待て待てぃぃぃ!!」」

 当然の如く2つの声がハモり、陣内に詰め寄った。

 「俺を見捨てるつもりか,陣内!!」と、藤沢センセ。すでに公私混同モード発令中。

 「勝負なんだぜ、勝負!! 絶対勝ってやるぜ!!」こちらはシェーラさん。勝負と言う言葉が好きなようだ。

 2人は同時に叫び、そして…

 顔を合わせて頷き合うと、がっしりと手を結んだ。

 「…出席番号順で良いと思う者,挙手を」

 男らしく完全に二人を無視した陣内の言葉にシェーラさんは挙手どころか裏拳発動。

 「ぐはっ!! 何故私がこんな目に…」陣内は鼻血を吹きながら呆気なく撃沈した。あ、誰んも助けに行かんし…。

 「勝つ勝つ勝つ! 良いか、野郎共!!」彼のモノサシを奪い、シェーラさんは黒板を叩いて喝を入れる。

 「もしも勝てたら歴史の成績を、5にしてやるぞ!!」こちらは藤沢センセ。

 「「…」」

 が、しかし、クラスの皆は冷めていた。

 「それだけじゃ…な」尼崎の呟きが,妙に大きく教室に響いた気がする。

 「…なら、優勝できた暁にゃ、アタイがデート(死語?)してやる!!

 「「ええ?!」」

 シェーラさんの言葉にどよめく教室。同じ『ええ?』であっても色んな種類の『ええ?!』が合ったということは説明するまでもないと思う。

 なお、シェーラさんは暴力的なところをひっくるめても、男子にそこそこ人気はあるようだ,不思議に。

 「でもそれじゃ、女子はどうしましょう??」クァウールさんの意見にクラスの女子から賛同の声が上がる。

 ?? ちょっと待った! シェーラさんの意見は通ったっちゅうことかい!!

 そんな僕の心の叫びは虚しく、彼女の問いに藤沢センセが答える。

 「オレがデートの相手を…」

 「「死ね!!」」一斉攻撃。

 「うぉ! 物投げるな!!」

 「そうだなぁ…おい、誠!」

 「はい?」シェーラさんが僕の名を呼ぶ。嫌な予感がした。

 「誠とデートってのはどうだ?」

 「「ええ?!」」

 この『ええ?!』は賛同的な女子のものと、敵意のこもった男子からのものの二種類をはっきりと感じたんやが…

 「ちょっと待ってな! シェーラさん!!」慌てて止めるが、

 「はい、決まりな。まずは100m走は…」無視される。

 「50mを4秒で走る相田が良いと思いますぜ、姉御」シェーラにそう耳打ちするは…

 「尼崎ぃ!」

 「じゃ、次の棒高跳びは?」

 「陸上部の永田さんが良いと思いますわ」

 「ク、クァウールさん!!」伏兵はすぐ傍にいた。

 「だって…やっぱりやるからには勝たないと」

 「ぼ,僕はどうなるんです?!」

 「ですからその為に勝つ、じゃなかった,クラスを見てください。皆やる気ですわ」

 慌てて言う彼女の言葉通り、次から次へと積極的に種目選手が決まっていく。

 何やら異様な熱気に包まれながら…




 「!?」

 およそ二時間後のa.m.10時。唐突に彼女は起き上がった!

 彼女の周りで同じようにまどろんでいた数羽のスズメが、驚き慌てて飛び去る。

 彼女は周囲をゆっくりと見渡し、頭を一掻き。本日二度目。

 「また二度寝をしてしまったようだな,フッ…」

 誰が見ているわけでもないが、何故か妙に芝居がかった調子で独り言を吐く。

 「…・・着替えるか」

 立ちあがり、大きく背伸び。

 彼女の見上げる太陽は中天へと差し掛かろうとしていた。

 「ここへ来て、もぅ一ヶ月ちょっとか」

 厳しい目をして、彼女は呟く。

 記憶を失い、思い出せたのは自分自身の名前。

 あとは…何故か誠に対する特別な気持ちだけ。もっとも後者の方は彼女自身、言葉にしにくい気持ちであることも手伝って彼には伝えていないが。

 「今日は…そうだな、あの桜の木にもう一度行ってみよう」そう呟き、彼女は立ちあがった。



 今朝、誠が摂ったのと同じ簡易的な朝食,菓子パンに紅茶を胃に詰め込むと、イフリータは家を出る。

 足の向き先は桜ヶ丘,誠の通う東雲高校の裏手の小さな山だ。

 ”もしかしたら誠に会えるかもしれないな…どんな風に授業を受けてるんだろう? 父兄参観とかあったら良いのにな”

 そんな事を考えながら歩く事20分。

 東雲神社の境内へと続く石段が、木々に囲まれて上へと伸びている。

 桜ヶ丘はその中腹に同祖神を祭った東雲神社が立てられている。神社とは言ってもむしろ祠に近く、神主は近所のおばさんが時々掃除している程度のものだ。

 イフリータは石段へと足を伸ばす。

 足を踏み入れた途端、何とも言えない懐かしさが彼女の胸に込み上げた。

 ”…なんだろうな、もぅ何年もこの場所にいたような…そんな気がする”

 一歩一歩,確かめるように石段を登る。

 やがて人気のない小さな社の前に出た。彼女はその横を通り過ぎ、獣道に近い林道を上がる。

 「…・・」

 木漏れ日が彼女の肩口を、髪を照らす。初夏を感じさせるやや湿気を帯びたその日差しは、樹木の緑色の洗礼を受け爽快感を以って彼女を包んだ。

 彼女の視界が唐突に開けた。

 「着いた…」溜息と伴に言葉が漏れる。

 目の前には大きな桜の木が一本。ちょっとした広場を形成したその場は前にいた時と情景が変わっていただけだった。今は桜の木にあるのは桜色ではなく緑色だ。

 ここは誠と出会った初めての場所。

 ”そう、初めて…の?”

 桜の木を見上げ、彼女は心の言葉に疑問。

 「誠と出会ったのはこの時が初めてなのか?」その言葉は風に揺れた桜の葉擦れ音の中に消える。

 もう一度彼女は桜の木を見上げた。

 「!?」

 不意に、彼女の脳裏に一つの映像が流れた!



 セピア色の風景。満月の光が燦燦と降り注ぐ中で一人、散り行く桜の木を見上げる着物姿の若い女性,まるで幽玄のような雰囲気を纏う彼女は…

 彼女自身だ。

 その後ろ、麓に見えるは今の東雲高校ではない。木造平屋の建物と空き地のような校庭。

 住宅地はなく、のどかな田園が風景が広がっている。

 瞳に悲しみのみを湛えた彼女自身は、桜の木に向かって語り掛ける。

 『もう一度だけ、貴方に会いたい。約束を、信じてます』



 映像はやはり唐突にフェイドアウトする。

 「…何だ、今のは?」

 立ち竦むイフリータ。彼女は桜の木へ向けていた視線を後ろへと振り返った。

 眼下に見えるのは木造の建物や田園風景ではなく、鉄筋コンクリートの東雲高校と所狭しと続く住宅地。

 「一体? うっ!」

 胸に激痛を憶え、イフリータはその場に崩れるように座り込んだ。

 同時に思い切り咳き込む。

 「…?」口に当てた掌を、何か粘り気のあるものが濡らした。

 青い、鉄の味のする液体。

 「血…か? これはどうなって…」痛みの引き始めた胸を押さえて、彼女はゆっくりと立ちあがる。

 暑いはずの日差しに彼女はしかし、小さく震えていた。




 3000頁はあろうかというまるで漬物石のような書籍を、その細い腕で棚に戻す。

 「課題もこれでようやく終わったわ」窓を見ると空が赤くなっていた。

 「夕食の当番はシェーラやったな。あの娘のこと,コンビニのモンを並びかねんわ」

 一人苦笑し、彼女は書き終えたレポート用紙をクリアーケースへと詰め込み、立ちあがる。

 東雲高校と東雲大学の裏手にある図書館。

 アフラは帰路へと就こうとした時、彼女を見つけた。

 『東雲市の歴史』のコーナーで調べ物をする女性。長いウェーブのかかった髪を持つファトラが見つけたなら絶対声を掛けそうな美女だ。

 アフラは足を止め、彼女に見入る。

 しかしながら目的はファトラとは違う。

 ”なんや、あの人,人間やおまへん…聖霊,いや、幽霊か…”ゴクリ、息を呑む。

 一心不乱に調べ物をする彼女に、アフラは警戒しながらゆっくりと歩み寄っていった…・・




 暮れいづむ校庭のトラック。

 運動部もすでにぼちぼち帰り始めている東雲高校のそこで、一人の男が走っていた。

 足取りは千鳥足,表情は朦朧としている。

 と、その男の後ろから猛烈に駆けてくる赤い影が一つ。

 「オラオラ,誠ぉ! あと一周,気合い入れろぉ!!」

 「ま、まだ一周残ってんですか?!」

 「もう一周増やすか?」

 「…何でこないなことになってしもうたんやろ」

 情けない声がトラックに響いた。

 時は朝の事。

 「二人三脚…」一人一種目は出場しなくてはならない体育祭,運動は余り得意ではない誠は二人三脚を担当することとなった。

 そして相方は…

 「誠か,結構点数が高い種目だ、手を抜くなよ」

 …シェーラだった。

 そして放課後の彼女との模擬練習が、全ての事の始まりである。

 尼崎に言わせるところの「金魚のフン」という言葉が、最も的確であった2人のコンビネーションだったようだ。

 「ほらほら! さっさと体力つけろよ!! 明日もやるからな!」

 「ひぃ〜」

 まだまだ一日は,終わらない…・・


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